鼠と猿
雲一つない青空に突然雷鳴が轟いた。
道場で稽古をしていた門下生たちが驚き空を見上げている。
そんな中、道場に被害は無いかと見廻したロックは、ベンチでうたた寝していたアルの姉だと名乗った女性の姿が消えている事に気付いた。
「あれ?さっきまでベンチにいたと思ったのに…」
「ロック君、ちゃんと教えてよ」
「えっ!?はっ、はい、すみません」
ウネグはベンチにチラリと目をやり少し微笑んだ。
ザルトもランガも動くつもりは無い様だ。
「まっ、アルブムなら大丈夫でしょ」
「なにか言いました?」
「何でもないわ。それよりロック君、君、可愛いわね。将来いい男になりそう」
ウネグが見せた笑みに、ロックは少し引きながら練習用の短剣を構えた。
シロウの肩に乗った鼠は目と鼻の先に迫った覆面の男、ゴンズの顔に飛び付いた。
突然鼠に集られたゴンズは、鼠を払い落そうとシロウから離れる。
ゴンズが離れたと同時に鼠はシロウに飛び移り、前足を使い咥えていた鍵で器用にシロウの手枷を外した。
「ありがとよ」
鼠は小さくチュッと鳴き、中庭から走り去った。
シロウは鍵を使いもう片方の手枷も外し、手首を摩った。
斬られた肩口を見ると、傷は癒えておらずまだ血が滴っている。
「なんだあの鼠は……」
一瞬の混乱から回復したゴンズが、再び剣を構えるのに合わせ、シロウも腰を落とし拳を構えた。
すると、対峙した二人の周囲に、無数の人影が何処からともなく現れる。
人影は神殿騎士の姿をしており、手には剣や槍を持っていた。
「さっきの槍はこいつ等か…。ウネグは幻影とか言ってたが…」
「何処を見ている」
ゴンズには取り囲んでいる騎士の姿は見えていないようだ。
シロウがゴンズに視線を戻すと同時に、騎士の一人が切り込んで来る。
それを躱し拳を顔面に叩き込むが、鼻っ柱を捉えた筈の拳は抵抗なくすり抜けた。
たたらを踏んだシロウにゴンズが剣を振り下ろす。
それを飛んで躱し、シロウはゴンズと間合いを取った。
開いた間合いに合わせ、周囲の騎士達も動いた。
ウネグはキマは幻影と言ったが、ここまではっきり見えていると無視するのも難しい。
それに拳はすり抜けたが、斬られればどうなるか分からない。
「面倒な相手だ…」
「……何のつもりだ?先ほどの動きは威嚇のつもりか?」
「いや、そういう訳でもねぇんだが…」
ゴンズの瞳には先ほどとは違い、訝るような色が浮かんでいた。
「何をしているのですか!?その男は邪教徒!!一切の言葉は無視しなさい!!」
「ハッ!」
キマの声でゴンズの瞳は再びガラス玉の様に色が消えた。
「しゃあねぇ、まずは生身のアンタから倒すとするか」
「……」
シロウは騎士は幻覚と決め打ちして事に当たる事にした。
周囲の騎士の動きを無視して、ゴンズの間合いに一気踏み込む。
「ムッ!?」
予想外のスピードにゴンズは対応しきれない。
騎士の槍が脇腹に伸びるが、構わず右の拳をゴンズの左のアバラに打ち込む。
骨が砕ける音と共に、シロウは脇腹に熱を感じた。
飛び退りチラリと脇腹を見ると、貫かれた腹から流れた出た血が麻の上着を染めている。
「グフッ……まぼろしじゃ…ねぇのかよ?」
「我が神の前ではあなたは無力な人間にすぎません。さあゴンズ、邪教徒に死という名の救いを!」
「クッ…了解です…」
ゴンズは折れたアバラの痛みに耐えながら、剣を振り上げた。
シロウは剣を見上げると、脳裏にリーネとレントの顔が浮かんだ。
リーネは赤ん坊のレント抱いて悲しそうに笑っている。
その姿が不意にアルへと変わった。
目の前が真っ白に染まり、シロウの隣に暖かいモノが寄り添うのが分かった。
肩と脇腹の痛みが引いて行く。
「呼ぶのが遅いのじゃ。こうなる前にさっさと願わんか」
「いや、一人でもいけると思ってよ」
