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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

世間知らずで薄情な私は何も知らない

 暗闇に飲み込まれるまでのほんのひと時の間、空は温かな色へと包み込まれる。


 ライナスは夕陽の色を『幸せ色』と教えてくれた。明るい色を好む彼だったが、『幸せ』と付けたのは単純に好きな色だからではない。身体の弱い私の体調が落ち着く時間がちょうど夕暮れ時だったから。心配性のお父様も咳が落ち着いている日に限っては庭までなら、と外出を許可してくれることもあった。


 日が暮れるまでなんてあっという間だ。

 用意に手間取る私を急かしもせずに、ずっと待ってくれていたライナスは優しく手を差し伸べてくれた。その手におずおずと伸ばした手を重ね、向かうのは私のために作られた薔薇園。園と呼べるほど大きくはない。屋敷の一角に作られたスペースと言った方がふさわしいのだろう。けれど幼かった私にとってそれは確かに『薔薇の園』だった。



 夕暮れ色にほんのりと染まった白薔薇を大好きなライナスの隣で眺める時間は私にとっての幸せだった。



 ――幸せ、だった。

 そんな幸せは突如として崩された。

 ライナスの家が没落したのだ。

 幼い私にはなぜそうなってしまったのかが分からなかった。私が知らないだけで彼の家はずっと前からギリギリを保っていたのかもしれない。


 けれどそれにしても一夜にしても屋敷に全てを残して、人だけが消えるものだろうか。

 いや『消えた』という表現は正確ではない。入れ替わったのだ。ライナスと彼の両親が抜けたところにすっぽりとハマるようにやって来た人物がいる。


 それが商人として現れたノルマンディー一家だ。

 東方の国で公爵の地位を賜っていたのだと、この国には伝手を頼ってやってきたのだと話すノルマンディー元公爵の言葉を信じる者はおらず、誰もが彼を怪しんだ。それはそうだろう。貴族名鑑に名を連ねていなければ、その『伝手』というのが誰のことかも明かしはしなかったのだから。


 けれど『ノルマンディー家』が社交界に馴染むまでそう時間はかからなかった。それどころか彼らは巧みの話術でたちまち貴族達をすぐさま飲み込んでいった。


 その理由の一端を担うのは私の存在だった。

 ノルマンディーが初めに手に入れたのは家主を失った屋敷だけだった。

 けれどその次にすぐさま手を伸ばしたのはライナスの婚約者であった私だったのだ。


 ノルマンディー元公爵は他の貴族達と同様に怪しんでいた私の父を数日で丸め込むことに成功した。『大人達の話し合い』でどんな会話が交わされたかは分からない。

 けれど私は大好きなライナスを失ってからひと月と経たずにノルマンディー元公爵の息子、ブライアン=ノルマンディーと婚約を結ぶこととなった。



 名家であるロバート家が婚約を結んだと耳にした多くの貴族達は警戒を解いた。そろばんを弾いた結果、取り入った方が利益があると判断を下したのだろう。少なくとも対立しても得など一つもなかった。それに明らかに怪しい登場を果たしたノルマンディーだったが、決してあこぎな商売を行っている訳ではなかった。懇意にしていた商人から愛想の良い彼に乗り換えた家も多いらしい。

 身体の弱い私はブライアンと共にお茶会や夜会に出席することは出来なかったが、それもノルマンディー家にとっては都合がよかったのだろう。私が不在の間も彼らは着々と人脈を増やしていった。


