05_映る姿の想い人
「……」
胸の内の温もりを抱きながら、狐は山道をゆっくり歩く。
姿がおぼろになりながら、しかし、まだ想い人の影を残している。
吸いとった相手の、最後に浮かべた笑顔の味。
甘美なそれをかみしめながら、けれど狐の胸の内は、満たされないままだった。
(……あれから、いかほどの時がたったのだろう)
ついこの間のことのようにも、ずいぶんと昔のことだったようにも感じる。
二つの影がよりそい、語り、また静かに闇へ戻るだけの出会い。
ささやかな時間は、しかし、遠い日の影がゆらめくばかり。
人形と狐の密会は、あの日以来、ぱたりと途絶えていた。
―――妖殺しを重ねる人形の噂は、風のなかに混じっていた。
以前と異なり、狐は人形の姿を自発的に探すこともした。
だが、なぜかその姿を見つけることはできず、時はただ過ぎていった。
以前は、会いたくなくても、ふらりと重なることが多かったというのに。
(……会えないのか、会えなくしているのか?)
最後の出会いをふりかえり、狐はそう自問する。その可能性が、一番高いようにも想われた。
安心したのは、最初に聞いた「妖殺しの人形がいる」というものから、噂が変化している様子がなかったことだ。
逆を言えば、人形はまだその存在を現世に残している――とも言える。希望的観測、とも言えるが。
(猫は死期を感じた際、自ら姿を隠し、誰にもそれを悟らせないという)
人形がそうだと、狐が考えているわけではなかったが。
[――飢えが満たされるの。もう、人間なんかの温もりじゃ足りないの]
「……」
狐を彩る輪郭と、胸の内の暖かさが、急速に虚ろになってゆく。
あの言葉を想いだすたびに、ひどくなる。胸の内が、ずっと、乾いているかのよう。
(――この乾きの意味を、彼女なら知っているのだろうか)
ため息を一つついて、空へと顔をあげ、想いをはせる。
「……似て、いる」
青い光が、闇夜をうっすらと照らす。暗闇に生きる、森や水、風や音、狐の姿を怪しく彩る。
月がまばゆい夜だった。
(似ている。始めて出会った、あの夜に)
紅い着物をまとい、紅い傘を咲かせ、狐の姿を見つけた人形。
それは同時に、狐が人形の姿を見つけた日でもある。
――そんな夜ゆえか。二つの妖の『縁』が、再び近づくことになるのは。
(風のエフェクト)
かすかな風の、調べに乗って。
(破壊音のエフェクト)
「……!」
その一瞬の鈍い音に、しかし狐の胸中は、嫌な胸騒ぎにとりつかれる。
足が、自然に動いていた。枝を払い、闇を抜け、足を泥で濡らし、白い着物を黒へと染めて。
狐はただ、音の響いた場所へと向かう。
なんの音かもわからない、けれど、狐はただ全力で駆ける。
狐はただ――走り続ける。
「――!」
一瞬、立ち止まり。
(何者かを惨殺したエフェクト)
そしてまた、走り出す。
――足を止めたのは、傷ついた妖の首を刎ねておくため。
妖殺しの罪は、一切、脳裏に浮かぶことがなかった。
その存在を、本能的に、狐は許しておくことができなかったのだ。
明確な理由はない。はたから見れば、凶行に及んでいるのは、狐でしかない。
しかし、妖からは、妖気が漂っていた。
とても見知った、遠い知り合いのものが。出会いたくても出会えない、想い人の匂いが。
だからこそ、手負いの妖の首を刎ねた。
それは、力をとりこんだばかりの狐には、造作もないことだから。
妖の血が、紅い血が、強く実体化した狐の手を染める。紅く、紅く。
白い指先だけではなく、その身、全身をも。
紅い返り血で彩られながら、そのなかに混じる匂いに、狐は確信してしまう。
(……!)
