癒しの女神
本物のラケルは十代半ばになっているが、女は以前出会った時の姿だった。
「私はあんな風にウルラに見られていたのでしょうか?」
「ウネグは姿を利用して、相手が一番して欲しい事や言って欲しい事を囁くのじゃ。ウルラはお主の愛を求めておったからの。術で惑わされておるようじゃし、効果は絶大じゃろ」
ラケルは嫌な物でも見る様に、自分の姿をした女を見た。
シロウはそのラケルの姿をした女に話しかける。
「よぉ、姉ちゃん。そいつは大事な仲間なんだ。返してくれねぇか?」
「フフッ、あなたもこっちにいらっしゃいよ。望む姿でお相手してあげる」
シロウは顔を歪ませた。
女が話すと濃厚な花の香りが立ち込める。
その香りはシロウにカジノにいた商売女を思い出させた。
「わりぃが、俺の好みはアンタみたいな化粧バリバリってんじゃねぇんでな」
「清楚なタイプが好きなのね。じゃあこういうのはどうかしら?」
女はシロウが良く知る者に一瞬で姿を変えた。
黒髪のクリっとした目が印象的な可愛らし女性だった。
ただ、彼女が女の様に絹を纏った事は一度も無かったし、今の様に媚びる様な視線をシロウに向けた事も無かった。
「……」
「どう?あなたが今一番会いたい相手でしょう?私達の仲間になれば、この娘にいつでも会えるのよ?」
「喋んじゃねぇよ……」
「え?」
女の戸惑いを無視してシロウは一気に踏み込み、ウルラの横に立つ女の首を掴み大地に押し付けた。
「ぐっ…何故?」
「何をする!?ラケルを離せ!!」
無造作に振った左手は、ウルラの顎を捉え、彼は宙を舞い地面を転がった。
「……リーネはなぁ、絹を着た事もなきゃ、香水をつけた事もねぇんだよ!!俺の所為でな!!」
「一体何を?」
「止めろシロウ!!其奴は曲りなりにも神じゃ!!それに其奴は黒幕につながっておる!!」
アルはシロウに抱きつき彼を宥めた。
女の喉にかかっていた指が緩む。
その隙を突いて女は抜け出し、顎を押さえているウルラに駆け寄った。
「なんて男……。ウルラ、一旦引きましょう」
「わかったよ!そこの男、次はこうはいかないからな!!」
ウルラは女を抱え高く舞い上がり、赤く色づいた空に消えた。
シロウは茫然と自分の右手を見つめていた。
「あれがお主の連れ合いの姿か?」
「ああ。でもあんな奇麗な恰好はさせてやれなかった。……俺は甲斐性無しだったからな」
「シロウ……。お主の所為では無い」
アルは右手を握りうずくまったシロウの背を抱え、頭を優しく撫でた。
「お主の所為では無い。ほんの少し、何かがかみ合わなかっただけじゃ。それは誰にでも起きることじゃ」
「……」
「シロウ……、お主のリーネは、綺麗な格好が出来ない事を嘆くような女だったのか?」
シロウは頭を上げアルを見る。
その顔は苦痛に歪んでいた。
「リーネはそんな事を言った事はねぇ。……でもよぉ」
「一度も口にしなかったのなら、そんな事は思っていなかったで良いではないか。……この世を去った死者の想いは誰にも分からん。…神にもな。リーネはお主の知っていた通りの優しい女だった。それでよい」
「アル……。ありがとう……」
シロウはその時初めて、アルに心の底から感謝した。
感謝は祈りとなってアルに向かった。
それはシロウの中の無数の魂を揺さぶり、彼らの祈りも誘発する。
アルの体は光を帯びて、更なる成長を促した。
彼女の見た目は十代後半まで成長していた。
「凄い……」
ラケルは純粋な感謝の祈りに思わず呟く。
アルはシロウの頬に手を当て囁いた。
「愛した者の事を考え、自らを貶める事はするな。そんな事はお主の妻も息子も望んではおらん」
「アル……」
シロウは頬に当てられた手に左手を添え。
それから少し泣いた。
しばらくして落ち着いたシロウは、少しばつが悪そうに二人に頭を下げた。
「面目ねぇ。久しぶりにリーネの顔を見て、取り乱しちまった」
「気にするでない。誰にも触れて欲しくないモノはあるものじゃ」
「そうですね。私も夫の姿を見たら、恐らく気持ちが落ち着かなくなるでしょう」
二人がそう言ってくれたので、シロウは頭を掻きながら少し笑った。
「……あの女がウネグか?」
「そうじゃ、あやつは人の記憶が視れる。先ほどはシロウの記憶を視て妻の姿に化けたんじゃろう」
「あんな風に姿を変えられては、捕まえて後ろに誰がいるのか聞き出すのは大変そうですね?」
「そうじゃの。人に紛れ匂いを消せば、簡単には見つからんじゃろうな」
シロウはウネグの事はひとまず置いて、ウルラについて二人に尋ねた。
「ウルラは俺の事を忘れているみてぇだったが…」
「それもウネグがやったんじゃろ。記憶の一部を封じたのではないかのう?」
「記憶を封じる…。それは治せるのか?」
「ふふん。先ほどの祈りで成長したからの。我に任せるのじゃ」
アルは幾分大きくなった胸を張り、得意げに言った。
「……さっきは女神様に思えたが、やっぱまだまだ子供だな」
「何!?どういう事じゃ!?先ほどは泣いて我に感謝したではないか!?」
「いや、さっきは神々しく見えたんだよ。……まあ、お前はその方が落ち着く、そのままでいてくれ」
シロウの言葉にアルは地団駄を踏んだ。
「我は女神と思われたいのじゃ!!なにが問題だというのじゃ!?」
「アル、ゆっくりのんびり行きましょう。あなたならきっと女神と呼ぶにふさわしいモノになれますよ」
「ぬう、ラケル、我は今すぐそうなりたいのじゃ!!」
駄々をこねるアルに、ラケルは優しい笑みを返した。
領都にある城の一室。
ウネグはウルラの肩に手をまわし、彼の瞳を覗き込んでいた。
記憶を操作する力、それが狐の神であるウネグに人々が抱いたモノだった。
彼女はその力を使い、自らに対する認識を変えさせ、力ある神や時の権力者に取り入り生きてきた。
自分の力の通じない相手は、彼女のプライドを酷く傷つけた。
それが人間となれば、その思いはひとしおだ。
「あの男……。絶対私の下僕にしてやる」
「ラケル、あんな男なんかいなくても、僕がいれば十分じゃないか?」
「フフッ、分かっています。でも味方は多い方が心強いわ。それに貴方にはいつも側にいて欲しいもの…」
「なるほど、確かに兵士はいた方がいいかもね」
そう答えたウルラの目を見ながら、ウネグは彼の記憶を盗み見る。
ウルラの目から見たシロウの記憶は、ウネグを驚愕させた。
人の身でありながら、雪狼の長を手玉に取り、堕ちた蜘蛛神を浄化している。
更にはあの男が連れていた白髪の娘は、過去に自分を歯牙にも掛けず封じた忌々しい獅子神だ。
記憶を見ていくうち、ウネグの顔に笑みが浮かぶ。
都合の良い事に、獅子神は力を取り戻してはいないようだ。
悪神に堕とし、あの方の野望の糧にする予定だったが、自分がつまみ食いしても良いだろう。
彼女の浮かべた笑みは、醜く歪みまるで牙を剥いた獣の様だった