 そして私が20歳になってやっと遅めの夜会デビューを果たした夜。片手で数えられるほどしか顔を合わせていないブライアンはすでに有名人となっていた。彼は多くの貴族からは羨望の瞳を向けられ、それに混ざるように私を恨むような視線もいくつかあった。おそらく私よりもここにいる彼らの方がブライアンのことをよく知っているだろう。ただでさえブライアンはライナスの居場所を奪うようにやってきた男だ。その上、婚約者に会いに来ないどころか手紙すらも寄越さない。今日のドレスだって本来ならば婚約者であるブライアンが用意すべきだったのだ。けれど彼は当日に迎えに来ただけだった。お父様が針子に作らせたドレスも褒めることはなく、エスコートの手も形だけのものだった。ドレスの私の歩幅などお構いなしにすたすたを先へと進んでいく。会場に到着すれば作り物のような笑みを貼り付けて、歩みの遅い私の手を強引に引いた。


 いきなりのことに倒れ込みそうになる私さえもブライアンにとっては都合のいい小道具に成り下がる。


 腰を支えるようにして『大丈夫ですか?』なんて心配気な表情を作って見せるのだ。


 ここにいる大勢はブライアンが装着するマスクに気づいてはいないのだろうか。


 ああ、気持ちが悪い。

 顔を歪めた私を隠すように胸元に引き寄せる。そして『ブライアン=ノルマンディー』という役者は大勢の観衆に向けて演じて見せる。


「グレイスの体調が悪くなってしまったようだ」


 役柄は『身体の弱い婚約者を心配するいい男』だろうか。

 物語に立つヒーローの行動には思わず心をときめかせたというのに、私がブライアンに対して感じるのは嫌悪感だけ。


 支えるため、もとい回収するためだけに触れられた手すらも本当は振り払ってしまいたい。けれど貴族の、ロバート家の娘という立場が足かせになって立ちはだかる。それに何よりこの場に置いて、ブライアンは私よりも優位に立っているのだ。私が屋敷で寝込んでいた間、彼もまた、ノルマンディー元公爵と同じように貴族達との交流を深めていたのだろう。少なくとも生家は立派でも友人と呼べる相手もろくにいない私よりもずっと仲間が多いはずだ。



 ブライアンに導かれるように馬車へと乗せられた。彼が御者に無言で合図を送り、ゆっくりと走り始める。小さく揺れる馬車の中に満たされるのは、行きと同じような重い空気だった。向かい合って座っているのに視線すらも合わない。息苦しさの続く、短いようで長い時間。ベッドの中から空を眺めていた方がずっとマシだ。そんなことを考えていると、目の前の男がポツリと声を漏らした。


「あんた、俺のこと嫌いだろ」


 ゆっくりと顔をあげれば、私とブライアンの視線が交わる。

 ブライアンの闇夜のような瞳は侮蔑の色を孕んでいる。


 彼が私のことを嫌っていることは何となく気付いていた。興味がないというには彼の態度は些か粗雑なものが多すぎた。たった数度しか会っていないはずなのに。だが元より政略的な婚約だ。以前『彼』に向けていた感情を向けろという方が無理があるし、相手にもそれを強要するつもりはない。


 だが今さらなぜそんなことを問うのか。

 好かれているとでも思っていたのか。


「……なぜ?」

 闇色のそれに飲まれないように強い意志を持って問い返せば、ブライアンは露骨に顔を歪ませた。


「前から薄々気付いてたけど、あんな態度を取られたら気付かない訳がないだろ。まさか温室育ちのお嬢様が十年以上かけて築いた関係を壊そうとするとは思わなかったがな」

「それは……ごめんなさい」

「やけに素直に謝るんだな」


 小さく頭を下げるとブライアンは目を見開いた。感情を隠す必要がないと判断したのか、彼の表情はコロコロと変わる。夜会にいた彼よりも今の彼の方がよっぽど好感が持てる。もちろんこんな姿を敵かもしれない相手に出すなんて貴族失格なのだが。


