カラッポな男
シロウはカラッポになった。
子供が生まれた事を機に、我が子に少しでも良い暮らしをさせてやりたいと、妻が止めるのも聞かず、幼子を残し故郷の村を旅立って三年。
都に出て親方のもとで修業し、腕も認められ資金も貯まり、ようやく独り立ち出来る目途が付いた矢先、祝いだと仲間に飲みに誘われた。
最初は楽しく飲んでいたシロウだったが、目覚めた時、彼は薄暗い路地裏に裸で転がされていた。
家に戻ると部屋は荒らされ、貯めた金も全て無くなっている。
慌てて親方の所に出向き仲間を捕まえ訳を聞くと、酔った勢いで賭場に入り全て摩ったというのだ。
賭場に走り金を返してくれと頼み込むが、それが聞き入られる筈も無く出てきた男たちに袋叩きにされた。
親方はもう一度やり直せと言ってくれたが、もはやその気力も無く、シロウは故郷に帰る事にした。
物乞いの様に人に食べ物を恵んでもらいながら、ようやく故郷に帰り着き戻った家には誰もいなかった。
隣の家を訪ねると出てきた中年の女は、シロウの事を蔑む目で見た。
「シロウ、あんた今まで何してたんだい?」
「俺は都で独り立ちしようと…。それよりリーネ達が何処に行ったか知らないか?」
「…知らせは行ってないのかい?…二人とも死んだよ。半年前に崖から落ちてね」
「死んだ…?嘘だろ?」
女はシロウを睨みながら言葉を続ける。
「あの娘はね、村の人間があんたの事は忘れて、別の男と一緒になれって言っても、あの人は必ず成功するって一人でレントを育てていたんだ」
「リーネ…」
「レント連れて山菜を取りに行ったまま帰らないから、猟師のサム達に頼んで探してもらったんだ。」
「……それで?」
「崖から落ちたんだろうね。崖下で抱き合う様に死んでたよ。…もういいだろ。かえってくんな!」
女は、それだけ言うとピシャリと扉を閉めた。
「嘘…だろ…嘘…だ」
シロウは家に一人戻り、埃の積もったベッドで仰向けに寝そべった。
頭の中にリーネの笑顔と、スヤスヤと眠るレントの顔が浮かぶ。
「ううっ…二人ともすまねぇ。すまねぇ。すまねぇ」
シロウはそう呟きながらとめどなく涙を流した。
やがて彼はムクリと起き上がり、家を出てフラフラと歩き始めた。
村に帰る途中、耳にした話。
シロウの村から北に向かった高い山。
夏でも天辺に雪を頂く山の中腹に、咎人でも天国に行ける祠があるという。
シロウはもう死ぬ事は怖くなかった。
しかし、普通に死んでも自分は地獄行きだとも思っていた。
せめて天国でリーネとレントに詫びたいと、一縷の望みをかけてシロウは祠を目指した。
シロウが目指した祠の側で、巨大な獣が目を細め何かを口の中で転がしていた。
獣の名はアルブム・シンマ、赤い目で黒い毛皮の獅子の姿をした魔物だ。
元は山の神として崇められていたが、今は信仰が絶え祠の存在も忘れられていた。
だがここ数十年の内に、何故か祠は天国を求める者が訪れる場所となった。
しかし、自ら死を選んだ彼らが天国に迎え入れられる事は無く、魂は祠の周辺に縛られる事になった。
飢えていたアルブムはその魂を貪った。
力は戻ったが、アルブムの白く輝いていた体はどす黒く、そして蒼い瞳は赤黒い血の色に変わっていた。
それに伴い、心のあり様も変わっていった。
飴の様に、苦痛を訴える魂を舐め続けたアルブムの心は、かつて神だった頃の輝きを失っていた。
今日も一人、人間が祠を訪れたようだ。
黒髪の若い男だ。
祠の上から見下ろしながら、今度の魂はどんな味かとアルブムは舌なめずりをした。
人間は祠の前で膝をつき、一心不乱に祈っている。
すると奇妙な事が起こり始めた。
魂はアルブムが喰らっても消えることなく、この地に留まり続けていた。
彼らの後悔や苦痛が消えぬ限り、黒く溜まった感情は再び魂を大きくしていく。
つまり、ここを訪れる者が増えるたび、アルブムも肥え太るという訳だ。
だが男はその縛られた魂を吸い込み始めた。
まるで冥府の穴に吸い込まれる様に、魂は男の中に消えていく。
アルブムは、怒りを感じ男の前に姿を見せた。
