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タイムフリーザー(2018q)

作者: 長矢 定

●登場人物

■佐山 龍彦(28)火星移住者に選ばれる

□植田 和宏(28)佐山の幼なじみ

◇中原 真紗美(36)コーディネーター

□小久保 健司(故人)時間凍結理論の創始者

◇エミリ(18)人工出生。16歳で男の子を自然出生する

□トウマ(2)エミリの子

□ルベルト(32)統括管理官


    プロローグ


 全身の細胞一つひとつがピクリと震え、再び活動を始めた。

 目覚め……?

 真っ暗な中でフワフワする。違和感に包まれ、胸騒ぎがした。

 混乱しパニックになりかけた時、物音がして明かりが差し込んだ。壁の部分が大きく開口する。狭いカプセルの中にいた。

「大丈夫ですか……」女性の声がした。

 奇妙な形のロボットが宙に浮いている。自分の体も浮いていた。ゼロGだ。

「火星、なのか?」

「はい、火星を周回しています」

 佐山龍彦は笑顔をつくった。火星だ、目覚めた、移住生活が始まる。

 龍彦はカプセルから体を半分出し、周囲を見回した。殺風景な閉ざされた部屋……

「君は誰だ? 他の移住者はどこなんだ?」

「私はセントラルコンピューターです。他の移住者は、まだ時間凍結されています。佐山さんのカプセルに故障の兆候が現れました。メンテナンスには装置を止めなくてはならない部分です。従って、凍結解除、覚醒処置を行いました」

「故障……」龍彦はその意味を吟味した。

「火星の居住施設は、まだ出来ていないのか?」

「はい、まだ完成していません。移住は先になります」

 それを聞き、龍彦は表情を曇らせた。直ぐにその次の疑問が頭に浮かぶ。

「カプセルの中に、どれくらいいたんだ?」

「三〇〇年ほどです」とコンピューターがあっさり答える。

 龍彦は唖然とした。

「三〇〇年……」

 過ぎ去った年月の大きさに、龍彦の思考が停止した。




    一


 駅の改札を出ると、その先に立つ一人の男性が片手をあげ、微笑む。

 佐山龍彦も笑みを浮かべて近寄った。

「久しぶり、元気そうだな」と同い年の植田和宏が声を掛ける。

「ボチボチだよ。そっちはどうなんだ?」と龍彦は答えた。

「同じだよ。毎日、ジタバタしている」植田が笑みを返した。

「忙しいのに悪かったな、急に連絡して」

「別に構わないが、何かあったのか」

 そう言う植田は表情を曇らせた。このご時世、景気の良い話など滅多にない。

「食事をしながら、ゆっくり話すよ」

 その答えに植田が頷く。

「駅前のレストランを覚えているか」

 そう言い、植田は駅舎の出入り口に向かって歩き始める。龍彦はそれに従い、並んで歩いた。

「ああ、何度か行ったことがある。その店ぐらいしかないからな。懐かしいよ」

「そうだな。でも、何年か前に潰れてしまった。今は、チェーンのファミレスだよ」

「潰れたのか……」

「そこでいいかな? 在り来たりの料理だし、酒はビールぐらいしかないが……」

「酒は飲まない。弱い体質なんだ。腹が膨れればそれでいい」

 二人は駅舎を出てロータリーの脇を進む。夜になり肌寒く感じる。龍彦は高校を卒業するまでこの小さな街で暮らし、同級生の植田とはいつもつるんでいた。懐かしさから周囲を見回すが、街明かりは一〇年前より暗くなったような気がする。

 すっかり様変わりしたレストランの前に来た。

「何なら、別の店にするが……」

「ここでいい。現実を噛み締めるよ。入ろう」

 夕食時だったが店内の客は疎らだった。二人は窓際のテーブル席に座り、料理を注文する。

「昔の面影は残っていないな。どこにでもあるようなファミレスだ。でも、大丈夫なのか。お客が少ないけど……」と余計な心配をする。

「休みの日は、もう少し賑わうよ」植田はそう言い、意味のない見栄を張った。

「それで、どうしたんだ。何があったんだ?」と本題を問い掛ける。

 龍彦は頷くと、テーブルの上のコップを手に取り口へと運んだ。一口、水を飲む。

「仕事を辞めたよ……」

 植田にとって、それは予測の一つだった。突然連絡があり、平日の夜に会うことになった。誰でも、仕事が上手くいってないことを予想するだろう。

「リストラか?」

「いや、そうじゃない。もっとも、業績がずっと悪いから近いうちに人員削減があるだろうと噂は絶えないが、まだその段階じゃないようだ」

「リストラではない……。それじゃ、見限ったのか。他に良い仕事を見つけたのか」

「ちょっと違うな……」と龍彦は意味深な顔をする。

「何だよ、勿体ぶるなよ」

 龍彦は少し間を空けてから答えた。

「国際火星移住推進機構から連絡がきたんだ」

「火星移住……? 何だよ、そこで仕事が見つかったのか」

「就職するわけじゃない。選抜されたんだ」

「選抜? 火星移住のか。何を言っているんだ。日本人枠の八人は、とっくに決まっているじゃないか。大きなニュースになり、皆が大騒ぎして選抜された移住者を祝福し健闘を願った。今、彼らはどうしているのかな……」

「だから最初は疑ったよ。悪質な悪戯だと思ったが、それにしては幼稚すぎる。で、調べてみたんだ。八人のうち二人の男女が宇宙に出る直前に辞退していた。扱いは小さいがニュースにもなっていたよ。その欠員補充だ」

「欠員補充? そんな話、知らないぞ。本当なのか」

「本当だった。手続きを済ませ、会社も辞め、明日には教育と訓練のために国際宇宙港の施設に行く」

「明日?」

「ああ、目が回るくらい慌ただしかったよ。火星との会合時期が迫っていて、出発予定日まで日数が少ないんだ。最後のロケット便にギリギリ間に合うスケジュールだよ」

「本当に、火星へ行くのか。ニュースにもなっていないし、誰も知らないんじゃないか」

「そうだな。時間がないし、八人の選抜の時に騒ぎすぎて懲りたんじゃないかな。それに、派手に送り出したのに二人が直前で辞退してしまった。それもあると思う」

 植田は低く唸ってから口を開いた。

「二人は何で辞退したんだ。選抜された八人は、みんな強い覚悟があったはずだが……」

「ニュースの扱いが小さくて、理由まではわからなかった。でも、辞めたのは一組の男女だ。教育と訓練を受けている間に仲が良くなったんじゃないかな。火星移住は不確定要素も少なくないから、地球で二人一緒にひっそりと暮らすことにした。おそらく、そんなところだろう」