「思ったことをすぐに表情に出してしまうことは貴族としては欠点だから」


 私がプラスに判断したそれは貴族社会では欠点にしかなり得ない。


 ブライアンは正しい行動を取り、私は貴族として選択を間違えたのだ。


 もちろん嫌悪感云々はまた別だが。

 だがあの時の私には嫌悪感こそあれ、悪気がなかったのは事実だ。貶めてやろうなんて思うはずもない。


 ブライアンが居ても居なくてもライナスは帰ってこないのだから。

 それに、今の婚約者はブライアンだ。私自身が彼に対してどんな感情を持とうが、お父様は彼と縁を結ぶことはメリットになると考えた。だからこその婚約。それを私の勝手な判断で潰すことなどあってはならないのだ。

 もちろんいきなり強く手を引いたブライアンにも落ち度がないとは言えない。実際私はそんな態度の彼へ対する嫌悪感を募らせていた。けれどそれを他人に見られてはいけない。



『貴族ならば常に冷静たれ』

 これはお父様の大好きな言葉である。

 お父様がそれを私に直接伝えることはなかったが、幼い頃から耳にする機会は頻繁にあった。だから私もよく覚えて、そして数少ない社交の場で実行していた。


 ブライアンではないが、私もまた演者の一人なのだ。


 役柄は『名家の一人娘』

 情報収集能力は他の令嬢達よりもうんと劣ったが、その差を顔に出さなければいいだけだ。与えられた少ない情報でボロを出さないように立ち回る。ポーカーフェイスは得意だった。


 なんだ、気持ち悪いのは私も一緒じゃないか。

 ドレスの裾を軽く握りしめて、自分への嘲笑を漏らす。

 そんな私にブライアンのじっくりと観察するような視線が降り注ぐ。けれどすぐに飽きたのか、ふうっと小さく息を吐き出した。



「世間知らずかと思ったら今度は貴族として、か。……まぁいい。どうせあんたが社交界に出るのも最後だし」

「え……どういうこと?」

 ブライアンの口から発せられる衝撃の言葉に思わず身を乗り出した。ガタガタと揺れる馬車の中でいきなり立ち上がった私はバランスを失い、ブライアンの胸元へとダイブした。


「危ねえな!」

「ねぇ最後ってどういうこと?」

「どういうこと、ってあんたの家が決めたことだろ?」

「私、そんなこと知らないわ……。どういうことなの?」


 嫌いな男に縋りつくように答えを乞えば、ブライアンは顔を歪ませた。けれど先ほどと違うのは、彼の瞳を埋め尽くしていくのは憐れみであるということ。


 なぜ私は憐れみを向けられなければいけないの?


 今日は私のデビュタントではなかったのか。

 体調が良くなったから今日から本格的に社交界に参加することとなるはずだ。


 なぜ?

 答え欲しさに手に力を入れれば、ブライアンの辛そうに私から視線を逸らした。


「……知らないなら知らないままの方が幸せだろう」

「え?」


 意味ありげな言葉を残してブライアンは口をつぐんでしまった。

 悲痛に歪む顔はとてもではないが意地悪をしているようには見えず、私には何が何だか分からなかった。




 ロバート屋敷へと到着し、私が降りるのを確認するとすぐにブライアンを乗せた馬車は立ち去ってしまった。


 つい一刻ほど前なら、なんて酷い態度をとるものだ! と怒りを募らせたところだがブライアンの態度が妙に引っかかった。



 お父様は私に何かを隠しているというの?

 ブライアンには打ち明けて、私には隠す必要のある何か……。



 もしかして――。

 私はすぐにお父様の書斎へと向かった。焦る気持ちを押さえ、ドアの前でゆっくりと深呼吸を繰り返す。手を乗せた胸は大きく上下し、やがて揺れを小さくさせていく。最後に溜まった息をふうっと吐き出して視線を上げ、トントントンと三度ドアをノックする。


