別宅のアイジン
*「もふもふは正義だ企画」参加作品です。
*軽くR15描写があります。
――彼はいつも気まぐれにふらっと私の部屋に来る。一時の甘い時間を過ごした後、彼はまた立ち去ってしまう。
きっと彼にとって、私は別宅の愛人。本妻は別にいる。そんな事判っていても、今日も彼が来るのを待ってしまう。
……だって、だって。
もう私は、彼の魅力のとりこなんだもの。彼がいてくれたら、もう何もいらない。二人きりで過ごす至福の時間は私にとって天国だ。
――そして私は、今日も彼の好物を用意するために、早足で家へと急ぐのだ。
***
「あ、もうこんな時間!」
壁に掛けられたデジタル時計を見て、私は思わず声を上げた。隣の席に座る同期の佐藤君がちらとこちらを見る。
「お前、最近帰るの早いよな。前までぐだぐだと会社に残ってたくせに」
「だってこの時期、会社の方が暖かいじゃない」
一人暮らしのマンションは、帰っても寒々としてたのよ……一ヶ月ほど前までは。私はむふむふと含み笑いをしながら、PCの電源を落として、机の上を整理した。さっと立ち上がったところで、冷静な声が聞こえた。
「……成瀬」
うきうき気分にぴしっと亀裂が入った。私はやや引き攣った笑顔で、自分の机の島の、一番奥を見た。
「はい、何でしょうか、西田課長」
奥の机はお誕生日席の配置になっている。西田課長が真っ直ぐに私を見ていた。グレー生地のスーツをぱりっと着こなしている彼の、端正な顔には何の表情も浮かんでない。二メートルぐらいは離れているはずなのに、何だかすぐ傍でお説教されてる気分になった。
「今日の会議の議事録、月曜日朝一番で俺にメールしてくれ」
「はい、承知しました」
ややむっとした声になってしまった。だって、まるで私が仕事を放って帰るみたいな言い方じゃない!
(ちゃんとそうするつもりだったのに)
もう一度失礼します、と頭を下げた私は鞄を肩にかけ、とっとと執務エリアを出てエレベーターホールへと向かった。
西田 友紀 課長は、一ヶ月前の人事で本社から転勤してきたエリートだ。支社で実績上げたら即本社に栄転、の噂もある。異動の通達で漢字見て、女性だと思ってた事本人にはナイショだ。
(なんか最近、嫌味っぽいんだよねえ、あの人……)
仕事はできる。それは間違いない。頭も切れて、顧客との交渉事にも強い。しかもイケメンで長身。155cmの私が見上げると首が痛い。愛想を振りまくタイプじゃないけど、ちゃんと部下の事見てくれてるって佐藤君も言ってたっけ。だからモテるのも判るんだけど、この一ヶ月というもの、女性社員から直属の部下である私への問い合わせが何件あった事か。正直とてもうっとうしかった。
(大体、課長の好みの女性のタイプなんて知らないわよ)
仕事に没頭すると、他の事がどうでも良くなってしまう。大抵「俺と仕事とどちらを取るんだ!?」みたいな話になって、ジ・エンドが多い私は、当分男性と付き合う気はなく、男性への関心度も低かった。課長も『課長』という認識でしかない。そりゃ、初めて部に来た課長を見た時、どきっとトキメキましたけど。好みのタイプだったし……でも職場恋愛というのも大変だしなあ。
(どうせ付き合うなら、もっと癒し系の……)
そう、私にごろごろ甘えてくれて、傍にいるだけで悶える程可愛くて、後食事とか掃除とか大好きな人だったら、最高だよね、と思う。
『疲れたよね、肩揉んであげようか真里?』『うん、お願い……あああ、気持ちいい……』『すごく凝ってるね。仕事頑張ったんだね、えらいえらい。今日は大好物のビーフストロガノフ作っておいたから』『わーい』……そんな彼氏がいい、それを佐藤君に言ったら、「それ嫁が欲しいって事だろ」と言われたけど。そうだよ、可愛い嫁が欲しいんだよ私は! 癒しを求めてるんだよ!