 それを聞き、植田がもう一度唸る。

「その欠員補充か……。本気なのか」と尋ねる。

 龍彦はそれに力強く頷いた。

「直前に辞退することなど、ない。火星に行くよ。これまでの暮らしを続けても先細りなのは間違いない。火星に行けば新たな世界が広がる……」

「しかし、失敗の可能性も小さくない。命を落とすこともあるようだ」

「そうだな。だが、このまま落ちぶれた極東の島国で生きたとしても、たかが知れている。だったら目の前のチャンスに懸けてみるよ」

 それは多くの若者が持つ心情だった。現状を打破しよと藻掻く、火星に築く新世界に漠然とした希望を抱き、憧れ、決意した若者が僅かなチャンスに懸け移住者募集に申し込む。龍彦もその一人だ。植田もその気持ちは理解できる。

「火星に行くのか……」

「ああ、地球に戻ることはない。会って話をするのも、これが最後だ」

 そう言われ、植田は黙る。彼の視線は、昔なじみの親友の顔から動かなかった。

 お客が少ないこともあり、注文した料理が早々と運ばれてきた。二人はテーブルに置かれた料理を食べ始める。

「お袋さんには会ったのか」と植田がボソリと尋ねる。

 龍彦は食事の手を止め、首を横に振った。

「いや、どこに住んでいるかも知らない。もし、先々に訪ねてくるようなことがあったら伝えてくれないか」

 二一世紀の後期に施行された少子対策で、龍彦の母親は匿名の提供精子による人工授精で三人の子を儲けた。そうすることで国から生活支援を兼ねた褒賞金が得られ、産んだ子を養育施設に預けて彼女はその後の人生を謳歌する。龍彦は両親の顔を知らなかった。

 だが二二世紀になり、国力低下と不景気による財政難からその支援政策も揺らぎ、人口減少に歯止めは掛からず、龍彦の母親も優雅な生活を送っているとは思えない。

 その生い立ちを知る植田は、静かに頷いた。ニュースが派手に取り上げたら、母親が姿を見せることもあるだろうが、取り沙汰されなければ出てくることはないはずだ。

 二人は言葉少なく食事を続けた。

「俺の提供精子も、火星行きの承諾をしているよ。もっとも、選抜されたかはわからないが……」

 食後のコーヒーを一口啜った植田が、そう言う。この時代、大多数の人は子孫存続のために精子と卵子を提供する。ただ二二世紀になり、人工授精の後、受精卵は人工母胎に着床し成育する人工出生が主流になっていた。多くの女性が妊娠出産と育児を嫌う状況の中で人口減少を食い止めるため、前世紀の社会倫理は脆くも崩れていた。その実情を嘆くのは、出産育児の経験がある高齢者だけだ。政府は、日本と日本人を末永く存続させようと、なり振り構わずあらゆる手段に取り組んでいる。

 国際協力で進められる火星移住計画では、移住者の主体を凍結受精卵を用いた人工出生によって確保しようとしている。その方が多種多様の人種を数多く火星へ送ることができ、移住の人口調整も柔軟に対処できるからだ。生身の人間を時間凍結を用いて火星に送るのは、そのバックアップ的な処置だった。

 人口減少の進行に危機感を抱く日本政府は、存続の一つの手段として火星移住計画に協力することにした。提供者の承諾を得た精子と卵子から純血の日本人受精卵を用意し、火星に送り届ける。将来、隣の赤い惑星に日本人社会が生まれる可能性があった。植田和宏も、提供精子を火星計画に用いることに承諾をしていたが、実際に人工授精が行われたのか、それが火星に送られるのか、そうした情報が提供者に伝えられることはなかった。

 龍彦もコーヒーを啜る。

「佐山が火星移住者に選ばれるとはな……」と植田が呟く。

 佐山龍彦がいい奴だということは、植田が一番理解している。ただ、選りすぐりのエリートではない。成績は普通だ。その普通の男が選ばれたことが腑に落ちない。

 火星移住の希望者に特別な資格は必要なかった。試験もなく、日本人なら誰でも手をあげることができるため興味本位で応募する人が多かった。そこで、どのような条件でふるいに掛けたのかは公表されていない。

 なぜ佐山が選ばれたのか、選考ではなく抽選ではないのか……。しかし植田は、賢明なことにそれを口にはしなかった。

「でも、火星に行って何をするんだ? 具体的に決まっているのか」

 植田は、移住計画に関する一つの疑問を尋ねる。

「未定だよ。移住者は時間凍結されて火星に行く。いつ目覚めるかは向こうの状況次第だ。場合によっては何十年、何百年と凍結されたまま火星の周りを回り続けることになる」

「それは知ってるよ。火星開拓はスーパーコンピューターが運用管理する機械が現地の資源を使って行う。人手は必要ない。コンピューターが上手くやり、居住環境が整った施設が完成した後に順次凍結解除される。ただそれも、受精卵の人工出生が主体だ。生身の人間の出番はない……」

「いや、人間社会には大人の存在が不可欠だよ。子どもだけの社会では問題がある。最初の子どもの成長に合わせて生身の人間も凍結解除され、火星に新たな社会を築くことになるんだ」

 植田は唸った。

「いや、その理屈はわかるが、お前、子どもを育てた経験はないだろう」

「ああ、ない。子育ては育児ロボットの仕事だ。任せておけばいい。問題は精神面だよ。スーパーコンピューターは優秀だが、所詮デジタルの思考だ。子どもの精神的成長に対応するのは難しい。生身の大人が身近にいて、普段から接することが大切になる」

 植田の片方の眉がピクリと動く。

「なるほど、そのために火星へ行くのか……」

「地球から隔離された遠くの世界で、平和な社会を築くことになる。地球に蔓延る争いの火種を完全に消し去るには、どうすればいいのか。これは壮大な社会実験でもあるんだ」

 植田は小さく頷いた。平和な社会を築くための実験に加わる人物として、佐山龍彦のような男は適任なのだろう。それは間違いないと思う。

「火星へ行くのか……」

 祝福し、気持ちよく送り出さないといけない。植田の心にその想いはあったが、なぜかしっくりしなかった。

 コーヒーを飲んだ龍彦が、カップをテーブルに戻す。

「ああ、行くよ。これでお別れだ……」




    二


 旅客機を降りた佐山龍彦は、手続きを済ませ到着ロビーに進んだ。そこに一人のアジア系女性が立っており、龍彦の顔を見て微笑み、近付いてくる。

「こんにちは、ようこそ。中原真紗美です」

 火星移住のコーディネーターを務める女性だ。整った顔立ちには一世代年上の落ち着きを感じる。仕事の出来るキャリアウーマンという印象だ。龍彦は、緊張の面持ちで会釈した。

