01_月影の姿を意識して
音もなく、影が動く。
月明かりの下を歩く影。
紅い着物を身にまとう、長い黒髪の影。
ゆっくりとゆっくりと、森の中で歩を進める。
枯れた空気を身にまとう、古風な佇まい。
音もなく、ただまっすぐに、紅い少女は森を行く。
暗く不吉な影をつれて。
――今夜の月は、嫌に明るい。
だからこそ、光と闇の区別は明瞭にされる。陰影という形でもって。
少女の形も、その理には逆らえない。
紅い着物と対比するかのような、白い肌が印象的な顔。そして、彫り込まれたかのような流曲線の身体。
くりりとした大きな瞳がはめこまれた顔と、腰までも届く長い黒髪が、少女の造られたような美しさを補完する。
その姿を視界におさめた者は、こう言うかもしれない。
――闇夜に歩く少女は、人には見えない、と。
「……?」
人形のように整えられた表情を、ゆっくりとだが懸念に染めて……少女は歩みを止める。
月明かりの照らす、頭上の一角。
そこへ、頭を巡らして。
「あら。珍しい」
月光の灯火は、声までもくっきりと明確にする。
夜とは思えぬ月明かりの世界とはいえ、闇夜は深い。
なのに、少女はしっかりと視線を向けて口を開く。
「目立ってしょうがないわ。それとも、目立ちたいのかしら?」
視線の先には、森の群れ。空へと枝を伸ばす、木々の羅列。
平素なら生命を象徴する形が、この闇夜では、天に仇なす亡者の群にも見える。
だが、少女の目的はその亡者でもない。
ぽつり。
ただ一点の違和感。
見上げた先で瞳に映りこんだ色は、夜の闇につぶされそうな純白。
汚れの一点もなく、汚れたことすらなさそうな、一色に塗られた潔癖さ。
嫌にはっきりと輪郭の見える、白無垢姿。
「夜の闇には不釣り合いね。どうしてそんな場所にいるのかしら?」
「お互い様、か」
白無垢から声が出る。
その着物と同じく、どこか白さを感じさせる声音。
明確な白さは、なぜか闇夜に溶け込むことはなく、対比するかのように朧な輪郭をまとっている。
ただ、その全体像は明瞭でない。姿はあれども、視覚には収まるけれども、しかしはっきりした姿を意識することはできない。
声もまた、どこか曖昧でつかみどころのない、抑えたもの。
小さな唇からつむがれる言葉の色は、感情を知らないかのような冷たさを含んでいる。
そういう口調で言ったのか、そういう口調なのか。
「真似しないで欲しいわ。恋人が、困ってしまうじゃない」
曖昧な姿と声音に対し、紅い少女は声と衣をなびかせて、白無垢へと声を返す。
ゆっくりと、艶やかに。
少女は、外見にそぐわぬ妖艶な微笑みを浮かべる。
人恋しい紅色で染め抜かれた着物と合わさる姿は、見るものを魅惑せずにはおれない。
まるで造り物のような精巧さ。強調さ。完璧さ。
少女の声は、色のついた口調。感情が見え隠れする、七色の声音。
白無垢の声とは真逆の、奔放な感情のついた声。
それは、聞くものに人懐こさもいぶりだす。
まるで、少女に誘われているのかと錯覚するように。
「困るほどの、飢えを持っているわけでもなさそうだが」
白無垢は、しかしその見目に惑わされることもなく、明確で冷静な返答を言葉にする。
惑わされることを拒否するかのような言葉に、紅い着物の少女の表情が変わる。
少しばかりの驚き、感心。
「あら。アンタ、わたしのことがわかるの?」
「造られたものが造った者を糧にするなんて、珍しくない」
「さすがに、騙りをさせれば勝てないモノの代名詞ね。出会ったのも、なにかの縁かしら?」
笑いをどこか隠し切れない様子で、少女は白無垢へと微笑みを返す。
笑いの意図を含んだ、恐喝の意味。
それなのに、少女に浮かんだ笑みは、どこか憎みきることはできない無邪気さが映っている。
「――わたしは、あなたのやることに興味はない」
笑みの意味を察して、白無垢はそんな言葉を投げる。
少女が歩みゆこうとした方向へ、意識を向けながら。