(……今日来てくれるかなあ……)
気まぐれな彼は、来る日も曜日もまちまち。時間だけは大体一緒だけれど。簡単に食事を済ませて、ちゃんと掃除もして、お風呂も入って、彼が来るのを待ちながらちびちびお酒を飲む……これがここ最近の日課。
(帰りにお店寄ろうっと)
お土産買って帰ったら喜んでくれるかな。うん、きっとそうよね。
音と共に開いたエレベーターに、私はにまにましながら乗り込んだ。
***
すべて準備OK。いつ彼が来ても大丈夫。そわそわしている私の耳に、待っていた音が聞こえた。
――とんとん
(来たあああああ!)
小さく響くノック音。私はすぐさまベランダに面した引き違い窓を開けた。するり、と彼が中に入ってくる。
「きゃあああ、トラちゃああああん! 今日ももふもふー!」
私は愛しの猫ちゃんをひしっと抱き締め、お日様の匂いのする毛並みをくんかくんかと嗅ぎ、人差し指と親指で耳の後ろを同時に掻いた。トラちゃんは、緑色の目を細めてくにゃりと首を曲げ、私の胸元に顔を擦りつけてきた。あああ、なんて可愛いの、あなたはああ!!
「ほら、お腹空いてる? 大好物のディナー用意したよー!」
トラちゃんを専用えさ入れの前に降ろすと、ちょっと鼻を餌にくっつけた後、にゃあと鳴いてぱくぱくと食べ始めた。やっぱり、グレインフリー(穀物不使用)の高級えさがいいのよねえ。前にちょっと安いのをあげた時は、食い付きが悪かったもの。今回はイギリス有名メーカーの、人口添加物不使用を奮発しちゃった。
「うふふー美味しい?」
にゃおん、って返事してくれた! もう賢いんだから、トラちゃんは! 私は美味しそうにえさを食べているトラちゃんをじっくりと見た。
全体的にオレンジ色に近い毛並み。尻尾は長めで、先端が少し丸い。少し茶色の毛がトラ模様に入っているから、トラちゃんと呼んでいる。和猫っぽい顔立ちだけど、毛は少し長めなんだよね。もしかしてミックスかなあ。
最初に出会ったのは一ヶ月程前の事。窓ガラスをひっかくような音がするなあ、と思ってカーテンを開けると、ベランダにちょこんとオレンジの毛玉が座っていたのだ。小さい頃から動物好きだったのに、一人暮らしになってから飼えていなかった私は、いともあっさりFall in Love。部屋の中に入れ、もふもふもふと触っても大人しいトラちゃんに、心を鷲掴みにされてしまったのだ。サンプルで貰ったえさを喜んで食べたトラちゃんは、もっとくれとしっぽを大きく振ったっけ。
「あああ、このぷにゅぷにゅ感がああ~堪らないわ~」
食べ終わり、手先をぺろりと舐めているトラちゃんの左手を取り、にくきゅーをぷにっと押す。この戻ってくる弾力が素敵。ああ、わが人生の至福の時よね!