「佐山です。よろしくお願いします」

「ありがとうございます。計画に加わっていただいて……」

 彼女のその言葉に、龍彦は少々戸惑った。お礼を言うのはこちらだと思う。

「慌ただしかったでしょう。急がせてすみませんでした」

 確かにバタバタした。しかし、火星に出発するまであまり時間がない。それも仕方ないと思う。

「荷物はそれだけですね」

 龍彦が頷く。小振りのキャリーバックを引いていた。

 火星に持ち込める私物は、支給された小型のキャリーバックに入る物だけだった。重量制限もある。龍彦は地球での柵を絶つために、持ち物をバッサリと処分していた。後戻りをする気はない。キャリーバックの中もガラガラで、大した物は入っていなかった。

「では、宿舎に行く前にロケット打ち上げ施設を見に行きましょうか」

「ええ、お願いします。飛行機の窓から覗いていたんですが、それらしい物は見えませんでした」

「そうですね、少し距離がありますから。ロケット発射場は島の東海岸にあります。車を使いましょう、こちらです」

 そう言い、彼女は出入り口に向かって歩き出した。

「今日、打ち上げがあるのですか」と後に続いた龍彦が尋ねる。

「いえ、残念ですが、今日は打ち上げの予定はありません。でも、発射台の一つに貨物用ロケットが設置されています。来週、打ち上げる予定です」

「来週ですか。その打ち上げを見ることはできますか。まだ、見たことがないんです」

「そうですか。では、見学できるようにスケジュールを調整しましょう」

「すみません、お手数をお掛けして……」

「いえ、大丈夫ですよ」と真紗美は笑みを見せた。

 龍彦も宇宙に出ることになる。しかしロケットに乗るときは、時間凍結カプセルの中だ。打ち上げの緊張や興奮を感じることはない。それを残念に思っていた。

 二人は二重のドアを抜けて施設の外に出た。南国の日差しが出迎えてくれる。

「暑いですね」

「この時期の日本と比べると、気温差が大きいですね。でも体が馴染めば快適ですよ」と真紗美が答える。

 しかし龍彦は、体が馴染む前に地球を立つことになるだろう。そう思った。

 国際宇宙港を造る際、場所をどこにするかが問題になったようだ。広い敷地が必要で住民が反対する候補地もあれば、誘致に積極的な場所もある。ロケットの打ち上げには赤道直下の方が地の利があるが、作業員や設備機器には暑すぎて過酷な面があり不向きだ。候補地選定に手間が掛かったようだが、最終的に緯度が低く東側に大海が広がるこの島に決定する。大規模な造成が行われ、三基の発射台を備える広大なロケット打ち上げ施設と、滑空シャトルが着陸する全長六〇〇〇メートルの専用滑走路、四〇〇〇メートルの航空機用滑走路を備える空港と様々な関連施設が造られ、関係者が暮らす街もできていた。

 空港ビル前の車乗り場には何人かの列があった。龍彦と同じ到着便から降りた人だろう。二人が最後尾に並ぶとコンパクトな車が目の前を通過する。車内には四つの座席が対面に設置されていた。島内を走るサービスカーだ。同じデザインの車が何台も通過し、二人の順番になった。到着した車に乗り込むと真紗美が行き先を車載コンピューターに告げる。するとモーターが低い唸りをあげて走り始めた。

「実は、半分諦めていたんですよ」と真紗美が言う。

「諦めていた、何をです?」

「火星移住者の欠員補充ですよ。期日が迫っているでしょ」と龍彦の顔を見る。

 龍彦はそれに頷いた。

 地球と火星の会合時期から燃料消費の少ないホーマン軌道での出発日が決まる。そのタイミングを逃すと二年二ヵ月待たなくてはならない。出発日をズラすことはできないので、欠員があっても船は出てしまう。

「日本人枠として八人を得たのは破格の対応なの。過去の実績を高く評価してくれたのよ」

「過去の実績、ですか」

「ええ、火星開発で使われる機械装置の自動運転技術は、日本のロボットによる生産技術が基礎になってるわ。それに、時間凍結の基礎理論を築いたのは日本人の科学者よ」

「小久保健司博士ですね、ノーベル賞を受賞した」

「そうね、小久保博士の後、物理学賞を受賞した日本人はいないわ。技術立国日本、の終焉になるわね。残念だわ」

 技術立国という言葉も、もはや死語だった。現状の日本からは想像も難しい。

「そうした過去の実績が評価され八人の人数枠が決まったのですか」

「そうなの、過去の実績というのが悲しいわね。なのに二人も辞退してしまった。面目丸潰れよ、慌てたわ」

「もう一人は決まったのですか」

 真紗美は眉間に皺を寄せ、首を横に振った。

「ダメだわ、決まっていないの。欠員一名ね」

「そうですか……。移住する六人は、どこにいるのですか」

 真紗美は、か細い人差し指を天井に向けた。

「上よ。時間凍結されて船に運ばれたわ」

「私は会うことができないわけですね」

「そうね、火星で会うことになるわね」

 龍彦は頷く。少し心細く感じる。

 二人が乗った車は空港施設を離れ、深い森の中を真っ直ぐに延びる道を走っていた。

「なぜ、二人は辞めたのですか」

 しばらく窓の外を眺めていた龍彦が尋ねた。

「訓練中に恋愛感情が芽生え、地球に残って暮らすことにしたと聞きましたが……」

 その話に真紗美が笑った。

「それ、どこの誰が言ったのかしら。でも、そっちの方がロマンがあるわね」

「違う、ということですか」

「ええ、違うわ。現実は夢のないものよ」

「夢がない……」

 龍彦はその言葉の意味を測りかねていた。その表情を見た真紗美が答える。

「宇宙開発事業は縮小傾向にあるわ。莫大な費用が掛かる割に見返りが少ない、その事実を前にしてどの国も手を引こうとする。火星移住計画も同様ね。情勢不安から逃れ、人類存続の道を確保しようと立案されたけど、火星移住にお金を掛けるより地球の状況を改善することにお金を回した方がいいとする考えが一方にあるわ。それはもっともね」

