刺繍
刺繍の授業初日。
エレナは自分が素敵なレディに近づくための一歩を踏み出せると考えて興奮していた。
「エレナ、今日はずいぶんと上機嫌だね」
「はい。お兄様が学校で勉強をしている間に、貴族女性の嗜みを学べることになりましたの。お兄様とケインに負けないよう励みたいと思います」
「あのね、エレナ。私たちは貴族女性の嗜みについては勉強しないと思うんだ。だから勝ち負けって言われても困るかな……」
「それは解ってるけど、学校に通う貴族女性たちは、学校が終わってからお勉強されているというの。それを私は先に勉強してしまうことになったのよ。だから、学校に行けるようになったら、彼女たちよりも長く学校にいられると思うの」
ここで頑張っておけば少しでも長く学校に居ることができて、自分たちと同じ時間を過ごせると考えているエレナを微笑ましく思いながらクリスは言った。
「エレナは本当に学校に行くのが楽しみなんだね」
「もちろんよ。早くお兄様やケインと一緒に家を出てみたいわ。いつもお見送りだから置いていかれている気がして……」
「大丈夫だよ。エレナを置いてどこかに行ってしまうようなことはしないから。ね」
エレナは黙ってうなずいた。
「じゃあ、もう行くけど、エレナもできることを見つけたんだから、それを頑張ってみて」
「はい。頑張ります」
エレナの裁縫の授業に来たのは裁縫の職人であった。
「私は初めから教えるということをしたことはないのですが……」
声がかかったことは光栄だが、教え慣れていないのでどうしたらいいか分からないという。
そのため、助言をした女性の家庭教師がしばらく同席して一緒に授業を行うことになった。
「よろしくおねがいします」
エレナは元気よく挨拶をした。
そして早速実践の授業である。
今日はすでに用意された針と糸、そして端切れを使って縫う練習を行う。
「まずは針に糸を通す……ところからでしょうか?」
職人は家庭教師に確認を取りながら授業を進め始めた。
家庭教師が説明を追加する。
「エレナ様、こちらが先生のおっしゃっている針、こちらが糸でございます。針は小さくとがっておりますので、落としたり、他人や自分を指してしまわないようお気を付けください。怪我をしますから危険です」
「わかったわ」
エレナは用意された針と糸を手に取った。
「針の先端から反対側を見ますと、穴があいている場所がございますね。そちらに糸を通すのでございます」
「はい」
エレナが糸を大量に引き出そうとするとすぐに止められる。
「エレナ様、糸はそんなにたくさん出しては絡まってしまいます。通してから使う分だけ引き出せばよいのです。出してしまったものは絡まる前に巻き取ってしまいましょう」
「やってみます」
糸が切れないように戻し方を教えてもらいながら、実際にエレナが糸を巻き取った。
「これで糸がカゴから出て転がってしまっても、元に戻せますね」
「はい」
全てを学びにつなげる家庭教師の言葉にエレナは再び元気よく返事をするのだった。
縫物、刺繍に必要な物の名前、糸の通し方から始まった授業だったが、基本的なことを覚えてしまうと授業の進みが早くなった。
「いよいよ刺繍でございます。デザインは時間もかかりますし、刺繍に慣れてからになります。つまらないかもしれませんが、まずは必ず使うイニシャルをきれいに入れる練習でございます」
「基礎は大事だもの。それにイニシャルはプレゼントをする時に相手のものを入れたりするのでしょう?全て使えるようにならないといけないわ。順番に全部入れられるようにしなければいけないわね」
「そうでございますね。それが理想ですが……。順番でなくとも好きなイニシャルからでもかまいませんよ?ですが今日は、直線の多く刺繍をしやすいエレナ様のお名前にいたしましょう」
「はい」
最初は針を指に刺すこともあったが、もともと器用なエレナはすぐに基本を覚えた。
刺繍を初めて一週間も経てば、学生が初めて裁縫をして、形を作れるくらいには上達した。
「あとは縫い目を美しく均等にすること、刺繍もバランス良く縫い付けられるようになるだけでございますね。こればかりは何度も繰り返し行うことでしか身に付きません」
「わかったわ」
「それにしても、エレナ様は器用なのですね。もう少し歳を重ねてから始める方が多いけれど、こんなに上達される人はなかなかおりませんよ。きっと練習を重ねればプロ顔負けの腕前になれます」