「ちょっと待っててね。ブラッシングしてあげる」
私は一人用こたつテーブルの上に置いてあった高級豚毛ブラシを手に取り、トラちゃんの背中を撫ぜるようにブラッシングした。トラちゃんはふわあとあくびをしながら、気持ち良さそうにしている。ちなみに、私自身のブラシは百均ですが、何か。
「本当、トラちゃんの為だったら、全て貢いでもいい……」
ブラッシングすると艶々になる豊かな毛並み。すりすりと顔を擦りつけ甘えてくる仕草。そしてぷにぷにの肉球も忘れてはならない。本当はずっといて欲しいけれど、ちゃんと飼い主がいるのよね。赤い首輪もしてるし。
「トラちゃんの飼い主って、やっぱりこのマンションの人かなあ?」
ここはワンルームだけど、珍しく動物OKのマンションなのだ。何でも大家さんが動物好きだったけど、一人暮らし時代に飼えなくて寂しかったから、という理由らしい。通勤にも便利だし、スーパーも近いし、いつか動物飼えるようになっても大丈夫、という所が気に入って、ここに入居を決めた。もう二年前の事。
「だけど、トラちゃんを連れた人って見た事ないのよね……」
トラちゃんは、夜七時~九時頃にやって来て、その後出ていくから、昼間いない人なのかもしれない。だからいつもお腹空かせてるのかな。飼い主さんに勝手にえさをあげてるから、一度挨拶とかしておきたいんだけど。
にゃあお、とトラちゃんが鳴いて、てくてくと窓に向かって歩き出した。今日はもう帰るのね……まだ早いのに……。
「じゃあね、トラちゃん」
窓ガラスを開けると、トラちゃんはにゃおんと鳴いた後、クーラーの室外機からベランダの手すりに飛び乗り、そのまま手すりを歩いて行った。冷たい夜の風が心に染みる。窓を閉め、さっきまでトラちゃんが食べていた食器類を片づける時が一番寂しい。流し台で洗いながら、私はぽつりと呟いた。
「愛人って、こんな感じなんだろうなあ……」
どんなに愛しても尽くしても、愛する人は本宅に帰ってしまう。でも、また来てくれるのを待ってしまう。だって、私はあの人の虜だから。しんみりしながら食器を片づけ、豚毛ブラシを箱に仕舞う。
「トラちゃんの本妻ってどんな人なんだろう」
痩せたりしてはいないから、一応世話はしているのだろう。でもたまに毛が団子になってることもあるのよね。それにえさをあんなに喜んで食べてるところを見ると、好物が判ってないんじゃあ……。
――私の方が、トラちゃんを愛してる。そう思っててもいいわよね?
すっかり愛人気取りになっていた私はしばらくしんみりとしていたが、「あ、またえさ買って……そうだ、トラちゃん用のフリースも可愛いの買わなくっちゃ」とすぐに復活していそいそと計画を立て始めたのだった。
***
あー可愛い洋服が並んでるなあ。あっ、こっちにふかふかのクッションが! 爪とぎとかそういうのもいるわよね……。
「んーどれにしようかなあ。このおもちゃ、喜んでくれるかなあ……」
「……成瀬?」
低くて渋い声。ぶつぶつ言いながら、近所の商店街にあるペットショップで物色していた私は、ぴきっと固まった。
(ちょっと待って、今の声……)
恐る恐る振り返ると、一メートルぐらい後ろに西田課長が立っていた。
「え……えええっ、課長!?」
私は思わず大声を出した。課長が少し眉を顰めた。
「何大声出してる」
出すでしょ、普通。ペットショップで課長に会うなんて思わないもの。
「い、いえ、意外だったもので」
課長の私服姿を見るのは初めてだった。黒の合皮のジャケットに色褪せたジーンズ。足長っ……! いつもピシッと分けられてる前髪がパラリと落ちてて、いつもより若く見えた。
(こ、この課長がペットっ……!?)
『ああ、このもふもふが堪らない。可愛いでちゅねーご飯でちゅよー』
(……とかこの顔と声で言ってるの!?)
シュールだ。シュール過ぎる……。
「……お前今、恐ろしく失礼な事考えてたろう」
げ。この人心読めるの!? 私は慌てて仏頂面の課長に言った。
「ト、トンデモゴザイマセン」
怪しげなガイコクジンの口調になった私を見る課長の視線が痛いです。そうだ、近所だからって私……。
(うああああ、しまったあ!)