それでも、認めないために、走る。
――認めたくないがために、走る。
向かう音の先には、失くしてしまいたくない、なにかがあるのだと。
そう思わなければ、その音を聞き取れるはずがないと、自分に言い聞かせ。
そしてそのモノが、未だに残っているはずだと信じて。
狐は、闇夜を駆けた。
その身を紅く染め、二つの眼をこらし、駆け続けた。
――そして、見つけた。
月夜に照らされた、白磁と紅の残骸を。
「あら、こんにちは」
「……!」
いつもどおりの挨拶のように、その断片が言葉を紡ぐ。
声の響きが鈍いのは、ひび割れた頬から入り込む風のせいか。
流れるような美しいラインだった顔は形なく、亀裂が縦横に走っていた。
「……!?」
その顔を見ていられず、狐は周囲へと眼を走らせる。
救いを求めるように先端が広がった、泥で黒く染まった白い木々。だが、それは木々ではなく、人形の手だったもの。
ねじれた足に見えるものは、まるで枯れ枝のような弱さを見せ。
破れた衣服だけは、人形を包んでいた形を残そうと、かすかに原形をとどめる本体を守っていた。
周囲から戻るようにして、残された顔と髪を、もう一度見る。
美しかった白磁の肌は、土で化粧したかのように汚れ、生気がない。
何物をも魅了する瞳の片方は割れ砕け、残った瞳のあどけなさが逆に不気味ですらある。
狐は、あたり一面の惨状を見て、まるでちぎれた地図が広がっているようだと感じた。
美しく描かれた世界が、バラバラになっている現状。
だが狐には、その地図のどこをどうつなげれば、元に戻るのか――その見当を想いつくことが、まったくできなかった。
そしてその欠片達は――出会いを求めていた、人形の妖の、断片なのだった。
「ぼーっとして、どうしたの? ……あぁ、それはいつものことかしら」
軽口なのは、かつてと変わらない。
ただ今の状態では、妖はおろか、人間すら騙すことはできないだろう。
だからこそ、狐には異常に思える。
なぜ、人形はこんなにも、いつもと同じように語りかけてくるのだろうか、と。
「……なにが、あった」
それらを眺めながら、かつての知り合いの形骸を見つめながら、狐が口にできたのはそれだけだった。
「見ればわかるでしょ」
人形は、残った一つの眼と口元で、微笑んで。
「壊れたのよ、それだけのことね」
いつもの人形と同じ、どこか冷めたシニカルな態度を見せた。
「油断したわ。合わないモノを吸いすぎて、身体が落ち着かなくて。おまけに、噂を聞きつけた妖にも鉢合わせるなんて」
そこでいったん、言葉を区切る。
「――本当、やんなっちゃう」
人形は苦笑する。
四肢のない身体をかすかに震わせながら。
「それほどまでに、飢えていたのか?」
人形へと近寄りながら、狐は声をかける。
その言葉に、人形は苦笑する。
「飢えてたのかも。けど、本当は乾いていたのかも、ね」
「乾く?」
自身の胸の内を悟られたかのような言葉に、狐は問いかえす。
だが、人形はその問いには答えず、苦笑して、違うことを語りだす。
「……こんなんじゃ、もう誰も相手にしてくれないかしら?」
浮かび上がる笑みは、半分だけ。
その姿を見て、狐ですら驚きを隠せないのだから。
「ひび割れちゃった人形の価値は、がた落ちなのよ。恋人から娼婦を視るような、妻から売女を視るような、そんなものなのよ」
――はたして、人形の形を想いだせるものなど、存在しているのだろうか。
「……修復のつては、ないのか」
狐にとって、今の関心事は人形の価値ではない。
存在だ。
「あったとしても、意味はないわ。もう、わたしに人形としての価値なんかないんだから」
だが人形にとって、狐の質問は愚問だった。
狐が想う関心事など、人形の心の片隅にもない。
「――みんな、あんたのせいよ」
代わりにあった内心を言葉にして、狐に告げる。それは、むしろ狐の意を汲まないものだった。
「……?」
静かな瞳でそう告げる人形に、狐の瞳は動かない。
わかっているわ、とばかりに人形は言葉を続ける。
滑らかな、まるで何百回も復習した、そんな流麗さで。
「だって、あんたズルいんだもの。いつもいつも曖昧な姿で来て。なのに同じなんだもの、やんなっちゃうわ」