「はい」

「グレイスです」

 すぐに返ってきたお父様の声に少しだけ緊張して、声が震えてしまう。けれど微かな違いをお父様が気付くことはなかったらしい。


「入りなさい」

 入室を許可された私はゆっくりと足を進める。


「どうしたんだい、グレイス」

 デスクの前で足を止めるとお父様の視線は書類から私へと移る。


 なぜこんなに早く帰ってきたか、は聞かないのね。

 それだけで私が導き出した答えは真実味を帯びていく。


 やはりお父様の隠し事は――。


「お父様、私の身体はもう長くは持たないのね……」

「何を言い出すんだい、グレイス」

「隠さなくてもいいのよ、お父様。ブライアンから聞いちゃったの。私の社交界参加は今日で最後になるって。お父様が決めたことなんでしょう?」


 おそらく今日のデビュタントは死ぬ間際の娘を最後に夜会に出させてやりたかったのだろう。


 ブライアンからしてみればいい迷惑だろう。

 死に際の女の相手なんてせずにさっさと次の婚約者を探したいと思っていたのかもしれない。いや、あの様子ならもうお目当ての令嬢はいるのかもしれない。結婚することで得があると踏んでの政略結婚か、純粋な恋から始めようとしているのかは定かではない。けれどそれを私が気にしたところで仕方がない。私が出来ることと言えばこのまま退場することくらいなものだろう。正直、社交界に出られなくなることに異論はない。今までだってそこまで頻繁に出られていた訳でもなければ友人と呼べる相手もいない。貴族としての役目の一つだったからこなしていただけに過ぎない。



 けれど命が尽きることくらい教えて欲しかった。



 願いが叶うのなら、最後にもう一度だけライナスに会いたかった。



「何を言い出すかと思えば……」

「私には大事なことよ。心の準備くらいしておきたいもの」

「お医者様も快調に向かっていると言ってらしただろう。だから安心しなさい」

「ではなぜ?」

「え?」

「なぜ、私の社交界は今日で最後なの?」


 体調に問題がないのなら、快調に向かっているというのならば、デビューしたばかりの夜会から退く理由がない。


 お父様は何を隠しているの?


「お父様。お父様から見たら私はまだまだ子どもかもしれないし、デビュタントだって他のご令嬢達よりもずっと遅れているのは分かってる。でも私ももう20歳よ。子どもがいたっておかしくはないの。だから……話して」

「グレイス……」


 じっと見つめる私からお父様はつっと目を逸らす。

 馬車の中のブライアンと一緒だ。やはり隠していることがあるのだろう。


 先ほどのブライアンからは詳しく聞き出すことは出来なかったが、今度の相手はお父様だ。婚約者歴は長くともほとんど交流がなく、むしろお互いにマイナスなイメージばかり抱いていた相手とは訳が違う。会話中も挟んでいたデスクが産んだ距離すらも煩わしくなり、スタスタとお父様の真横まで足を進める。私の行動に戸惑うお父様の手をぎゅっと握った。


「教えてお父様」

 逃がさないわ、と強く念じればお父様は観念したようにポツリとこぼした。


「……約束、したんだ」

「え?」

「アイリーンと約束したんだ。グレイスは私が守ると」


 アイリーンとは数年前に亡くなった私の母である。

 だが私を社交界から遠ざけることが私を守ることへの繋がるのだろうか。


 今まで私の命が狙われたことはない。

 馬車が襲撃されたこともなければ食事に毒を入れられたこともないのだ。放っておいても社交界にはほとんど出てこないから害する必要性がなかっただけかもしれないが。


 もしも私が気付いていなかっただけだとして、それはわざわざ社交界への出入りを止める必要があるほどの危険なのだろうか。


「ねぇお父様」

 もしかして私、一生狙われ続けるの?