思いっきり気を抜いた格好してた。ピンクのフリースのパーカーに、赤いもこもこ生地の長い巻きスカート。全てUNISHIRO購入品。肩から掛けてるのはエコバッグ。ええ、スッピンですとも。赤いニット帽被ってるけど隠せてないよね……がくっ。
ううう、と俯いた私に、明るく高い声が聞こえてきた。
「お待たせしました、西田様。ノエルちゃんのトリミング、終わりましたよ~」
ノエルちゃん? 顔をあげて声のした方を見た私は……本日二回目の大声をあげた。
「えええええええっ!? トラちゃん!?」
白衣を着た店員さんに大人しく抱っこされていたのは、私の愛しいトラちゃんだった。トラちゃんは私を見て、にゃおんと返事をした。
「……トラ?」
トラちゃんをひょいと受け取った課長が、また眉を顰めた。
***
「……課長がトラ……ノエルちゃんの飼い主だったんですね……」
トラちゃん、もといノエルちゃんを入れたキャリーバッグを右手に持った課長の横で、私は恨めしげに呟いた。下を見ると、ノエルちゃんはバッグの中で大人しく寝ていた。本当、いい子よね……。
「ああ。最近餌の食い付きが悪いと思っていたら、お前が原因か」
うぐ。それを言われると弱い。私は歩きながら黙り込んだ。
課長と私は連れ立って、商店街の歩行者天国を歩いていた。二人の間にはノエルちゃんのバッグ。並んで歩くと親子ぐらい身長差があるわよね、私と課長って。肩から視線を上げていくと、課長は私をじっと見ていた。
「……愛人でも良かったんです」
思わずぽつりと漏らすと、課長の瞳が少し大きくなった。
「本妻がいて、いつも帰っちゃうけどそれでもいいって。来てくれるのを待とうって思ってたんです……なのに……」
ぐっと右手を握り締める。
「課長が本妻だったなんて……私のところから、課長のところにノエルちゃん帰ってたなんて……なんだかショックです……」
課長の口元が歪んだ。
「おい、ちょっと待て。どうして三角関係のような言葉が出てくるんだ、お前は」
「三角関係じゃないですか~! ノエルちゃんの愛情をめぐって、私と課長の」
あれ? なんだか課長の肩ががくっと下がった気が? 私が目をパチクリさせると、課長がはああと深い溜息をついた。
「なら、今から俺の家に来るか? ノエルの今後について話し合……」
「はい、行きます!」
課長の言葉に間髪入れず反応した私に、また課長が溜息をつき、右手で額を押さえた。
「……こんなにチョロい奴だったとは……予想外だ」
「は? 何か言いました、課長?」
「何でもない。ほら、行くぞ」
さっさと速度を上げた課長に、小走りで必死に付いていった私、だった。
***
「え、ここって」
私と課長は、見慣れた白壁のマンションの前に立っていた。ぽかんと口を開けた私を尻目に、玄関を入った左側の壁に並んだ銀色ポストから手紙を取り出した課長は、「お前も見ないのか?」と声を掛けてきた。そう、ここは私のマンション……って事は。
「課長って、同じマンションだったんですか!?」
「そのようだな。ノエルが行き来出来る距離なら近場だと思っていたが」
最近、個人情報保護法の関係で、同じ会社でも住所は公開していない。連絡先の電話番号ぐらいで。だから課長の家を知らなくても当然なんだけど。
「でも、全然通勤で会わなかったじゃないですか!」
私がそう言うと、課長が意味深な視線を投げてきた。
「俺は就業時間の一時間前に出社してるからな。お前はいつもぎりぎりだろうが」
「うっ」
痛いところを突かれた私が口ごもると、課長の薄い唇がにやりと歪んだ。ドS全開の笑顔?だっ……!
(うわああああああっ!)