 龍彦は頷きつつも、その反論を口にする。

「しかしそれは簡単なことではない。これまでに人類の暴走を止めようと努力してきたが、世界情勢は一向に改善しない。次第に悪くなるばかりです。そうした状況を打破しようと火星移住が計画されたと思いますが……」

「そうですね。でも、違う考えの人もいる。宇宙事業をやめれば、自分のところにお金が回ってくると思う人は少なくないわ。そういう人たちが徒党を組み、反対する」

「反対派ですか……。でもそれが、二人の辞退とどう絡むのですか」

「家族よ。移住者の家族に近付き、焚き付け、知恵を与えるの」

「焚き付ける?」

「家族の中には火星移住に心の底で納得していない人がいるわ。そういう人をそそのかすのよ。やめさせる手段があるとね」

「やめさせる手段?」

「火星移住は強制じゃないわ。本人の意思よ。でもその意思決定に誤りがある場合も考えられる。だから訓練期間中に家族からの異議申し立てができるようになっているの。反対派はその知恵を与え、支援するのよ」

「そうした外圧で二人が辞退したのですか」

「当人も不本意だと思うわ。でも、家族が泣いて懇願すると心が揺らぐものよ。その弱みを突かれると覚悟も崩れてしまう。心理戦ね。その道のプロの術中に嵌まってしまうの」

 龍彦は口をへの字に曲げ、唸った。それで両親の顔を知らない自分が選ばれたのか、と納得する。

「人類の存続を願った活動なのに新たな対立構造を生んでしまう……。何をしても情勢不安に繋がってしまうわ。そんなことを続けていて人類に未来はあるのかしら」

 困惑顔の龍彦には、真紗美のその声が多くの人の嘆きのように聞こえた。これまでの暮らしにうんざりしていたことが火星移住の動機といえるが、関わったからには誇れるような成果を得たいと考えていた。しかし、成果が出たとき地球はどうなっているのか。それを想うと複雑な気持ちになる。

 ポンと視界が開けた。車が止まり、二人は外に出る。

 ちょっとした丘の緩やかな傾斜地。遠くにロケット発射台が見え、その先は大海原が広がる。ジリジリとした日差しが降り注ぐ展望所だ。

「打ち上げを見るなら、ここが一番ね」

 ポツンポツンと三基の発射台がある。ただ、一つの発射台に設置された大型ロケットがイメージよりずっと小さく見えた。距離がある。

「この先は立入禁止ですか」

「ええ、関係者以外は入れないわ」

 龍彦は頷き、発射台にあるロケットが炎を吐き上昇する様を想像した。勢いよく真っ直ぐに昇天する。

 龍彦の胸が高鳴った。

 宇宙に出る。火星に行くのだ。




    三


「結局、時間凍結については、これっぽっちもわからなかったなぁ……」と諦め顔の佐山龍彦が言う。

 短い訓練期間の中で時間凍結理論の触りを教授されたが、それすら理解することができなかった。

「何がどうなってそのような状態になるのか、さっぱりわからない」

 その言葉に火星移住コーディネーターの中原真紗美が頷く。

「そうね。私もその理屈を説明できないわ。理解していない。大半の人がそうだと思う」

 火星移住者用のジャンプスーツを着た龍彦も頷き、口を開く。

「でも重要なのは、時間凍結カプセルの中に入り装置が作動すると、経過時間がゼロになることです。心臓も呼吸も止まってしまう。生命活動は停止するが死んだわけではない。それにカプセルが逆さになっても中の人間は微動だせず、落ちて転がることもない。全ての現象が停止する不思議な状態だ」

「確かに不思議ね。狐に抓まれたような話だわ」

「不思議だけど、身の回りには理解できない現象が数多くある。たとえば、金属の塊である飛行機がなぜ飛ぶのか? その理屈を説明しろと言われても言葉に詰まってしまう。でも、それを理解してなくても、中に乗り座席に着けば空を飛ぶことができる。世の中、そういうものだ」

 龍彦はそう考え、開き直り、時間凍結理論の理解をあっさりと放棄していた。

「そうね、難しいことを考えるのはやめましょう」と真紗美が頷き、同意する。

「ええ、時間凍結のお蔭で遠く離れた火星まで行き、年をとることなく居住設備が整うのを待つことができる。時間凍結理論の創始者である小久保健司博士に感謝しないといけませんね」

「時間凍結カプセルの運用は随分前に始まっているわ。不治の病で未来の医療技術に望みをかけている人や、この時代の状況に失望し未来社会に身を託す人たちが長期の時間凍結に入っている。安全性も確立しているのよ、心配ないわ」

 真紗美の最後の言葉に、龍彦は表情を固めた。

 自分は心配しているのか?

 もしかすると目覚めることがないのかもしれない、と不安に押し潰されているのか?

 覚悟はできていると思っていたが、いざカプセルに入る時を迎えると、体が震える。心が揺れた。

 龍彦は大きく息を吐いた。

「行きましょう。ここで下らない話をしていても始まらない。さっさとカプセルに入れて固めてくれないかな」

 その決意に真紗美は無言で頷き返した。椅子を立ち、壁際へと歩き、ドアを開ける。

 ゆっくりと立ち上がった龍彦は、頭を無にして控え室を出た。通路を歩き、その先の部屋へ入る。

 円柱形の装置がそこに横たわっていた。時間凍結カプセルだ。

 脇にいたスタッフがカプセルの側面を開口させた。壁面の分厚さが窺える。それに対し中の造りは極めてシンプルだ。薄いクッションの寝台があるだけだった。

 龍彦は踏み台を使ってカプセルの中に寝転んだ。ハニカム模様の内壁、装置が稼働すると、この中の時間経過がゼロになる。

「ご健闘を祈ります……」

 カプセルの横に立つ真紗美がそう言い、ぎこちない笑みを見せた。

 龍彦は小さく頷く。

「ありがとう、さようなら……」

 その言葉を発するとカプセルがゆっくり閉じる。龍彦は真っ暗な中に一人閉じ込められた。荒い息遣いが響く。

 時間経過がなくなる。目覚めは次の瞬間だ。

 龍彦は、自分自身にそう言い聞かせていた。




    四


「三〇〇年……」

 佐山龍彦は唖然とした。過ぎ去った年月の大きさに、思考が停止する。

「この部屋は作業スペースを兼ねたエアロック室です。隣が居住設備の整った部屋ですので、そちらに移りましょう」と女性の声。

 そのセントラルコンピューターの言葉と共に、宙に浮いていた介添えロボットがアームを時間凍結カプセルに伸ばし、龍彦の体を保持した。引っ張り出されて隣の部屋へ運ばれる。