 そう問いかけようとした時だった。



 ――ガッシャーン

 屋敷内に何かが壊れる音が響いた。

 それに続くように使用人達の声が飛び交う。


『襲撃だ!』

 誰かの声が聞こえる。

 これは庭師のものだ。庭の薔薇が美しく保てているのは彼のおかげだ。先日60を越えたらしく、そろそろ弟子に世代交代をせねばならないと話してくれたばかりだった。


 そんな彼は怒鳴るような声を紡ぎ出す。何を発しているかまでは分からない。けれどその声が不自然に切れてしまったことだけははっきりと理解出来た。



 ある者は怒号を、ある者は泣け叫ぶ声を襲撃者に向ける。



 声の大きさからして襲撃者はまだ一階だろう。

 ここにたどり着くまではまだ時間があるはず。それにこの場にはお父様も……。頼るべき相手に視線を向ければ、そこには絶望に染まるお父様の姿があった。顔中から血の気が引き、見開かれた瞳はまるで人形のそれだった。


 お父様は襲撃者が誰か知っているというのか。


 もしや今まさに一階にいる相手こそが私の命を狙っているとでも?

 お父様に釣られるように私も恐怖に支配されつつあった。


 ――そんな私の意識を引き上げたのは乱暴に叩かれたドアの音だった。



「失礼します」

 部屋の主の返事も待たずにドアを開いたのは執事長だった。

 普段はきっちりと後ろに撫でつけているシルバーグレーの髪は荒れ、息も切れ切れだ。一目で異常事態が起きていると分かる。


「一体何があった」

「『彼』が来ました」

「やはり……。だがこんな早いとは……」

「応戦しておりますが長くはもちません! フリッツ様、グレイス様、お逃」

 避難を力強く訴えた執事長だったが、背後から聞こえた銃声と共にばたりと倒れ込んでしまった。


「俺がそう易々と逃がしてやるとでも?」

 顔から地面に倒れ込んだ執事長の背中には小さな穴が開いていて、そこからはドクドクと血が流れ出ている。多量の血は真っ黒な執事服からすぐにあふれ出て、絨毯を染めていく。


 初めての光景に叫び出しそうになる口を両手で抑え込む。けれどガタガタと震えるそれは止められそうにない。



 次に殺されるのは私だ。

 力を持たぬ一介の令嬢が銃なんてもった相手に敵うわけがない。

 逃げなきゃって思うのに手と同様に震える足は一歩たりとも動かすことは出来なかった。


 燕尾服にシルクハットと一般的な貴族の装いをした男は銃口をこちらへ向けたまま少しずつ近づいてくる。亡骸となってしまった執事からは興味が薄れたのか、避けることもせず、絨毯の一部かのように踏みつけて歩く。人の心もない化け物のような存在は身体も非常に大きく、銃を持たずとも私なんて一捻りで殺せてしまいそうだった。


 私、このまま死ぬの。

 絶望的な光景に一筋の涙が伝い落ちる。


 その瞬間――男は銃のトリガーを引いた。


 人生あっけないものだったのね。

 ゆっくりと目を閉じ、近距離から発せられた銃声を聞いた。けれど一向に痛みはやってこない。もう天国に旅立ったのだろうか。痛みもなく即死とは私は意外と運がいいのかもしれない。そもそも運がいい人間は殺害なんてされないか。自分で自分の考えにツッコミを入れながら、真相を掴むために瞼を開いた。


 けれど私は決して運が良かったわけではなかった。


「おとう、さま……」

 私は死んでなどいなかった。撃たれたのはお父様だったのだ。正面から胸のあたりに一発。お医者様ではない私には分からないが、執事長同様に流れ出る血の量はとても多い。即死ではなくともすぐに治療しなければ命が危ない。そう思うのに、私に出来ることと言えば震えながら涙を流すだけ。


 守ると言ってくれたお父様ももう……今度こそ私の番だわ。


「ああああああああああ」

 全身から力が抜け、へたりこむ。そんな私の元へ襲撃者は容赦なく近づいてくる。そして手を私の頭へと伸ばした。



「綺麗になったな、グレイス」

「え……」

 私と目線を合わせるように膝を折ったその男は嬉しそうに微笑んだ。

 今まで纏っていた殺意などまるで初めからなかったとでも言うように。

 あまりに優しく笑うものだからつい騙されてしまいそうになってしまう。けれど男の右手には未だショットガンが握られており、彼の背後には執事長とお父様が横たわっている。二発分の硝煙もかすかに鼻をくすぐる。