熱くなった頬を誤魔化そうと、私はポストを見るふりをした。背中に課長の視線を感じる。ううう、なんだか変……私。
(イケメンの笑顔を見たから反応したんだよね、きっと。うん、そうだそうだ)
見慣れないもの見ちゃったからだよね、この心臓のどきどきも。そうに決まってる、無視無視。ポストの中のDMをエコバッグに入れ、私は素知らぬ顔で振り向いた。
「行くぞ」
エレベーターホールでボタンを押す課長の斜め後ろで、私は『羊が一匹、羊が二匹……』と心の中で数えて、何とか落ち着きを取り戻そうと努力していた。
***
結局課長の家は、私の部屋の二軒隣、同じフロアの一番端の部屋だった。
「お邪魔します……」
恐る恐る足を踏み入れた部屋は、がらんとしていて殺風景だった。ベッドに黒のローテーブル。上からカバーをかけるタイプのクローゼット。黒の本棚の上にノートPCが置いてあった。隅に柔らかそうなクッション。課長がノエルをバッグから出すと、んーっと伸びをしたノエルが、そのクッションに乗りくつろぎ始めた。
「まだ引っ越してひと月だからな。まあ、そこに座ってくれ、飲み物入れるから」
ローテーブルの前に腰を下ろすと、ちょこちょことノエルが私に向かって歩いてきた。ひょいっと膝に乗ってくる仕草が、可愛くて可愛くて。ああ、温かいなあ。なんだか入り口近くのキッチンから音がしたけれど、私は構わずノエルの耳後ろやお腹をもふもふし続けた。
「あああ、もふもふ……可愛い……」
にまにましていた私の目の前に、ことんと白いマグカップが置かれた。ほかほかの湯気から、コーヒーのいい匂いがする。課長はローテーブルを挟んで対面に座り、ごくりとマグカップから一口飲んでいた。上着を脱いだ課長は、生成り色のセーターを着ていた。モデルでも出来そうな体形だったんだ……とちょっと見惚れてしまった。方やパーカーを脱いだ私が着ていたのは、ざっくり編みのでろんとしたオレンジ色のセーターだった。ニット帽を脱いだ髪も、ちょっと癖が付いてる気がしたけれど、まあいいか。
「いただきます」
ノエルちゃんの邪魔にならないように身体を横に捻った。ふうふう冷ましてから、私はマグカップに口を付けた。一見ブラックかと思ったけれど、程良い甘味が舌の上に広がった。雑味のないコーヒーの味もとても美味しくて、思わず「美味しい……」と呟いていた。
「挽きたてのモカだからな。会社のコーヒーとは違うだろ」
「はい、美味しいです」
ごくごくとコーヒーを飲み、「ごちそうさまでした」とマグカップをローテーブルに置くと、課長も飲み終わったカップを置いたところだった。
「……で、課長? 課長はトラ……ノエルちゃんを愛してるんですか?」
右手でもふもふを続けながら、私は真っ直ぐに課長の顔を見た。課長も私を真っ直ぐに見返していた。くっ、負けないわよ!
「ノエルちゃんは、すごく甘えん坊で寂しがりやで……だから私の家に来たと思うんです。課長は朝早くから夜遅くまでいないし……」
「……」
「だから」
私は息を吸って、吐いて、そして課長を強く見た。
「これからも、ノエルちゃんをもふもふさせて欲しいんです。彼が私の部屋に来る事を許して欲しいんですが」
課長は一瞬目を閉じ、右肘ついて額に手を当てた。
「会話が違うだろ……」
「え?」
私が聞き直すと、課長は顔をあげて私を見た。真剣な眼差しに思わず心臓が跳ねた。
「ノエルの事は別に構わない。俺は帰りが遅い事が多いからな、相手をしてもらった方が妹も安心するだろう」
「へ? 妹さん?」
目を丸くした私に課長が頷いた。
「ノエルは妹の飼い猫だ。妊娠出産で面倒をみられないから、と一時的に預かる事になっただけだ。俺の実家はチワワを飼っていて、ノエルとは折り合いが悪いからな。たまたま転勤と預かる時期が重なり、動物可のマンションを探して引っ越したら、お前がいたという訳だ」
「じゃあ!」
私が身を乗り出すと、ノエルちゃんはのそっと動いてクッションの方へと行ってしまった。ううう、ごめんね。でもこれだけは言わないと。
「いいんですよね? 妹さんが迎えに来るまで、私がノエルちゃんを可愛がってもいいんですよね?」
課長の目がきらり、と光った気がしたけれど、私は気に留めなかった。だって正念場だもの! もしかしたら、課長よりも私を選んでくれるかも知れないし!