人形は、言葉を送り続ける。
ためこんだ手紙を送るように、次から次へと。
内に書き記した想いを、言葉に乗せて送りだす。
――狐の表情がなにも変わらないことを、百も承知と想いながら。
「……だから、人間じゃ駄目かなって」
「妖を、おそった理由?」
「そう。もう、人間以外にするしかないって、想ったわ」
「なぜ?」
理解できない。狐の内心の問いに、人形は答えた。
「人間の、誰と寝ても、誰を殺しても、誰が求めてきても、あんた嫉妬なんかしてくれなかったじゃない。だから……同じなら、妖なら、してくれるかなってね」
人の血を求めるのは、妖の性。
それは日常であり、特殊なことではない。
なら、その理を犯せば、心は動くのか。
人にあらざる者達を惑わせば、狐も同じく惑わされてくれるのか。
食料をたぶらかすのではなく、同じ立場をたぶらかす姿を見れば、瞳を具現化してくれるのか。
――まるでこちらの意を介さない朴念仁でも、こちらに振り向いてくれるのか。
そう願った人形の想いが、今、狐の眼の前にある光景だった。
「……ねえ、今の気分は、どう……?」
人形が声を揺らしながら、狐に問う。
しかし、狐の口からもれ出たのは、予想しない一言だった。
「……わたし、牝だもの……」
「え……?」
人形には、その言葉の意味が理解できなかった。
あまりにも突然で、予想外で、どこか間が抜けていて。
「……もしか、して?」
そこで、ふっと、人形は思い出す。
以前交わした、たわいもない雑談を。その時の、淡々とした返答を。
――子は、産むかもしれない。けれど、いつかはわからない。
「ふふ、あれ、本当だったの……?」
そうだった、と人形は今にして気づく。
妖は妖なれど、人形は固有の一体だけ。
だからこそ、人形は映え輝く。それが孤独という断絶と引き換えに、存在を意味しているものだから。
だが、狐は異なる。妖は妖なれど、孤独ではない。
長い時を生きる者なれど、その狭間で子を成す者でもあった。
もちろん、狐のなかでもそうでない者もいる。孤独を愛する個々もいる。
が、眼の前の狐は違う。そうではなかった、という、それだけの答え。
ただ、それだけのことだったのに。
あの頃から、この狐に惹かれていた自分に気づきもして。
自嘲とともに、人形はふりかえる。
どうして、そんな種族違いの想いに惹かれてしまったのだろうかと、そう想い。
「あーあ、馬鹿馬鹿しい。……ほんと、ばかばかしいわ」
冷たい、人の形を模した、この身体。
人の現を惑わすだけの形骸が、近づけるわけもない。
狐は初めから、人の形など欲してはいない。
それは、人を捕食するための幻想にすぎないのだから。
人形はこうなってから、初めて気づく。気づかされる。
確かに似てはいるが、違うところがある。
――初めから人形は独りで。
――生まれたときから狐は生命の理にいて。
――知らないうちに、それを踏み越えようとしていたのは人形だけなのだと、今更ながらに気づいて。
「本当、おかしいわ。笑っちゃう」
朽ちた身体だからこそ、ようやく、はっきりとわかる。
この身体は、狐の子など産めはしないことに。
「……ねえ、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
冷めた熱は、少しばかりの意地悪へと変化する。
――答えられない答えを、願いとして編んでやろう。
「最後くらい、わたしを愛する姿をしてよ。お願い」
そんな姿、この世のどこにもありはしない。
それを知っていながら、あえて願う。
人の形に過ぎないモノの幻想を、だからこそ、と。
「……あなたは、人形だもの」
「……どういう、意味?」
「心は、満ちない。乾くだけ。満ちることを知った心は、さらに乾くことしか覚えない」
「……よく、わから……ないわ」
わかってはいても。
感情の欠片は、まだ、人形の形の中に残っている。
「わかったら、あなたはもう人形じゃない」
「……あんたに、わかるっていうの?」
人形の心に灯るのは、人間らしい感情。
理解されぬ身の嘆き。少しばかりの苛立ち。
