夜の森
緊急時の訓練当日。
夜を明かすものになるため、できる限り短い時間で訓練を終えるためには夜に出て夜を明かす必要があるのだ。
もう一つ、今回の訓練では夜の森をひるまず進めるかどうかという確認が含まれた。
まだ成人していないエレナがそこまでする必要はないのだが、エレナができる限りのことをしたいと言い張ったのである。
夕方、軽食をとったエレナは、準備を整えて出発の時を待っていた。
今回、できるだけ使わないようにすることになっているが、念のためにと、小さいカバンを一つ持っていくことになっている。
中には果物、予備のナイフ、マッチ、ロウソク、笛が入れてあり、リタイアする時は笛で合図をすればよいことになっている。
リタイアする気のないエレナは笛を首から下げたりはせず、カバンの中にしまい込んだ。
エレナは護身術でナイフを使うようになってから、きちんと見えない位置にナイフを隠し持っている。
そのため、本番で使うのは基本、このナイフだけで、カバンの中身に頼らず訓練を乗り越えるのが最大の目標となる。
そうして出発の時間を迎えたエレナは、時間に合わせて来たクリスに見送られて馬車に乗り込んだ。
馬車には騎士団長も同乗する。
そして二人を乗せると馬車は森に向けて走り出した。
その後ろに別の馬車がついてくるが、こちらには騎士団員たちがすし詰め状態で乗っている。
「いよいよでございますね。日が落ちてからの外出は経験ございませんでしょう」
「ええ、ないわ」
窓の外を気にしつつ、騎士団長に返事をする。
ここで移動をしながら最後の確認をすることになっているのだ。
声をかけられたので説明が始まると察したエレナは、体を正面に向けて騎士団長の方を向いた。
騎士団長はそんなエレナに説明を始める。
「今日は追手が来るわけではありせんが、敵や動物から逃げてどのように隠れるのか、ご自分で判断して、そこで夜が明けるまで過ごしていただきます。クリス様は実際に騎士たちを敵と見立てて逃走、食べ物の調達、見つかった場合は戦闘をしながら過ごされましたが、実際の戦でも騎士でなければそのようなことに巻き込まれることは滅多にございません。まずは夜の闇の中を一人で過ごすことができるかどうか、今回はそれが訓練のメインです」
「私は夜の森で、自分で考えて安全に行動すればいいのね」
「はい。そして私たちは本当に危険と判断される場所に、あらかじめ待機して野営をしております。体調が悪くなったり、怪我をしたり、身の危険を感じたり、獣などが現れたりしたら遠慮なく声をあげ、笛を吹いて私たちをお呼びください。基本的に手伝いはいたしませんが、呼ばれたらすぐに駆けつけます」
「わかったわ。でも、獣って本当は自分で対応しなければならないのよね?」
騎士団が近くにいるのだから身の安全は保障されたようなものだ。
これは訓練だし、夜に慣れることが目的と言われているのだからそうなのかもしれないが、本当にそのような事態になったら人を頼ることはできないはずだ。
エレナはそう考えて騎士団長に確認をした。
「……そうですが、今回の訓練でそこまでのことをする必要はございません。エレナ様に怪我を負わせるわけにはいきませんし、そのような訓練は、必要になりましたら成人後に検討されますから……」
「そうよね……。確かにキズモノになってしまったら、政治的な利用価値が下がってしまうもの。そうならないよう気をつけるわ」
何かに納得したようにエレナは言葉を返して、窓の外を見た。
確かに顔や身体に傷がついたり、怪我で動けなくなったり、死んでしまったりすれば、エレナの将来に影響する。
だがそれは、その傷を引きずって生きなければいけなくなるエレナ自身の未来が暗くなるということであって、どこかの重鎮貴族たちのように、隣国との関係を築くためにエレナをより良い条件で差し出そうとかそういう話ではない。
エレナは、両親である国王や王妃も自分をそう扱うために置いていると思っているように見える。
「エレナ様……」
騎士団長はエレナの言葉を否定しようと呼びかけたが、訓練の前に余計な話をして、エレナの意識が訓練以外に向くのは良くないと判断して、黙ることにした。
エレナは騎士団長の呼びかけに気がつかなかったのか、話が終わってから窓の外に意識を向けたままなのだった。
そんな話をしているうちに馬車は森の入口に到着し、停車した。
騎士団長にエスコートされて馬車を降りたエレナは、あたりを見回して言った。
「外って、こんなに暗かったのね。何があるのかよくわからないわ」
「目が慣れてくれば見えてきます。それまでは一緒におりますからご安心ください。命に関わるようなことは起こらないと思いますが、緊急時には騎士から声をかけることもありますのでご了承ください」
馬車でのエレナの返事が不安だったため、騎士団長はエレナにそう告げた。
エレナが身の危険を自分で知らせてこないかもしれないと感じたのである。
エレナの答えは、倉庫に引きこもった時と重なって見えて不安を覚えたのである。
騎士団長は近くにいた護衛騎士に、開始の伝達の際、エレナが声を上げなくても緊急時は率先してエレナに手を貸すことを躊躇わないように念押しするよう、待機している騎士にこっそりと伝えた。
そんな騎士団長の心配をよそに、エレナは馬車に手を置いて真っ暗な中を歩いていた。
エレナの足音が止まったため、騎士団長はずっとついていたかのようなそぶりでエレナの側に戻った。
目が慣れてきたのか、森の入口の見える位置で足を止めたエレナは入口の方を見つめていた。
「そう……。ここから私は一人で森へ入るのね」
「そうなります」
「ちなみにエレナ様、ここがどこはかはわかりますか?」
「そうね……。あの入口に見覚えがあるわ。先生たちと待ち合わせをした森の入口ね」
「それはよかった」
それが分かるくらいにエレナの目が夜に暗闇に慣れてきたということだろう。
騎士団長も気持ちを切り替えて言う。
「では、エレナ様の心の準備ができましたらお伝えください。騎士たちに開始を伝えます」
「あら、どのように伝えるの?」
「伝令です。ここにエレナ様がいることを、民に知られるわけにはいきませんので、大きな音で伝えることはいたしません」
「じゃあ、私も人に会わないようにしなければならないわね」
「はい。人にも獣にも会わないよう、周囲に気を配りながら夜を明かしてください」
ちなみに森に人がいないのはすでに隠れて待機している騎士たちが確認していた。
だが、エレナにその話をして気楽にやっていいとは言えない。
エレナは真剣なのだ。
そして騎士団長はエレナに最後の確認をする。
「エレナ様、まだ始めてません。おやめになってもいいのですよ。場所を探すところからというのは、成人して何年も経った貴族女性が行う訓練より高度なものです。こちらで洞窟をご案内してもいいのですよ?」
念のため洞窟の候補なども騎士団長は頭に入れてある。
そこにエレナを押し込んで姿が見えないように周辺を警備する形に切り替えができるようにしているのだ。
だがエレナは首を横に振った。
「いいえ。いずれはお兄様のような高度なこともしなければならないのでしょう?それに、私にはできると信じて配置についている騎士たちに申し訳ないわ」
「エレナ様……」
「行ってきます」
エレナがそうはっきり告げて騎士団長に背を向け森に入ると、騎士団長は伝令に走らせる騎士たちに合図を送った。
こうしてエレナの訓練は開始されたのだった。