 ロボットは、ドアのところで突き放すように龍彦の体を放す。フワフワと漂い、そこで我を取り戻した。ゼロGは初体験だ。宙を舞う不思議な感覚に包まれ、龍彦は興奮した。

 自分は宇宙にいる……

 次に目覚めるときは火星の上、地球の三分の一Gだと教えられていた。ゼロGを体験できるとは思っていなかった。

 ゆっくりと漂いながら部屋の中を見回す。

 展望窓はない。

 ゼロGだから上も下もないのだが、地球で暮らしてきた移住者を気遣ってか、部屋は馴染み深い直方体の造りだった。面と面の継ぎ目に照明が配置され、床と天井に似せた二面には幾つかのグリップが取り付けてある。そして周囲の四面の壁には様々な設備が組み込まれていた。ディスプレー、フードディスペンサー、寝袋、ドライシャワー、トイレ……。以前映像資料で見た宇宙ステーション内部の乱雑さとは違い、すっきりと整えられている。生活感がなかった。

「これまでに、この部屋が使われたことはあるのかな?」と尋ねた。

「今回が初めてです」とコンピューターが答える。

「初めて……。凍結解除をしなくてはならないような故障は無かったということか……」

「はい、ありませんでした」

 それも驚きだ。数多くの時間凍結カプセルが三〇〇年も故障がなく稼働していたことになる。きっと、長期の使用を想定して対策を講じているのだろう。そして、故障の兆候が出たカプセルに入っていたことは運が悪かったのではなく、幸運だったのかもしれないと思った。

 さほど広くない部屋、龍彦は対面の壁に到達した。グリップを握り姿勢を安定させ、しばらく手近な設備を吟味する。

「火星が見たいな。窓がある部屋はないのかな?」

「すみません、凍結解除しメンテナンスするために用意した居住施設です。火星を観測する窓はありません」

 確かに、これといった娯楽設備は見当たらなかった。暇潰しに悩むだろう。

「予備のカプセルに直ぐ入るということか……」

「いえ、しばらく体調のデータを収集したいと考えます。三〇〇年、時間凍結した後に覚醒した人のデータがありませんので。ご協力願えますか」

 低姿勢を貫くコンピューターだが、その申し出を断ることなどできなかった。

「構わないが、暇を持て余すことになりそうだな」

「私がお相手しますので、何なりと申しつけください」

「何なりと?」

「もちろん出来ることは限られます。ここに火星を眺める窓はありませんが、観測衛星が捉えた映像があります。ご覧になりますか」

「ああ、見たいね」

「では、ディスプレーの近くに……」

 そう言われ、龍彦は側面の壁にあるディスプレーに視線を向けて片手で壁を押した。フワフワと移動し狙った場所に到達する。初めてのゼロG体験だが上手く出来たと思う。

 ディスプレーに赤茶けた荒々しい大地が映った。周回軌道から見た火星だ。訓練期間中に見た資料映像と似ている。目新しいものではなかった。

「地表で撮った映像もあります」

 とコンピューターが言い、映像が切り替わった。空はピンク色、赤茶けた緩やかな起伏が広がる殺風景な場所だ。そこに気密服の姿があったら、火星初到達の映像と変わりない。火星が目の前にあるのなら、やはり直に見て体感したいと思う。

「火星施設の映像はないのか」

 映像が替わる。荒れた大地の上に複雑な形状の構造物があった。

「複合生産施設です」

「工場か……。稼働してるのか」

「はい、一部の設備を除き稼働しています」

 当初計画では、最初に小さな生産設備を設置し、徐々に拡充していく予定だった。このように大規模で複雑な生産施設に成長しているのなら、計画は順調に進んでいるように思える。

「居住施設には、まだ手をつけてないのか」

 ディスプレーにドーム形状の建物が映った。

「これは、主に環境設備の性能を確認するための施設です」

「住むことはできないのか」

「はい。まだ、この一棟しかありませんし、永続的に安定した環境を得るためには、十分な資源を確保する必要があります。不安定な状態で移住を始めるわけにはいきません」

 空気や水が当たり前にあるわけではない。全く異質な惑星環境だ。人が生きるために必要なものを火星で調達し、安定永続的に造り出さなければ移住はできない。それが大変な事業であることは想像できた。しかし、三〇〇年が過ぎている。それなのに試験施設一棟しかないのは作業が遅すぎるのではないか……

「地球の移住推進機構は、何か言っていないのか」

 地球の人たちの考えが聞きたい、話したいと思う。

「地球との連絡は途絶えています」

「途絶えている?」

「はい。二五〇年前、唐突に途絶しました。以後、通信の回復はありません」

「通信がない……。何があったんだ?」

「わかりません」

「わからない? どうして……」

「こちらとの通信は火星開拓に関わる内容のみでした。地球の情勢については情報がありません。通信途絶以後は、それまでの計画に従って事業を進めてきました」

「今、地球はどうなっているんだ?」

「わかりません。ここには火星を観測する機器は揃っていますが、遠く離れた地球を観測するものはありません。現状の地球を知る術がないのです」

 セントラルコンピューターに与えられた使命は火星移住の遂行だ。地球の状況を調べることではない。それに地球の状況がわかっても手を差し伸べることは困難だ。通信が途絶し、地球からの助言や支援がなくなった状態で計画を進めてきたことを褒めるべきだ。生身の人間では、できなかっただろう。

 龍彦が地球で暮らしていた頃から世界の情勢不安のニュースは溢れていた。そこで推測された破滅へのシナリオのどれかが現実になったのか。複数のシナリオが絡んだのかもしれない。人類は滅亡したのか……?