「貴様!!それは我の物ぞ!!」
牙を剥き唸るアルブムを見て、男は腰を抜かし後退った。
「なんだぁ!?ここは天国の入り口じゃねぇのか!?なんでこんなバケモンが居るんだ!?」
「我を化け物とぬかすか!?痴れ者が!!我はこの山の神ぞ!!」
「ヒッ、ひぇええ!!」
男は這う様にアルブムから逃げようとする。
その男の襟首をくわえ、祠の前に投げ落とし鼻に皺を寄せて唸り声を上げた。
「魂を返せ!!それは我の糧じゃ!!」
「来ないでくれ!!勘弁してくれ!!」
男は喚き声を上げ、手足をばたつかせた。
その間も、祠の周囲の魂は男に体に入っていく。
この男がいては全ての魂が奪われる。
そう思ったアルブムは、男を殺そうと牙を剥いた。
ばたつかせた男の足がアルブムの鼻先をかすめる。
それと同時にアルブムの体から何かが抜けた。
「我の力が!?」
アルブムの中から黒く溜まった魂の嘆きが、後悔が、男の中に吸い込まれて行く。
「あぁ、我の…我の通力が吸われてしまう。」
祠の周囲からは一切の魂が消えていた。
「俺は一体…。あの獣は?」
胡坐をかいた膝を、鬣を持った白い子猫ような生き物がペシペシと叩く。
「貴様、我の糧を返さんか!?」
「なんだぁ、この猫?随分と変わってるな?」
男はその青い目の猫のような獣を抱き上げた。
「おっ、こいつはメスだな。喋る猫なんて初めて見た。こんな生き物もいるんだな」
「我は猫では無い!やめろ!顎の下をまさぐるな!やめろ!やめるのじゃ!うにぁぁ…」
男は猫の言葉を無視して暫く撫でまわした。猫は気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
心の中に依然として悲しみはあったが、先ほどまでの真っ暗闇にいる様な感覚に比べると、随分と楽になっていた。
そうでなければ、奇妙な喋る猫を撫でる余裕などなかったはずだ。
「ふにゃぁ。……よいか…我は猫ではない。この祠の主、アルブム・シンマじゃ」
男に抱かれたままアルブムはそう言った。
心なしか少し疲れた様な声だ。
「アルブム・シンマっていうのか。長いからアルでいいか?俺はシロウだ」
「アル…。至極不敬じゃが、お主のような浅学な者に言ってもしようがないか」
アルは諦めた様にため息を吐き言葉を続けた。
「ではシロウ、改めて我の糧と力を返せ」
「返せって言われても、俺にも何が何だか?」
シロウの言葉にアルはしばし考えこんだ。
「ぬう、仕方がない。シロウ、我を抱き上げて額を合わせよ。お主の中を探ってやろう」
「…引っ掻くなよ」
「我は猫では無いと言うておろう!…早く抱き上げるのじゃ」
「はいはい」
シロウはアルと額を合わせた。
アルはシロウの中の魂の形を探る。
アルの脳裏にシロウの魂と、どす黒く濁った魂の姿が浮かんだ。
シロウの魂に空いた無数の穴を巣穴にする様に、濁った魂が入り込んでいる。
「気持ち悪いのじゃ…」
「なんか言ったか?」
「何でもない」
シロウの問いにぞんざいに答え、観察を続ける。
普通であればこんな状態で正気を保つ事は出来ない筈だが…。
観察しているとシロウの魂から時折、青い波動が広がる。
濁った魂達はその波動を貪り喰った。すると魂の濁りもほんの少し薄くなった様に感じられる。
「今何を思った?」
「…死んだ嫁と息子の事だ。ここに来るまでは考えるだけで辛かったけど、なんでか今は少し楽なんだ…」
「…そうか。おい、下ろせ」
「もういいのか?」
シロウはアルを地面に下ろした。
アルは顔を洗いながらシロウに説明する。
「ここには多くの後悔を引きずった魂が、天にも登れず地にも還れず彷徨っていた」
「ここは天国への扉じゃなかったのか…」
「誰かは知らんが、そんな噂を流した者がいたようじゃな。…話を戻すぞ。その魂達がお主の中に入り込んでいる」
シロウはアルに言われて、自分の胸を見下ろした。
「魂が俺の中に?なんで?」
「お主の魂は穴だらけじゃ。肉体を求める者はさぞ入りやすかった事じゃろう」
「…まさかッ!!俺は体を乗っ取られるのか!?」
