これぞクレリオ◇素のままで
何もない真っ暗な世界。正体のわからない恐怖心。そこに、優しい旋律が滑り込んできた。
心地よい声音。何故か安心する拍子。自分の頭を撫でる温もりも感じて。
暗い水の底に沈んでいたかのような意識が、ふんわりと浮き上がっていく――…。
「…目が覚めたか?」
呟くような歌声と髪を撫でる手が心地よくてまどろんでいると、ふいに歌声が止んで優しく話し掛けられた。
傍らを見上げると、穏やかな碧の眼差しと柔らかそうな銀髪。
「……キオウ、さん…」
自分の喉から出た掠れて醜い声には驚いたけれど、彼はひとつ穏やかに笑むと、また歌を紡ぎ始めた。
不思議と安心するキオウの声音。女性の声にはない低い音域にある揺らぎ。異国の言葉なのか歌詞の意味はわからないけれど、与えられる気持ちはちっとも不快じゃない。
お昼ごはんの後の眠気のような心地よさ。掛け布団を引き寄せて――…、ふと改めて周りを見回した。
お日さまの匂いがする花柄の布団。アンティーク調の可愛らしい棚。猫足の机と椅子。そよ風にフワリと膨らむ真っ白なカーテン。
「…キオウさん? ここ、どこ…?」
他人の部屋にいるとわかった途端、心に恐怖の火種が宿る。
不安からキオウを見上げると、彼は穏やかな表情で軽く笑む。
「ここは『カモメ屋さん』の二階にあるマリーの部屋だ」
「え…? なんであたし、こんな所に…」
ぼんやりと呟いて――…その直後、ギラリと光った刃先を思い出した。
ビクリと縮んだ身体が、ポンと頭に置かれた手のひらの温もりにほどけていく。
「もう怯える必要はないさ。賢者がこんなに近くにいるんだからな。最強のボディーガードだぞ?」
わざとおどけた口調と、優しく頭を撫でる温もり。強張っていた口元も無意識にほころんでしまう。
コンコン、と遠慮がちなノックが聞こえた。
「…チビケンちゃん、開けてもいい?」
「ああ」
許可を確認してから静かに入ってきたのは、ウェイトレス姿のマリーだった。
清潔感ある白いエプロン。三つ編みをアップにした焦げ茶色の髪。手に持つお盆には、乳白色にオレンジの縁取りのポットが見える。
「ホットミルクとクッキーね。別の物の方が良かったかな?」
「いや、充分さ。ありがとな」
「そう? ここに置いておくね」
最小限の音を立てるだけで机に置かれるお盆。
その動きを見る――というよりも凝視していると、キオウがまた優しく頭を撫でくれた。無意識に彼の裾をギュッと掴んでいた自分に気付く。
クルリと振り返ったマリーと目が合い、なんとなく気まずくてキオウに隠れるように視線を逸らす。ふんわりと穏やかな微笑みの気配。
「チビケンちゃん? 何か用入りになったら、マリーにすぐに教えてね」
「大丈夫だよ。仕事中だろ? さっさと戻りな」
「そう…? けれど、本当にすぐに言ってね?」
「ああ、わかった。レイヴ達は?」
「お店でお茶しているよ」
交わされていく会話。それを聞きつつ見られない位置で目元を拭い――…、ヒリヒリ痛む目元と喉、それに涙に濡れた布団と枕カバーに気付く。
眠っていた間に、相当泣いていたらしい…。
「――…ねぇ、マリーさん」
部屋から出ようとしていたマリーに声を掛けると、彼女は柔らかな動きで振り返った。
そういえば…、他の人が「マリーさん」と呼ぶと怒るけれど、自分が同じように呼んでも、彼女は怒ったことがない。
「……その…、ごめんなさい。お布団、汚しちゃった…」
布団も枕もふかふかで、お日さまの匂いもして、洗い立てで干し立てなのだとわかる。それなのに、そんな自分のベッドに他人が寝て、しかも涙やらヨダレやらを付られちゃったら――…、やっぱり誰だって嫌だと思う…。