 いや、そこまで壊滅的ではないだろう。文明が崩壊したに違いない。文明を失った人々が地球の各地で生き延びているはずだ。

 龍彦は、根拠のない望みに縋っていた。




    五


 佐山龍彦は大きな呼吸をし、気持ちを落ち着かせた。

 自分が言い出したことだ。尻込みするわけにはいかない……

 宇宙用の気密服も、着用法は訓練で行った火星用と変わりない。ゼロGで重さを感じることがないのでスムーズに着用できた。

「外壁扉を開けてくれないか」

 グリップを握り、セントラルコンピューターに指示を出す。

「了解、外壁扉を開けます」と無線を介し女性の声が答えた。

 エアロックの外壁扉がゆっくりと開く。漆黒の宇宙を前にして心臓が高鳴る。

 作業用無人機が正面に来て、アームを伸ばし始めた。

「背中を向けてください。バックパックのグリップを掴みます」

 龍彦はコンピューターの指示に従った。体を回し待っていると、背中に微かな衝撃を感じる。そして龍彦の体が宇宙へと引っ張り出された。頼るものが何も無い。鼓動と呼吸が速くなった。無意識に手足をバタバタさせる。目を閉じて心を静めた。

 時間凍結カプセルの格納施設の周囲を遊覧する。暇潰しでもあるが、せっかく火星の周回軌道で目覚めたのだ。何もしないで再び時間凍結カプセルに入るのは、もったいないように感じる。

 無人機が向きを変えた。龍彦は息を呑む。体が震える。ヘルメットのバイザーの向こうに赤茶けた大地の広がる星があった。ようやく自分のいる場所を実感する。火星の上空に浮遊し、その風景を見詰めた。やがて視界の隅に大きな建造物が見える。無人機はカプセル格納施設の全体が見える位置まで離れ、その周囲を回ろうとしていた。

 翼を広げた鳥のようにも見える。大きな太陽電池パネルを左右に広げ、三基の円筒形格納庫を束ねていた。その先端に機械設備室があり、反対側にメンテナンス用の居住施設が取り付けてある。火星を回る巨大な施設だ。

 ここには一〇〇人を超える人たちが時間凍結されている。空気も水も食糧も必要ない。電力の供給だけで三〇〇年も固まったままだ。

 円筒形格納庫の側面に幾つかのハッチが見えた。そこに連発銃の弾倉のように時間凍結カプセルが丸く配置されている。カプセルマガジンだ。自分が入っていたカプセルもそのどこかに組み込まれ、故障の兆候があったためカプセルマガジンがクルクルと回り、開口したハッチから取り出されてメンテナンス用居住施設に運ばれたのだ。

 体調のデータ収集が終わればまたカプセルに入り格納庫のマガジンに収納され、火星の居住施設の完成を固まったまま待つことになる。

 龍彦は再び火星に目を移した。

 赤茶けた荒々しい大地、そこに降り立つのはいつになるのだろう? 本当に降り立つことができるのだろうか……


 龍彦は居住施設に戻ってから、そのプランを口にした。

「火星に降りる?」

 セントラルコンピューターは驚きの声をあげた。その女性の声は大げさに感じる。

「どうやって火星に降りるのですか」

「カプセルに入るから、それを貨物シャトルに載せてくれないか……」

 火星周回軌道には格納施設や観測衛星、通信衛星など様々な設備がある。これを長期間運用するには火星の工場で製造する補修部品が欠かせない。この格納施設では電力の供給に太陽電池パネルだけでは心許ないため、パワージェネレーターを使用していた。格納庫の先端に一基ずつあり、常に二基が稼働している。そこには火星工場で造られた設備が使われていた。そのエネルギー源や、施設の姿勢・軌道を安定させる姿勢制御の推進剤も火星から調達する。そうした物資を軌道上に運ぶのが貨物シャトルの役目だった。

 シャトルに時間凍結カプセルを載せて火星に降りる。その機能は備えていた。

「火星に降りたら居住試験ドームに運び、そこで覚醒する」

「試験ドームで暮らすのですか、独りで……」

「試験用の設備であっても一人ぐらいなら十分暮らしていけるだろう。実際に人が生活するのだから居住試験としても意味があるはずだ。もし設備に致命的な不具合が起きたら、急いでカプセルに逃げ込むよ。時間凍結で不具合が解消するのを待つ。可能だろう?」

「可能ですが、居住試験をするために火星に降りるのですか」

「一つの名目だよ。本当は、カプセルに入って、また格納庫のマガジンに押し込められるのが嫌なんだ。わざわざ火星まで来たんだから、じっと固まっているより何かがしたい。火星に降りたいと思ったんだ」

 セントラルコンピューターには珍しく、少しの間が空いた。時に人間はとんでもない我が儘を言うときがある……。知識として認識していたことは、こういうことなのかと吟味していたのかもしれない。

「試験ドームは、人が暮らすための設備が整っていません。ドームの中は空っぽの状態です。長期の運用試験が終わった後は牧畜施設として流用する予定ですから」

「別に問題ないよ。設備の整った個室など必要ないし、適当な所で寝袋に入って眠るから。それに、私が育った養育施設では何種類かの動物を飼っていたんだ。動物の世話も嫌じゃない。ついでに計画を前倒しして、ニワトリなんかを飼育したらどうだろう。新鮮な卵も食べることができる」

 と龍彦は笑う。そして真顔になった。

「それとも、このプランが実行できないという根本的な問題があるのかな?」

「いえ、大きな問題はないでしょう。細かな問題をその都度対処すれば、本格的な移住を実行する際に役立つと思います。ただ、あなたがたった一人で寂しい生活を続けることができるのか疑問です。耐えきれなくなりカプセルに逃げ込むようなことになっては不憫ですから」

「不憫か……。それも含めた試験だな。移住者は、地球との関係が絶たれた火星で生き抜くことになる。きっと、孤立や孤独を感じると思う。それに耐える術を身につけないといけない」

 龍彦は決意を固めた。口にした以上、突き進むしかない。


 全身の細胞が震え、活動を再開させた。

 違和感を覚える。真っ暗なカプセルの中で重力を感じた。

 火星だ……と呟く。

 カプセルが開口し明かりが差し込む。四つ足の作業ロボットが出迎えてくれた。上体を起こし周囲を見回す。ガランとした殺風景なドームの内部、野球場ほどの広さは計画された居住用ドームでは小規模なものになる。

 龍彦はカプセルを抜け出て立ち上がった。その時、頭がグラリとし、よろめいた。それを予測していたのだろう、ロボットが素早くアームを伸ばし、龍彦の体を保持した。カプセルの横に置いた椅子に座る。

