お菓子作り
刺繍の落ち着いたエレナは、職人に言われた通り腕を落とさない程度に嗜むことにして、もう一つ気になっていた料理を覚えようと家庭教師に相談した。
「お料理ってどのように覚えたの?」
「私でございますか?うちには専属の料理人などおりませんので、自分で作らなければなりませんでしたから、自然と覚えました。幼い頃から台所に立つことも多かったもので……」
貴族の家の者が皆、料理人を雇えるわけではない。
人件費を削減するために、できることは自分たちで賄っている。
料理のできる女主人であれば自身でこなすことも多い。
彼女の家もそのような家系だったのだ。
「そうなのね。私が覚えるためにはどうしたらいいのかしら?」
「そうですねぇ……料理長に相談してみるのがいいのではないでしょうか?日頃料理人を育てておりますし、教え方もきっと上手なのではないかと思いますよ」
「そうね。その道の専門家に聞くのが一番だわ。刺繍の時のように基礎を教えるのが苦手ということも考えられるけれど……」
職人として入ってくる人はすでに基本的なことはできるようになっているから、初歩的なことを教えるのは難しいと料理長にも言われるのではないかとエレナは危惧したのだ。
「でも調理法の簡単な料理というのもきっとございますから、そういう料理を一品作れるようになれば自信も出るのではないでしょうか?それにせっかく作るのなら方法だけではなく、より美味しいものを作れるよう、味にもこだわるといいと思いますよ」
そう言われてエレナは今まで食べてきた料理を頭に思い浮かべた。
「確かに、見た目が不思議なものでも美味しいものはたくさんあるし、きれいな方がいいけれど、見た目がきれいだから美味しいというわけでもないものね。でも、私は自分が食べるのなら見た目も大事だけれど美味しいと感じられるもののほうが嬉しいわ」
毎日おいしい料理が食べられているのは間違いないし、少なくとも自分の口には合っている。
知らない人に知らないレシピを習うより、食べ慣れたものを作れるようになる方がいいだろう。
家庭教師の助言を受けて、エレナは料理長のところに行くことを決めた。
「そうですね……いきなり調理と申されましても……」
アポを取ったエレナは料理長を訪ねて調理場に足を運んでいた。
周りをせわしなく動く料理人たちを見ながら、入口で立ち話をしている状態だ。
本来であればもてなさなければならないのだが、エレナが普段の様子を見たい、邪魔はしたくないと申し出た結果、このような井戸端会議のような状態になっているのである。
料理長からしたら早くエレナに座ってもらうなり、戻ってもらうなりして、不敬と取られないようにしたいところだ。
「何か私にもできる簡単なものというのはないのかしら?」
「そうですね……。お食事のお料理ではなく、お菓子から、ということでしたら……」
「まあ、お菓子を作ることができるの?」
料理というので、食事ではないものを提案することを躊躇っていたが、料理長が想定しないくらいエレナの反応が良かったため、このまま話を進めることにした。
「はい。焼き物のお菓子などは材料を混ぜてオーブンで焼くというのが基本です。たくさんアレンジをすることもできますし、長時間煮たり焼いたりする間、かき混ぜたりひっくり返したりという手間はありません。たまにオーブンの焼き加減を見るだけですし……。何より簡単なものは刃物を使いませんから安全です」
「わかったわ。まずはお菓子を作れるようになろうと思います。教えてもらってもいいかしら?もちろん空いている時間で」
「かしこまりました」
エレナは快諾されて嬉しそうに厨房を後にした。
料理長は話がまとまると大きく息を吐くのだった。
「本日はメレンゲを焼いてみましょう」
料理長が考えたのはメレンゲクッキーである。
卵白を泡立つまで混ぜるのは大変だが、このような単純な作業はお菓子作りだけではなく、料理作りにもたくさん出てくる。
疲れはするが、怪我はしにくいのでちょうどいいだろう。
「最初からたくさん作ると大変ですから少量を作ります。分量と作り方は後ほど紙に書いてお渡ししますから、まずは実践しましょう」
「はい」
そうして、エレナは調理器具の名前を教えてもらい、料理長指導のもと、卵一つ分のメレンゲクッキーを完成させた。
「お菓子を作るのは楽しいわ。自分で作ったものは、ちょっと焦げてしまったりしたけれど、それでもなぜかとても美味しく感じられるの」
料理長にお菓子に合う紅茶を選んでもらい、出来上がったメレンゲを口に運びながらエレナが言った。
「ご満足いただけてようございました」
卵白が泡立つまで混ぜるところで諦めるかもしれないと思っていたが、エレナは文句を言うことなくひたすら泡だて器をふるっていた。