「本当?嬉しいわ!早く先生のような素敵な刺繍ができるように頑張ってみるわね」
お世辞も含めての発言だが、エレナが本気にしたようだったので慌てて職人は言葉を追加した。
このまま本当に職人を目指すようなことになってしまっては、国王や王妃に何と言っていいか分からない。
裁縫を好きになってくれるのは嬉しいが、将来の道として目指すのは止めたい。
「エレナ様はお忙しいと思いますが、衰えないように時々針をお持ちになることをおすすめいたします。服飾の専門家になるわけではありませんから、長時間の練習は必要ありませんが、使わなくなると本当に何もできなくなるという方も多いので……」
「わかったわ。維持するために続ければいいのね」
「その通りでございます。エレナ様は職人として生涯働くわけではありませんから、そんなに根を詰める必要はないのですよ」
「ありがとう。頑張ってみるわ」
この日を最後に刺繍は自主練習となり、職人は本業に戻っていった。
時々完成品を見せてもらえればアドバイスを手紙で返してくれるという。
完成品を職人のところに持ち込む仕事は同席していた家庭教師が担当することになった。
エレナはコツコツと課題をこなし、毎日少しずつ腕を上げていくのだった。
エレナは時間ができると刺繍に打ち込むようになった。
いつでもどこでも、手が空けばあまり布で刺繍をしている。
それを職人に戻った先生に定期的に見てもらってはアドバイス通りに実践を重ねていく。
何度も続けているうちに、先生からは、そろそろ端切れではなくハンカチの角にイニシャルと入れてプレゼントをしてみてはどうかという案が提示された。
布の種類が違えば刺し方も変わってくる。
端切れではうまくできても、新品の布ではうまくできないということでは意味がないというのだ。
そこでエレナは、ハンカチを何枚か用意して、そこに慎重に針を刺していくことにしたのだった。
先生の言う通り、新しい布では古い布のようにうまくいかなかった。
一針目から思ったようにいかない。
先生からは焦らず初心を思い出してゆっくりやるようにしてくださいという指示が来ていた。
エレナは言われた通り、最初にやった時のことを思い出しながら、ゆっくりと、進めていくことにしたのだった。
一枚目のハンカチの刺繍が完成間近になったある日、いつものように空いた時間、刺繍をして待っていると、クリスと一緒に下校したケインと遭遇した。
エレナは思わず手に持っていた刺繍を背中に隠した。
「慌ててどうしたの?」
ケインが尋ねながらエレナの側に寄ってくると、エレナはもじもじとしながら、後ろに隠したもうすぐ完成するハンカチをおずおずと前に持ってきて胸に抱えた。
その様子を見ながらケインがニコニコとしているので、仕方なさそうに胸に抱えた枠を差し出して、エレナは恐る恐るケインを見た。
「これ……、もしかして、俺 のイニシャル?」
ケインの目は刺繍に釘づけになっていた。
「これはまだ練習中なの……。刺繍というものを初めてしたのだけれど、うまくできなくて、ちゃんとできるようになるから、だから……」
「エレナ……様、できたらこれもらえないかな?大事にするからさ」
「だめよ。ちゃんときれいにできたのを渡したいわ」
再びハンカチを引っ込めようとするエレナに、ケインは食い下がった。
「でもこれは俺のために作ってくれたんでしょ?」
「そうだけど……」
「初めての刺繍を俺のために頑張ってくれたんだよね。エレナ様の思いがたくさん詰まっている気がするんだ」
エレナが初めて作ったものをどうしても手元に置きたい。
ケインはエレナを説得しようと思ったことを言葉にした。
「本当にいいの?」
「何が?」
「初めての手作りプレゼントがこんなのでいいの?」
「うん。それにまた作ってくれるんでしょ?」
新しいものをねだるつもりはなかったがエレナが作り直したいと言うならそれも受け取りたいとケインは思った。
「そうだけど……」
「エレナ様が頑張って作ってくれたものなんだから、これも、これから作ってくれるものも大事にするよ。楽しみに待ってるからさ」
「うん……」
こうして初めて完成したエレナの刺繍作品はケインの手元に置かれることになるのだった。