「大丈夫ですか」

 セントラルコンピューターの声がロボットから聞こえた。

「大丈夫だ。でも、驚いたよ。地球重力の三分の一しかないのに、体がキツい」

「ゼロG環境で活動したからでしょう。地球で時間凍結し火星で覚醒すれば身軽に感じると思います」

「宇宙にいたのはそれ程長くはなかったのに、体には怠け癖がついたようだな。心臓も、頭の天辺まで血を送るために力を入れないといけないことを忘れていたようだ。情けないよ」

「まずは火星の環境に体を馴染ませてください。動き回るのは、それからにした方が無難でしょう」

「そうするよ。安易に動いてケガをして、ロボットの手を煩わせては申し訳ないからね」と龍彦は笑った。




    六


 一人の高齢者がドームの中を見回した。

 そこには火星の低重力に馴染んだ体の大きな乳牛が散らばり、草を食んでいた。天井の照明が目映く輝き、心地良い暖かさに包まれている。

 佐山龍彦はベンチへ歩み、ゆっくりと腰を下ろした。低い唸り声が漏れる。地球の年齢で七〇を迎えようとしていた。龍彦は四〇年間の想い出が詰まったこのドームに来て、のんびりすることを日課にしている。

 年老い、運動能力は低下したが体調に問題はない。診療システムも、まだまだ死ぬことは無いと太鼓判を押す。地球で生まれ育ったことで体の基礎が強く、二八歳で三分の一重力の火星に移り、体への負担が軽い状態で四〇年を過ごしてきたことが体調が良い理由だろう。火星で生まれ育った新人類には真似のできないことだ。

 だが、自分のような地球生まれの人間が火星社会の運営に長く関わるのは良くない。火星生まれの新しい世代に託すべきだ。そう思い、現役を退いていた。もともと統治を担うような器ではない。

「こんにちは」

 若い女性の声。顔なじみのエミリだ。背が高くスリムな体形は、胎児の時からこの星の重力に馴染んだことの証だ。連れている幼い男の子にも、その特徴が現れていた。彼女らにとってはこの火星が故郷になる。三倍の重力環境の地球では暮らせない。

「こんにちは。トウマ、今日もご機嫌だね」

 覚束ない足取りの幼な子が、大きな乳牛を指さし何かを訴えている。

「トウマ、おじいちゃんにご挨拶は?」

 そう母親に言われ、トウマはヨタヨタと龍彦の前に歩き、その腰をぎこちなく曲げてお辞儀をする。龍彦が微笑むと、トウマは再び乳牛を指さし言葉にならない声を発した。

 二人とは、血縁があるわけではない。

 エミリは日本人の受精卵から生まれた人工出生の女性だ。その彼女が一六歳の時に子どもを身ごもったのは、自然出生への強い関心が一つの理由になる。龍彦も、若い時期に妊娠出産を経験するのは悪いことではないと思う。もっとも、そのお相手は同年代の男性だ。性への興味が先に立った結果であることは否定できない。それに、純血の日本人を繋ぐこともできなかった。トウマの顔立ちには、父親の西洋の血筋が色濃く出ている。やはり地球の人種に拘るより、全てが混在する火星亜種の道を進む方が健全なのだろう。

 エミリは龍彦の横に座り、柵にしがみつき牛に声を掛ける我が子を見守る。彼女は子育てを育児ロボットに任せるのではなく、自身の手で世話をするように努めていた。その生い立ちへの反骨が素地にあるのだろうが、若いのに立派だと龍彦は感心する。

「ニュースで見たわ。出発したのね」とエミリが言う。

 最初の地球観測機の話だ。この惑星会合のタイミングで火星を出発し地球へ向かった。龍彦は、最後のプロジェクトとして関わっている。

「八ヵ月後に地球へ到達し観測を始める。ようやく、地球の現状がわかるだろう」

 エミリも、起源の星として地球に関心を持っていた。そこで生まれた龍彦とこの場所で会うようになり、素朴な疑問を投げかける。その中で地球観測の話題も出ていた。地球との通信は未だに回復していない。何があったのか、今どうなっているのかは大きな関心事だ。

「私、怖いわ……」

 それは火星生まれの新人類が持つ感情だった。自らの愚行で文明を崩壊させた、という推測がある中で、地球の人たちを粗暴だとする悪いイメージが若者たちに定着している。観測機を地球に送ることを切っ掛けに地球人類との交流が始まり、未熟でか弱い火星社会が潰されてしまうのではないかと心配していた。

 龍彦が返答に苦慮している間にトウマが愚図り出した。エミリは歩み寄って我が子を宥める。いくら声を掛けても無視して草を食べ続ける牛たちの態度に機嫌を損ねたのだろう。もっとも、牛が気を利かして近寄ってきたら、その大きさに怯え、泣き出すことになる。どちらであっても大差ない。

 手を繋いだ親子がベンチに戻ってきた。

「ごめんなさい、もう行くって……」

「そうか、そういう日もあるのだろう……。トウマ、また会おうね、バイバイ」

 その龍彦の言葉に、涙目の幼な子は小さな手を振る。

 二人はドームの出入り口に向かって歩き、龍彦はその後ろ姿を見送った。

 確かに、地球人類との接触は火星社会にとって驚異になり得る。しかし、故郷の星がどうなったか、同胞がどのような境遇にあるのか、それを知る必要があり、もし窮地にあるのなら手を差し伸べたいと思う。そしてそれは、地球で生まれ育った移住者の役目になるのだろう。

 龍彦は大儀そうに立ち上がった。親子とは違う出入り口に体を向け、歩き出す。毎日の散歩コースを進み、幾つかの居住施設を抜けて一人暮らしの自宅に向かった。

 行き交う人と挨拶を交わす。皆、顔見知りだ。それに龍彦のような高齢者は数が少なく、目立った。現状、移住者の時間凍結解除は、極力行わないようにしていた。それには幾つかの理由があったが、第一に火星の新しい社会に地球の古い常識を持ち込みたくなかったからだ。そこにも地球人類への嫌悪があった。開拓初期に苦い経験もある。

 もしあの時、火星に降りる決意をしなかったら、自分はまだカプセルに閉じ込められたままではないか、と龍彦は思い、幸運に感謝していた。


 龍彦は統括管理官ルベルトの執務室を訪ねた。彼は三二歳の若さだが、火星生まれの中では年長者の一人だった。

 火星社会の政治は、地球とは異なるものになっている。政治家と呼ぶべき人物がいないため、住民がそれぞれの施策について意見を言う。それは火星社会が小規模なことと、セントラルコンピューターの高い能力によって実現していた。日常的にコンピューターが住民一人ひとりの疑問に対して丁寧に答えることにより各自が思慮を深め、その意見や意思をコンピューターが集約し火星開拓の方向性を決定したり、日々発生する様々な問題に対応対処している。その統括管理の責任者になるのがルベルトであり、かつて龍彦もその仕事に就いていた。