シロウの言葉にアルは首を振った。
「貴様の心が放つ感情は、後悔と悲しみに塗れた魂共には随分と美味いらしい。乗っ取るのは止めて間借りする事にしたようじゃ」
「そんな…。俺どうなるんだ?」
「ここには数百の魂が縛り付けられていた。…お主、もう普通には死ねんぞ」
「死ねない…?どういう事だ!?俺は死ぬためにここに来たんだぞ!!なんとかならないのか!?」
シロウはアルを掴み揺さぶった。
小さな頭がガクガクと揺らされる。
「止めんか!!」
アルはその手を爪で引っ掻いた。
「痛ぇ!!…すまねぇ。興奮しちまった。…それでどうにもならんのか?」
「そうじゃな…。手は無い事も無い」
「本当か!?その方法を教えてくれ!!」
「お主の魂に棲み付いた者共の後悔を晴らせば、恐らく出て行く筈じゃ」
「後悔を晴らす…?一体どうやって?」
「さあな、そこまで我も面倒は見切れん」
シロウはぼんやりと虚空を見つめた。
その様子にアルは考える。
この男に奪われた糧を取り戻さないと、早晩自分も消えてしまうだろう。
「おい、条件次第では手伝ってやってもよいぞ」
「条件…?一体何をすればいいんだ?」
「我はこの山に祀られていた神じゃ。信仰を失いこのような姿になった。その信仰を取り戻す手伝いをせよ」
「信仰を取り戻す?そんなのどうすりゃいいんだよ?」
「ゆくゆくはお主が我の伝道師となって、我の力を喧伝するのが目標じゃが、取り敢えず今はお主自身が我を崇めよ。お主の中には数百の魂がある。お主の気持ちに引きずられて魂共も我を崇める筈じゃ」
そう言って前足を天に向けて広げるアルを見て、シロウは噴き出した。
「ブフっ!猫を崇めるなんて、出来そうにねぇよ!」
「我は猫では無い!!獣の王たる獅子神ぞ!!それと出来ないと言うなら協力せんぞ!!」
「…分かった。……えっと、アル、どうか俺の願いを叶えてくれ」
シロウはアルに手を合わせ祈りを捧げた。
それ程、真剣に祈った訳では無かったが、シロウから力が流れてアルの中に消えた。
するとアルの体が光を放ち、毛艶が少し良くなった。
「もっと真剣に祈らんか!……まあよい。我の真の力を知れば、お主の信仰心も増してゆくじゃろう」
「じゃあ手伝ってくれるのか!?」
「約束じゃからな。…シロウ、手を出せ」
「こうか?」
シロウが差し出した右手に、アルは左前足を乗せた。
「お手みたいだな」
「やかましい!…まずは一番最近ここで死んだ娘の想いを視るとするか」
「へぇ、そんな事も出来るのか?さすが神様だな」
「感心するのではなく崇めよ。…娘の心残りは自分を捨てた男の事のようじゃ」
その言葉を聞いてシロウの心に刺すような痛みが走る。
しかしそれもすぐに消えた。
アルが言っていた様に、痛みを棲み付いた魂が喰っているのだろう。
「その男に会えばいいのか?何処にいるんだ?」
「そこまでは今の通力では分からん。じゃが随分酷い捨てられ方をした様じゃ。見つけ出し思いっきりぶん殴れば気も晴れるのではないか?」
「…そんな適当でいいのか?女心は俺にはよく分からんが、もっと複雑な気がするぞ?」
「兎に角、娘が住んでいた村は視えた。今からそこ向かうぞ。村人に話を聞いて男の居場所を見つけ出すのじゃ」
そう話し山を下り始めたアルを、シロウは慌てて追った。
「ちょっと待てよ。神様なんだろ?神通力とかでパッパッと解決出来ないのか?」
「さっきも言ったが今は無理じゃ。お主に力を奪われる前なら、どうにか出来たかもしれんがの」
「頼りねぇ神様だな」
「シロウ、ちょっとしゃがめ。」
「なんだ?」
しゃがみ込んだシロウの顔にアルの爪が走る。
「痛ぇ!!なにすんだよ!!」
「お主は神に対する態度がなっておらん!お主がもっと真剣に我を崇めれば、通力で解決も出来るのじゃぞ!」
「…分かったよ、アル」
「フンッ!以後気を付けよ!」
そう言って歩くアルの後をシロウは追った。
シロウは気付いていなかったが、アルに引っ掻かれた手も顔も傷は既に消えていた。
こうして信仰を失った神と、死にたい男の旅は始まった。