04_仮面の奥に潜むもの
重なった日々も、当たり前のものとなり。
以前の記憶が、狐の中から薄くなり始めた、そんな頃だった。
「最近はね――」
なまめかしい息遣いとともに、その言葉はつむがれた。
何気ない、あまりにも自然な口ぶりで。
「妖をとり殺すのが、楽しいの」
「……!」
穏やかな日常を語るように、その言葉は人形の口からつむがれた。
問うでもなく、誘うでもなく。そうなのよ、といった感じの、たわいのない言葉。
言葉が流れるのは、隣の白無垢へ。
初めよりも、ずいぶんと形を明確にした狐の妖。
(――――)
異ならないのは、今も昔も変わらず、淡々と人形を見つめている狐の瞳だけ。
その瞳が、わずかばかりの――狐にとっては、珍しい――疑念を浮かべている。
「――――」
人形には、視線の意味がわかっている。自分が口にしたことの内容も含めて。
だから、狐が口を開くのがどこか重たげな理由も、理解していた。
「……なぜ、そんなことを」
他者へと興味を向けた言葉。
人形もそれを感じとり、薄く微笑む。
「……ふふ♪」
――他者へと興味を向ける。狐にとって、それはとても珍しいこと。
人形は、身をもってそれを知っている。知るほどの年月を、重ねてきたのだから。
ゆえに、今回の狐の反応は、人形を興奮させた。
――対象を明確に、人形へ向けて話しかけてきたのだから。
「さあ? なんでかな、気まぐれよ」
あっさりとした口調で、人形は返答する。
まるで、イタズラをしたのに反省していない子供のような、あどけない調子で。
そんな人形の態度に、狐は口を開く。
静かに、静かに、けれどなにかを抑えたような、重い口調で。
「……妖殺しは、危険。知っている、はず」
――妖殺し。
人間と非なる者達同士で殺めあってしまう、意味だけならばシンプルな言葉。
だが、その意味は、人間の同胞殺しと同じ意味を持つ。
手にかけた者のどちらが残っても、罪人になることに変わりはない。
狐が口にした言葉は、妖としての戒めを問いていた。
ましてや、力を持った妖による異種殺しは、種族間での抗争へつながる可能性もある。
――だからこそ、妖達の緩衝材として、人間という相手が選ばれる。
自然の力から離れ、妖よりも弱く、自分達だけでふくれあがる者達。
遊びとしても、食料としても、人間は最適だった。
確かに昨今、人間達を狩るのは容易なことではない。
自分たちを含め、世界の全てを灰にしてしまうほどの力を、彼らは手に入れてしまってもいる。
だが、人形の言葉のニュアンスは、そう言ったものではなかった。
楽しんでいる、としか感じられない響き。危険の始まりを、人形は戯れと言っている。
禁忌に触れる人形へ、狐は強い視線を向ける。
[――遊びなら、過ぎたことであることも知るべきだ]
狐の瞳は、人形にそう訴えかけているような強い意志を感じさせた。
だが――狐に向ける人形の瞳もまた、戯れの色だけをしているわけではなかった。
「そうね。けど、比較にならない」
「比較?」
怪訝な瞳を向ける狐。
人形には、そんな狐の様子が愉快でたまらない。
(――こんな、あなたの表情。初めて)
口元の微笑を抑えられないまま、胸元に手を当てて、理由を告げる。
「飢えが満たされるの。もう、人間なんかの温もりじゃ足りないの」
「……それほど、力を使うことがあるのか」
「あるわ」
人形は断言する。口元の微笑を変えないままに。
そんな彼女を見ながら、狐は、どこか言い含めるような口調で言った。
「……君は、変わっていない。初めて会った、あの時から」
それは、狐にわかる、最大限の人形への言葉。
人形は、狐に感じ取れる範囲で、そのような大事に巻き込まれているとは感じられない。
不器用な、物言いではある。
「変わっているわ」
そう言って、一拍もおかず。
「いえ、確かに変わってないかもね」
人形の微笑は、確かに、以前と変わらない。
ただし――その彫りこみが、ひどく歪で、とても深く、剥がれないものであること以外は。
「ねえ。なんで乾いているのか、あんたはわかるかしら?」
まるで、イタズラ好きの教師のような、人形の物言い。
狐の立場は、回答を知りながら返答を許されない、学生のよう。
そんな状況下でできることは――期待する教師への、ささやかな反抗。