 恐いはずなのに。

 命の危険を感じなければいけない相手なのに。

 心のどこかで安心してしまっているのは彼の瞳が夕暮れの色と同じだからだろうか。


 幸せの色――幼い頃の思い出となってしまったライナスとの記憶が一気にフラッシュバックする。


「遅くなってすまない。迎えに来たんだ。こんな場所から出て俺と暮らそう」

 目の前の男には『ライナス』の面影が少しだけ残っている。

 私とあまり変わらなかった背丈はずっと大きくなって、頭二つ分は差が出来てしまっている。声だってあの頃よりもずっと低くなって。何より、薔薇園で笑いかけてくれた彼は簡単に誰かを殺めてしまうような人ではなかった。


 なのに、なんで――。

 あの日、突如として消えてしまったライナスに一体何があったというのだろうか。

 あんなに会いたかったはずなのに、口を開けば『なんで帰って来たの?』と恐怖に支配された言葉が漏れてしまいそうだ。


「グレイス?」

 ライナスが私の顔を覗き込む。

 それは10年以上前に私の身体を心配してくれた彼とよく似ていた。

 あの時も今も、彼は心から心配してくれているのだろう。けれど私はその好意を素直に受け入れることが出来ない。



 この手を取れば、私は殺されずに済むのだろうか。


 この場合の正しい選択とは何だろう。

 早く答えを出さねば。

 気持ちばかりが焦って、頭の中の糸はどんどん混線していく。


「わ、私……」

 それでもやっと乾ききった唇を開いた時だった。


「グレイスから、離れ……ろ」

 ライナスの背後で胸から血を流していたお父様が立ち上がった。けれど身体に力が入らないのか今にも倒れてしまいそうだ。立つだけでも相当な無理をしているのだろうに、お父様はふうふうと息を荒げながらライナスを威嚇する。


「まだ生きていたのか」

「お前みたいな、歪んだ男にグレイスを取られる訳には……」

「はっ。俺よりもずっと歪んでるあんたには言われたくないね。家のために妻と姉を親に差し出し、今度は妻と娘を孕ませるなんてこの家はどうかしている」

「え……」

「大丈夫だ、グレイス。君にそんなことはさせない。俺が守るから」


 ライナスは私に向けて最大級の笑みを投げ、発砲した。

 二発目、今度はこめかみに打ち込まれたお父様はもう立ち上がることはなかった。



 衝撃的な事実を発したライナスと、目を開いたまま絶命をする父。

 とうにキャパシティーを越えていた私の頭はついにショートし――意識を失った。





「起きたか?」

「ライナス……」

 再び目を覚ますと、そこにはライナスの姿があった。今日の彼の服装はロバート家を襲撃した時の燕尾服ではなく、街に暮らす庶民が着ているような量産品である。もちろんシルクハットもない。


「喉、辛くないか? 今、水を持ってくるから待ってろ」

 私の少しかすれた声に眉に小さく皺を寄せたライナスは立ち上がると、重そうな鉄製のドアを押して姿を消した。


 どこかへ向かったライナスの背中から部屋へと視線を映す。ぐるりと一周見回してみたが、見たことのない場所だ。石で出来た壁で四方を覆われており、窓はない。出入り口となりそうなのはライナスが出た場所だけ。置かれているものも、今までライナスが座っていた木製の椅子と、今まさに私が横たわっているベッドだけ。それも机の上にマットを乗せて急ごしらえしたようなものだ。


 ここはどこだ?

 異質とも言える空間に思わず考え込んでしまう。


 けれど異常なのは今の状態だけではない。あの襲撃から私の日常は崩れ去ったのだ。


 もしかしてあの襲撃は夢だったのだろうか。

 出来ることならそう思い込んでしまいたい。けれど全てが夢だったとして、それはどこからどこまでの間で見ていた夢なのだろうか。


 ブライアンと別れた直後?