「まったく、我は相棒じゃろうが。もっと頼れ」
焼き付いた目が少しづつ回復していく。
目の前にはゴンズが煙を上げて転がっていた。
ピクピクと痙攣している所を見ると、死んではいないようだ。
流石だなと思いながら視線を横に向けると、白い髪の少女が、すこし怒った顔でシロウを見ていた。
心なしかその目元は少し赤い。
「おのれアルブム・シンマか!?ファルいるのでしょう!?先程の事は許します!男と獅子神を鼠で止めなさい!!」
中庭の柱の影から灰色の髪の女が姿を見せる。
だがその顔は苦痛に歪んでいた。
「……」
「ファル!?どうしたのです!?」
「……やです」
「グズグズしないで早くやりなさい!!」
「嫌です!!私はこの人間を殺したくありません!!私は…私はもっと彼と話しがしたい!!」
キマはバルコニーから宙を舞い、中庭に飛び降りた。
その動きは体重を感じさせず、老人の見た目とはまるでそぐわない物だった。
「簡単に取り込まれるとは……。所詮は下等な鼠ということですか……」
「キマ様……」
アルはシロウから漂う空気に全身が総毛立った。
「アル、猿の幻を消せるか?」
「むっ、無論じゃ」
「んじゃ頼むぜ」
「お主はどうするのじゃ?」
「てめぇの仲間を蔑む、馬鹿猿の根性を叩きなおしてやる」
シロウは一気に踏み込みキマに迫った。
アルの横、シロウが立っていた場所には、地面に深く足跡が刻まれていた。
一瞬で間合いを詰めたシロウの目の前に神殿騎士が現れる。
だが騎士は中庭を走る雷光の煌めきで霞の様に掻き消えた。
「ここまで力を…」
そのキマの独白はシロウの拳で中断される。
「グハッ!?」
拳はキマの鳩尾を深く抉り貫く。
「き…きさま…」
「取り消せよ…」
「なんの…事です?」
「鼠の姉ちゃんに言った下等って言葉を取り消せよ」
キマはシロウの言葉の意味が分からず、彼の顔を見上げた。
「ファルの事が一体なんだと…」
シロウの目は怒りで爛々と燃えていた。
「姉ちゃん…いや、ファルはお前の仲間じゃねぇのか?」
「……フッ、私に仲間などいません。全ては計画の為の駒に過ぎません。そうこの私でさえも……。不完全な神など全て消えてしまえばいい」
「……そうかよ」
シロウは無造作に拳を引き抜いた。
「アル、こいつ治してくれ」
「良いのか?」
シロウの後ろに駆け寄ったアルが見上げながら尋ねて来る。
「ああ、こいつは後回しだ」
「ググッ…私の気持ちは変わりません…。我々では…人の争いを…止められない…」
「いいからお前は一回寝てろ」
「なっ、何を!?」
シロウはキマの首に腕を回し、ゆっくりと締めあげた。
程なくキマは意識を失う。
「無茶苦茶じゃのう」
「しょうがねぇだろ」
「本当にこやつも仲間に加えるのか?」
「そのつもりだ。計画を全部潰してから改めて話す。……俺はこいつが出来ないって諦めてんのが気に食わねぇ。それにこいつが話した完璧な神様ってのも胡散臭えしな」
「完璧な神のう…。神と言っても人が作り出したモノじゃ、完璧など追うだけ無駄じゃと思うがのう」
アルはそう口にしながら癒しの光を振りまいた。
中庭にいたシロウが倒した騎士やゴンズもその光で傷が癒えていた。
「ファル!」
中庭に呆然と佇んでいたファルは、シロウに声を掛けられビクッと体を震わせた。
「さっきはありがとよ。んでどうする?俺達と来るか?」
「……もうここには居られません。……連れて行っていただけますか?」
「おう、行こうぜファル」
「はい!」
ファルはシロウに駆け寄り、少し照れながら微笑んだ。
「ファル。シロウは我の伝道師じゃからな。手は出すでないぞ」
「承知しております。私は二番目で結構です」
「に、二番目……」
アルはファルの言葉に不穏なモノを感じながら引きつった笑みを浮かべた。