「……人形のことは、わからない」
狐はそう告げ、瞳を伏せる。見るものが見れば、狐の周囲がおぼろげになったことに、気づいたかもしれない。
「そう。やっぱり、あんたは、そう答えるのね」
すっと、人形は懐に手を入れる。
取り出したのは、以前に被った狐の面。
人形は『似合っていない』と言われたそれを、ゆっくりと自身の眼前へと持ってゆく。
[挿絵2]
「わたしは、何者にもなれないわ」
その言葉の意味は、狐に対する面という、捻くれた皮肉。
「でも、あんたは何者にでもなれる。それは、残酷だわ。とってもとっても、残酷」
人形の当てこするような言い方に、狐も眉をひそめながら視線を向ける。
そうでもしなければ、けれど、狐は真実に近い言葉を口にしない。
お互いに、それはよく知り合ってしまっている。
だから、狐は告げる。
「……わたしはなににでもなれる。けど……本当に相手が望むモノには、なれない」
近づけば、さらけ出すものでもない。
狐が見せるのは、相手が望む理想だけ。
理想は、本当の幸せとばかり限らない。
「嘘」
面の奥から聞こえる人形の声は、ひどく、くぐもっている。
以前なら、その面を外して、声を伝えたというのに。
面越しのくぐもりをこそ、聞かせたいかのように。
人形は、狐の仮面をつけながら、告げる。
「それも嘘。あれも嘘。あっちもこっちも嘘ばかり。今日のあんたも、前のあんたも、始めてのあんたも、みんな嘘」
せきを切るように、人形の口から感情があふれ出す。
くぐもったままで。過去よりも激しく。溢れかえるように。
狐面越しに伝えられる、吹き出る言葉。
「ねえ教えてよ。どれが、本当のあんたなの? それとも、本当なんてないの? まさか、視ている今が本当だとでも言うの?」
狐の面をまとうことで、まるで狐の姿を手に入れることで、ようやく言葉を得たような、途切れない言葉。
「……ねえ。あんたは、狐と呼ばれているモノですらあるの?」
その言葉を境に生まれる、かすかな静寂。
止まった時を破ったのは、またしても人形の方だった。
ぽつり、と口を開く。
「偽りの幻想が、生き延びるための必需品。わたしは、そういうふうに、人によって造られた。同種じゃない、同形殺しをするために」
絞り出すような声。
最後に、本当に最後に、人形は狐に問いかける。
「……あんたは、なんのために、生きてるの?」
かすかな、ほんのかすかな、人形の声の震え。
けれど、狐は黙したまま、静かな瞳を人形に向けるだけ。
忘れないのは、その二つの瞳だけ。
視ているうちは覚えている。けれど、外せば忘れてしまうその姿。
狐の操る、幻の姿。
狐がとる人間の姿形。それは、全て化生のもの。
与えられるのは、偽りの視界。幻想の理想。
それこそが狐。妖として、狐がとるべき、理想の姿。
――あれだけの時を過ごしながら、人形は狐の姿を覚えていない。覚えることが、許されていない。
「……ねえ。もう、黙るのはやめてよ」
その言葉だけ、透き通る、抑揚のない、まさに人形のような言葉で。
すでに外した、狐面の下も蒼白で。
人形の表情は、能面の、色を失くした和人形さながらで。
造り物の造った、本当の造り言葉で。
けれどそれは、造りモノが造りあげるべき、固い固い、形としての理想でもあって。
その理想をささやかれ、受け止める狐の瞳。
狐は、口を開く。
「なにを言えば、いいのか。……わたしには、わからない」
それでも――揺らがない。
それこそが――狐が狐であるという、存在にあるのだから。
「……そうね。そうかも、しれないわね」
わかっていたとでもいうように。
理解していたとでもいうふうに。
お互いの距離は、始まりも終わりもないということに。
人形と狐のモデルは、その境界を踏み越えることはないままに。
その夜は、どちらともなく気配を消した。
姿を消した、と考えるのが妥当だった。
だが、もしかすれば、隣り合い続けていたのかもしれない。
狐と人形は、距離感のみを消しただけなのかもしれない。
曖昧なままで、つかず離れず。
だからこそ、それは不安定な距離間を成していた。
言うなればそれは、曖昧で強固な、だからこそ存在しない、『縁』という名の鎖だった。
……それゆえに、その『縁』は、両者の溝もよく知っていた。