「今から会いにゆく方に、興味がない?」
少女もまた、白無垢と同じ方向へと視線を巡らせる。
お互いの視線の先が、交わるところ。
そこには、少女の目的とするものが待っている。
――ばさり、と音がする。なにかが開く音。
一輪の花――傘を開き、少女は影をまとう。
「そう。そうね、待たせてはいけないわ。ただ、焦らせるのも面白いかもしれないけれど」
広げた色も、また紅色。
まるで花弁のように、少女を頭上から覆う。
月明かりの下で、肩元へと傘をかけるその姿は、一枚の絵のような出来過ぎたものだった。
その姿は、月夜の下と相まって、ひどく女の陰性を強調する。
傘で天より守られた少女へ、白無垢はゆっくりと声をかける。話の続きをするように。
「糧は、自分で育てる。それに……」
声の調子が、やや強くなる。
すると、白い空間に変化が起きる。わずかな変化。
ぼんやりと。ゆっくりと。
二つの瞳が浮かび上がる。
黒く大きな、はっきりとした、切れ長の瞳。
傘の下から伺って、少女は不思議な既視感を覚える。
それは、どこかで見たことがある瞳。
思い出せない、けれどひどく身近な、とても見知った二つの瞳。
「人形の好む者は、わたしの対象には入らない」
ぽそりと呟かれる言葉に、そんな既視感は流される。
自身の正体を言い当てられても、少女が驚いた気配はない。
想定していた答えに、むしろ言い返す口実を得たかのよう。
「裏切れないから、かしら。優しいのね」
――その瞬間こそが、とても愛しいのに。
少女は苦笑して、白無垢へと背を向ける。
こちらの獲物が対象に入らないのなら、こちらとて興味を向ける必要もない。
障害にはならないのだから。
今、少女が欲しているのは、障害でなく、育てている糧なのだから。
「また機会があったら会いましょう。今度は、あなたの本当の姿とね」
足を踏み出しながら書けた言葉は、傘越しの曇った言葉。
少女の言葉に応える声は、二歩三歩と進んでも返ってはこない。
ぴたり。
少女が足を止めて、くるりと振りむく。視線の先に、白無垢の姿をしかと見つけて。
「それとも、狐には本当の姿なんてないのかしら? そこのところも、今度教えてもらおうかしら」
白無垢の正体を見たり、とした口調ではっきりと告げる。
「……あの御仁、待ちくたびれている」
白無垢――狐は、しかし驚いた様子もない。
浮かぶ瞳にも、感情の揺らぎは見られない。
ただ、狐が細めた瞳の先には、人形を待っているであろう男らしき姿が映る。
その言い方に、何故か、困ったような距離感を感じて。
「そうね。それではまた、いつかの機会に」
またいつかを考えながら、少女は人形としての自身に戻る。
去り際は鮮やかに。
色を残さず、形骸だけを残す。
それが、人の形を模して造られたものの特色であり、美徳でもある。
大輪の紅が、目的の闇へと消えた後。
月明かりの下には、白い影と瞳だけが残される。
「……」
そこで初めて、二つの瞳に揺らぎが生まれる。
ほんのかすかな、戸惑いのようなもの。
微笑んだ口調を崩さず、人形の美しさを残していった少女。
――そうね。それではまた、いつかの機会に――
そんな言葉が、狐の心に少々の不安を覚えさせる。
再会を求められるなど、慣れていない。
妖は、同族ですら馴れあうことはない。
なのに、まるで異なる人形と狐が、再会を求めるなどと。
約束ですらない、明日には忘れてしまうかもしれない、会話の一片。
そんな、予期できない未来へ、なぜか狐は不安を覚えた。
だからといって、できることなどなにもない。
できることといえば、厄介にならなければいい、と願うことくらいしかない。
月夜を見上げて、狐は朧な姿のままに、闇のなかへと溶けこんでゆく。
白い影が闇に消え、不気味な木々の影だけがその場に残される。
周囲には、風と森の音だけが満ちてゆき。
妖の気配は、月明かりの闇の中へと帰っていった。