 お父様の書斎に入った時?


 襲撃の音が聞こえた時?

 ライナスが執事長を撃った時?

 それともーー


 考えて見たところで初めの二つから夢が始まっていたのならばライナスが目の前にいるのはやはり不自然。ならば後の二つはどうかと考えたところで、目の前にライナスがいる時点でやはり彼が襲撃犯であるという事実は変わらない。


 強引に幸せな結末へと導くならば、ここが天国であるか、私は未だに眠り続けているかのどちらかでなければならない。

 もしもここが天国ならば、私と共にライナスはすでに亡くなっている必要がある。突如姿を消した時の彼はまだ子どもだった。あんなに大きなシルクハットを頭に乗せればすっぽりと顔が覆われてしまうだろう。となれば、ライナスはあれ以降もずっと生きていて、亡くなったのは成長した後ということになる。……初恋の相手が息を引き取っていて、彼と天国で再開するなんて悲しい想像だろうか。こんなの幸せでも何でもない。


 ならば……と、私の夢が続行している可能性を考えてみる。

 少し前に否定したブライアンと別れた直後から夢を見ていた可能性だが、目の前のライナスも私が生み出した夢の住人だと考えれば合点がいく。


 そう、これこそが幸せな結末なのだ。



 けれどそれを否定するのはやはり私自身で、慣れないベッドで寝ていた身体は悲鳴をあげていた。


 それに意図的に考えずにいたが、主に悲鳴をあげているのは――。


「グレイス。一応パンも持ってきたんだが、食えるか?」

「ライナス。あなた私に一体何をしたの?」

「何って?」

「いたずら、したでしょう……」


 太ももにはべったりと何か、液体のようなものがへばりついている。だが元を辿ればそれは私の股から流れ落ちている。それに腰のあたりには鈍い痛みが走っていた。幼少期にしてしまったおねしょの感覚とも少し違う。この部屋に漂う青臭い匂いは尿のツンとする匂いとは明らかに異なった。つまり外的原因が与えられたのは確実だ。


「いたずらって?」

「いたずらはいたずらよ」

 それが何かは分からないが、今の私にそんなことをする相手がいるとすればライナスの他にいない。つまりライナスが犯人だ。大方、殺せなかった私のことを辱めてやろうと思ったのだろう。それが謎の不快感と少しの腰痛であるのはライナスの優しさなのかもしれない。今更そんな優しさを発揮されても反応に困るのだが。


 夢に居たいと願う私の感覚はどこか歪んでしまっているようだ。

 お父様が目の前で殺されたというのに、私の怒りの矛先は『いたずら』という些細なものに向けられているのだから。なんて薄情な娘なのだろう。


「グレイスは、あの男にそう教わったんだな」

「え……」

「俺がもっと早く助けられていれば……」


 食事が乗せられたトレイを落としたライナスは悔しそうに唇を噛みしめる。


 彼は一体何を言っているのだろうか。

 教わったって何のこと?

 あの男って誰なの?


 馬車の中でブライアンは私を『世間知らず』と称した。確かにそうなのかもしれない。私は何も知らない。教わってもいない。


「ごめん、ごめんな。グレイス。守れなくて……」

 私の頭を包み込んで涙を流すその意味さえも分からない。


「呪われた子は俺が殺す。奪われてたまるか……」

 けれど一つだけ分かったのは、ライナスもまた何かから私を守ろうとしてくれているということ。


 そのためにお父様を殺した――と。


 絶命したお父様。

 悲しげに、けれど何かを決心したように呟くライナス。


 私は一体何から狙われているのだろうか。


「全てが終わったら昔した約束を果たそう。俺がグレイスを綺麗な花にしてやる。一生枯れることのない花に――」


 世間知らずで薄情な私は何も分からないまま、ライナスの手の中でゆっくりとまぶたを閉じるのだった。




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