受け止める狐は、けれど、相も変わらず淡々としていて。
「……わたしには、わからない。でも」
「でも?」
「あなたを愛する形になることは、あなたという形を否定することになるのだけは、わかる」
「――くだらない。くだらないくだらない、……くだら、ない!!!」
絶叫、に近い、慟哭。
「……確かに、くだらないのかもしれない」
けれど、と狐は言葉を継げる。
「……狐の嘘は、子を成すためのもの」
ゆっくりと、自身の身体をなぞる。
「子を成し、人を惑わし、その一方で人を愛し、だからこそ称えられ憎まれ誤解される。それがわたしたち、狐という存在意義」
「……破っちゃえ、というのは、卑怯よね」
その誓いを破るには、人形としての自己を否定する罪も負わなければならない。
人形がしたことは、ただ、狐にのみ禁を犯して欲しかったという独善でもある。
「わたしはあなたに、嘘を言えばよかったのか?」
「……違うわ、ばか。どうしてそんなに、あんたは期待させるのさ……!」
人形にとって、それが一番つらいことだった。
それが一番、楽しいことでもあった。
そしてそれが、最も止めて欲しいことでもあった。
「……寒いわ」
人形の呟きは、別に狐に向かって発せられたものではなかった。
感覚のままに吐き出した言葉だったが、ふと狐はその言葉に反応した。
ゆっくり、人形の頬へ指先を触れる。
ここで初めて狐は、人形が人形たる、硬さと冷たさを持っていることを知った。
生き生きとした言葉と感情と態度、その裏に隠されていたもの。
人形本来の、造られた身体の固さと温度。
「やっぱり、暖かいのね」
狐の身体からは、温もりが伝わってくる。
自身に触れるその姿を、人形は捉えることができない。
狐の操る、幻術のせいではない。
残された瞳が、物を見る力を失っているせいだ。
「なんか、本当のあんたの姿を見たことすら、なかったわ」
「……」
「ふふ、やんなっちゃう……こんなに好きなのに。愛しているのに、ね」
「……そう、か」
「そうよ。そう、馬鹿なお人形」
かすかに、本当にかすかな苦笑をして。
「じゃあね、幸せな……嘘つきさん」
自分を見つめているであろう、二つの瞳を思い浮かべながら。
人形の身体は、本当に造られただけのモノへと、戻っていった。
∽∽∽∽∽∽
どれほどの間、そうしていたのだろうか。
世界は止まることなく、狐の気づかぬうちに、雨が降り始めていた。
人形に触れた狐へと、止まない世界を教えるかのように、雨が叩きつけられる。
「狐の化生は、狐の姿を隠すこと」
呟く朧な姿は、誰の瞳にも映らない。映す者は、この場にもういない。
「けれど狐の化生は、狐そのものであること」
擬態こそが、狐そのものの本質でもある。
「……あなたが愛したものは、人形という変わらない不変さとは、逆のモノ」
ゆっくりと、冷たくなった人形の胸元へと手を這わせる。
硬いものが、指先に触れる。
ゆっくりと抜き出せば、壊れのない、白面の仮面が一つ。
「壊れることは、わたしにはない。だから……わたしは、あなたが羨ましい」
自身をかたどった面を、狐は、ゆっくりと拾い上げ。
「仮面の下にも仮面がある。あなたが見ていたわたしも、この狐の面と変わらない」
自分の顔へと身に着けて、ゆっくりと狐は立ち上がる。
人形の形骸を、その両手に抱きながら。
「……だから、壊れられるあなたが、愛おしい。この面の下にあったのは、確かに……わたしという、道化なんだから」
狐からこぼれる雫は、雨の中に溶けてしまう。
冷たい狐の声音は、人形と始めて出会った時から、なんの変化もない。
まるで人形のような声音を、人形がしていた狐面の下から、抑揚なく語り続ける。
狐の面をかぶり、相手の求めたであろう自分を演じて、素直でない言葉を語る。
「だから……覚えているかい、あの時を。あなたという形に囚われた、怪しい狐の、二つの瞳を」
仮面の下には。
人形を夢見た。
本物の姿がない。
狐という嘘をつき続けた。
人形と同じ姿の、冷たい顔がある。
本物になれない、本当の狐の想いが、そこにある。
――だからわたしは、あなたの姿で……。