だんだん余裕がなくなってきたのか口数が少なくなっていったものの、真剣に打ち込む様子に料理長は感心していたのだ。
「他のお菓子も作ってみたいわ。迷惑じゃなかったらまたお願いしてもいいかしら?」
「かしこまりました。またお声がけいたします」
こうして徐々にエレナはお菓子作りにのめり込んでいくのだった。
「エレナ、こんなところで何をしているの?」
エレナを探してクリスが調理場にやってきた。
「お兄様!私、料理長にお菓子作りを教えてもらっているの」
「だからこんなにいい匂いがしているんだね。料理長のお仕事の邪魔になっていないかい?」
エレナが調理場に通って料理長と一緒にお菓子を作るようになったことを聞いていたクリスは料理長に尋ねた。
「クリス様、大丈夫でございます。こちらの都合の良い時にエレナ様に声をかけさせていただいておりますから……」
「うん、それならいいんだ。これからもよろしくね」
「かしこまりました」
料理長はクリスの天使のような微笑みに癒されながら、しっかりとオーブンに目を配った。
「エレナ、今日はケインが家でお茶をしているから、エレナも落ち着いたらおいでって呼びに来たんだ」
「エレナ様、行っていらしたらどうですか?後は時間になったら取り出すだけでございますから」
「でも、途中でやめるなんて……」
厨房はクッキーのいいにおいが充満しているのだ。
もうすぐ完成することは解っている。
だからこそ、完成まで見届けたいとエレナは躊躇った。
「エレナ、ケインには少し待ってもらうように言うから、作り終わったらおいで。料理長、エレナをお願いしますね」
「かしこまりました」
料理長はそう言い残して立ち去るクリスを礼をして見送ってから、エレナの方に向き直った。
「では、エレナ様。こちらのクッキーですが、できましたらまずここで味見をされて、美味しく焼けていたら、お二人にも差し上げてはいかがでしょう。お持ち帰りのための袋などもご用意いたしますよ」
「もらってくれるかしら?」
「はい。きっとお喜びいただけると思います」
そう言いながら料理長は手際よく袋の用意を始めた。
「料理長以外の人に食べてもらうのは初めて……。緊張してきてしまったわ」
「できましたら味見して持っていくのです。納得がいかなければお出ししなくてもいいのですからそこまでの心配は必要ないかと……」
「そうね。いずれは誰かに食べてもらえるものを作れるようになりたいのだもの。食べてもらう覚悟も必要よね」
勇気を出して二人に食べてもらう決意をしたエレナに料理長は言った。
「エレナ様、それは我々料理人と同じ気持ちでございますよ」
「そうなの?」
「我々も自分が美味しいと思っている料理を提供しておりますが、その方のお口に合うかどうかは食べていただかないとわからないのです。ですから、もし美味しくないと言われたらといつも不安に思っているのです」
特に貴族はおいしくなくてもそのようなそぶりを見せることはしない。
それに味覚は人それぞれ違う。
きちんと伝えないとどう感じているのか分からず、不安なのだろう。
「いつもここの皆の作ってくれる料理はとても美味しいわ。当たり前になってしまっていたけど、皆、心配していたのね。たしかに言葉にされないと相手の感じたことはわからないかもしれないわ」
エレナが言葉に出すと、料理長は笑顔になった。
後ろではエレナと料理長の様子をうかがっていた料理人たちも顔を見合わせて喜んでいる。
「はい。今その言葉を聞いて我々は安心いたしました。これからも美味しく召し上がっていただけるよう、精進してまいります」
「私も毎日美味しいものが食べられて嬉しいわ。みんなもありがとう。これからも楽しみにしているわね」
料理長だけではなく、離れたところにいる料理人にもエレナは笑顔でそう言葉に出したのだった。
「初めて作ったけど、ちゃんと味見もしたわ。美味しくできたのよ!だから、その、食べてみてほしくて……。受け取ってくれる?」
できたクッキーの熱を少し取ってから、料理長の用意してくれた袋にクッキーを分け、クリスとケインに渡した。
「もちろんだよ!すごくかわいいし、とてもいい匂いがする。せっかく包んでくれたけど、開けて食べてみていい?」
お菓子を作っていることを初めて知ったケインは驚いていたが、エレナが自分にもクッキーをくれたことを喜んで言った。
「うん」
エレナは緊張しながらケインが口に運ぶのをじっと見守っていた。
「どう?」
恐る恐る聞いたエレナに、ケインは笑顔で言った。
「おいしい!」
「よかった!まだ勉強中なの。いつかは一人でも作れるようになりたいわ」
ケインに褒められたエレナは、目を輝かせて笑顔になった。
そして同時においしいと言われたことに大きな喜びを感じるのだった。