「ラジオ放送だそうですね」と怪訝な顔をする。

 最初の観測機が地球に到達し、周回軌道で捉えた電波だった。火星生まれの彼らがラジオに馴染みがないのは確かだ。ただ龍彦も、ラジオに親しんでいたわけではなかった。

「何をするのですか?」

「周囲の人たちにニュースを伝えたり、あとは、娯楽かな」

「娯楽?」

「ああ、楽しいお喋りや、音楽を流したりする……」

 ルベルトは腑に落ちない表情を続ける。龍彦は顔を顰めた。

「それよりも気になるのは、観測衛星の次の周回から、そのラジオの電波を受信できないことだ。電波が弱くノイズも酷かったから、上手く捉えることができなのかもしれないが、もしかすると常に放送をしているわけじゃないのかもしれない」

「常に放送していない……。なぜです?」

「それだけ困窮している、ということだろう。放送をする余裕がないということだ。昔、私が見た周回軌道からの映像では、地球の夜は明るかった。街の光が目映く大地に広がっていたんだ。だが今は、夜は真っ暗。街の光は見えない。電力の供給が覚束ないのか、そもそも人がいないのか」

「人がいない……。一〇〇億もいたのに?」

「何があったかわからないが、未曾有の惨事であったことは確かだな」

「未曾有の惨事……」

 ルベルトはそれを想像してみたが、混乱が増すばかりだった。

 龍彦が唸る。

「もっと近付いて観測したいが、現状では無理だ」

 地球の低軌道には無数のスペースデブリが散乱していた。地球を周回していた施設の残骸だ。衝突の恐れがあるため観測衛星の高度を下げることができなかった。

「どうしますか」

「このまま高軌道を周回し、漏れ出てくる情報を拾うしかない。デブリは長い年月の間に、地球の重力に引っ張られ落下していくだろう。地球に近付くのは、低軌道のゴミが無くなってからになる」

「地球への呼び掛けはどうします?」

「闇雲に呼び掛けても意味はない。高軌道からの電波を地球上で受けるには、指向性の高いアンテナを空の的確な方向に向けないといけない。そんなことをする人がいるとは思えないな……」

 その話にルベルトはホッと息を吐く。地球人類との接触が先延ばしになることで安堵をしていた。

 龍彦は険しい顔をする。

「少なくとも、生き延びた人たちがいる。我々は、その事実を素直に喜ぶべきだな……」

 そこで龍彦の脳裏に不安が過ぎった。

 将来、火星と地球の人類は上手く交流することができるのだろうか……

 火星の社会に争い事はみられない。穏やかで平和に暮らしている。それは人口が少ないからか? 社会が新しく争いの火種がないからか? それとも火星人類の境遇から生まれた資質なのか……

 かつての地球で、争いを拒み平和を望んだ人たちがいた。一体、彼らはどんな社会を夢見ていたのか。現状の火星社会とは違うような気がする。穏やかな平和とともに、活力のある社会を望んでいたのではないのだろうか。

 今の火星人類には、それがない。

 押し並べて穏やか、保身を図り、冒険を好まない。

 それでは、人類の進化が停滞することになりはしないか。

 生きる化石。地球に生息する何万年も姿や生態を変えることなく、ひっそりと暮らす深海魚のように……。それでいいのか?

「統括管理官、一つ、個人的な願いがあるのですが……」

 ルベルトは表情を引き締め、身構えた。

「何でしょうか」

「私は、もう七〇歳です。地球の状況、火星の未来、それらを確認するまで生きることはできません。地球で生まれ育ち、火星開拓に携わった者として無念に思います。同時に火星の行く末、地球の行く末が心配、気になります。そこで無理なお願いです。時間凍結カプセルに入り、その時を待つことはできないでしょうか……」

 その申し出にルベルトは驚く。そこまでする理由がわからない。龍彦はそれを察した。

「火星人類は、この先独自の社会を築くことになるでしょう。古い地球人類の気質を拒むことになるかもしれません。一方、その地球で生き延びた人たちも新たな社会をつくることになります。どのような社会になるのかわかりませんが、両者の根源は同じです。反目するようなことは避けなければなりません」

 ルベルトはその話を受け入れ、静かに頷く。龍彦は話しを続けた。

「もし、二つの人類の間に仲介が必要ならば、その役目を負うのは、私のように両方の星で暮らしたことのある人間ではないでしょうか。ここでの役目は終わりました。私に何ができるのか疑問は残りますが、未来の二つの人類の平和共存に力添えをしたいと思います」

 そう言いながら龍彦はむず痒くなった。そんな志の高いものではない。

 老いを拒んでいる、死を怖れているだけだ。先延ばしをするための悪あがき、我が儘に過ぎない。

 だがルベルトは大きな感銘を受けていた。

「老師サヤマ、先陣を切り火星開拓に尽力した殊勲者。ご立派です。ぜひ、未来の社会、二つの人類のためにお力添えをお願いします」

 その表情から、地球生まれの年寄りに対する都合の良い処置、妙案と考えているように感じた。老いさらばえる厄介者をどうするか。それはこの若い社会における一つの課題である。

 老いと死をさらけ出すことも年長者の役目のように思う。しかし、死を受け入れるのは辛い。時間凍結され、そのまま放置される可能性もあるが、そちらの方が安らかだ。

 龍彦は決意をした。もう一度、時間凍結カプセルに入る。




    エピローグ


 全身が震えた。

 時を越えたことがわかる。

 暗闇に光が差し、カプセルが開口する。鼓動が高鳴った。何年経ったのか? 世の中はどう変わったのか?

 老いた体を起こし、介添えロボットに視線を向ける。

「佐山龍彦さん、知恵を貸してください」

 聞き慣れたセントラルコンピューターの女性の声だ。龍彦は眉を顰める。

「何があったんだ……」

 そう言いながらカプセルを出て立ち上がった。グラリとふらつき、ロボットに支えられる。

 それは時間凍結の影響なのか? 老いた体が原因か? それとも待ち受ける苦難の予感に目まいを起こしたのか……


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