「……ああ、可愛がってくれると助かる」
「やったあ!」
(飼い主公認でもふもふできるーっ!)
ばんざーいと両手をあげた私に、課長はさりげなく言葉を続けた。
「ただし……俺の条件を呑むならな?」
「はい! 何でも言う事聞きます!」
そう言った私に課長がにやりと黒く笑い、すすすっと私の隣に移動してきた。あれよあれよという間に、課長の左手が私の左肩に回された。
「……その言葉、忘れるなよ?」
(……あれ?)
舞い上がっていた私は、もしかして墓穴を掘ったんじゃ……と遅まきながら気が付いたけれど、その時にはもう遅かった。
***
「あああ、あの課長?」
「友紀と呼べと言っただろう、真里」
ううう、名前呼ばれる度に心臓が痛いです!
「あの、友紀さん……これは一体……」
「お前がノエルをモフる代わりに、俺がお前をモフってるだけだが? そういう条件だっただろ」
「ひゃん! どどど、どこ揉んでるんですかっ!」
「胸」
うわあ、きっぱり言い切ったよこの人!
「お前着やせするんだな。思ってたより大き……」
「うわああああ! 何言ってるんですかあ! やあん!」
胸の先をきゅっと抓まれた私は思わず身を捩った。課長、もとい友紀さんの膝の上に乗せられ、後ろから抱き締められて、あんなことやこんなことされてる私って!? 一体どうしてこうなった!?
あわあわとじたばたする私をぎゅっと抱き締めた友紀さんが、耳元で囁いた。
「小柄で元気が良くて表情がくるくる変わるお前の事、前から可愛いと思ってた。こうやってモフりたいと、ずっと」
「ふへい!?」
何言ってるの、友紀さん!? そんな素振り、見た事ありませんけど!?
「お前は俺に興味無さそうだっただろ? だから中々声を掛けられなかった。同じマンションだっていうのも知ってたが、出勤時間は違うし。最近嬉しそうに定時帰りするから、少し妬いてた。だから、ノエルに感謝だな……俺よりもあいつの方を好きそうなのは気に食わないが」
もう私の頭はパニック状態だった。顔に血が昇り、心臓は発作を起こしそうなくらい鼓動が速い。あんっ、揉んだり撫ぜたりする友紀さんの大きな手が、だんだん不埒さを増してきてるんですが!?
「だだだ、だって! 友紀さんもふもふしてないじゃないですか! 私はもふもふをモフるのが好きなんです!」
「俺はお前をモフるのが好きだ。お前がノエルを手懐けたように――俺もお前を手懐けるから」
顎を掴まれてくいっと顔の向きを変えられた私は、ちゅ、と軽く唇を奪われた。
「だから、いい加減諦めろ――お前はノエルのように、大人しく俺にモフられていればいいんだ」
そのまま床に押し倒された私に覆い被さる友紀さんの瞳は、肉食獣のそれで。ギラギラ輝く光が私を焼き尽くさんばかりで。
(……あ、こりゃだめだ)
逃げ切れない――そう思った私の身体から、がっくりと力が抜けてしまった。それに気付いた友紀さんが、機会を逃すはずもなく――間もなく私は、友紀さんに存分にモフられる羽目になったのだった。
***
――その後。
ノエルちゃんを存分にモフる私を、これまた存分にモフる友紀さん、という三角関係が始まり、ノエルちゃんに嫉妬した友紀さんが早々に妹さん宅にノエルちゃんを返してしまった。
もふもふの喪失に嘆く私に、「これはめれば、いつでも会いに行けるぞ」ときらきら輝くダイヤの指輪を差し出してきた友紀さんは、絶対策略家だと思う。
(癒し系尽くし系ボーイズを求めてたはずなのに……)
いつの間にやら、別宅のアイジンから肉食系男子の本妻へとジョブチェンジしようとしてる私って。モフられて流されて、どきどきさせられて。案外チョロい女だったんだ……と深く溜息をついたのだった。まる。