けれど。マリーは一瞬不思議そうな顔をして、怒るどころか哀しそうな顔をする。
「…ごめんなさい」
「えっ…?」
どうして頭を下げられたのかわからなくてうろたえていると、マリーは哀しげな微笑みを浮かべた。
「…マリーが一緒にいたのに、怖い思いをさせてしまったんだもの。
チビケンちゃんも、ごめんなさい。マリーが一緒にいたのに…、チビケンちゃんに『任せる』って言われたのに…、皆さんを危ない目に合わせちゃったもの。
本当に、ごめんなさい…」
キオウにも向き直って頭を下げるマリー。
「………」
複雑な想いで裾を掴んだままの手に力を込めると、キオウは小さくため息をついてこめかみを掻いた。
「ったく…、そういうのはやめろ。お前に謝られたら、日頃からコイツらを護っている俺の立場がねぇだろうが」
「でも…」
「いいかマリー、謝るのも泣くのもナシだ。
つーか、仕事中だろうが。化粧が崩れるぞ?」
「…チビケンちゃん…」
下げられたままの頭が、軽口にようやく上げられた。
いつものおっとりとしたスマイル。さりげなく拭われた目尻の涙。
「マリーはスッピンだもん」
「はいはい。さっさと下に戻れよ」
「はぁい」
いつもの調子で返された返事。それでも小さく会釈をして、マリーは静かに退室していった。
ぱたん、と優しく閉められるドア。
「――さて、と。
せっかくだからな、ミルク飲むか?」
「…うん」
「砂糖とハチミツのポットもあるな。入れるか?」
「じゃあ…、ハチミツ」
カップに注がれる温かなミルク。キラキラと輝く綺麗なハチミツ。口の中に広がる優しい甘さに、不思議と気持ちがほんわかとしてくる。
そんな自分を見たキオウも「やっと笑ったな…」と表情をゆるめた。
「クッキーも食うか?」
「うん」
少し塩気のあるクッキーと、温かくて甘いミルク。そして隣にいるのが大好きなキオウなのだから、もう何も文句などない。
そう思って――、そこでふいに止まる手。
「…ねぇ、キオウさん?」
「んー?」
「キオウさんと、あのマリーさんって、付き合っているの?」
「ッ!?」
生返事をしながらクッキーをかじっていたキオウが、危うくクッキーを落としそうになった。
「だって、仲が良いんだもん」
「あ、あのなぁ――…。
はぁ…。そんなんじゃないからな」
「…。ほんとーに?」
なんだよその目、とキオウが失笑している。
「マジだっつーの。そもそも、マリーには別の相手がいるからな」
「…ふぅん?」
「だから、なんだよその目は」
「キオウさん、ゲンメツ」
「げ、幻滅…?」
唖然としたキオウが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「女の子が泣いていたら、頭を撫で撫でするだけじゃなくて、黙ってハンカチを出さなきゃね」
「はぁ…? どこから得た知識だよ?」
「『パタ雨』の名場面。泣いているパティに、ケンが黙って寄り添って、さりげなくハンカチを渡すの」
「…。児童図書じゃねーのかよ、あの本…」
ため息混じりにぼやく賢者サマとは、なかなか貴重な光景だと思う。
「ごちそうさま」
一杯目のミルクを飲み終えてカップを置くと、キオウが不思議そうな顔をした。
「もういらないのか? おかわりあるぞ?」
「ううん。おなかいっぱいになっちゃうから、もういらない。スイーツ食べたいもん」
「下に降りるのか?」
「うん。前に食べたプリン食べたい。今の季節のタルトって何かな? それに――」
「キーシ」
真剣な声音のキオウに驚いて見ると、彼は何故か痛ましい眼差しをしていた。
「――…気丈に振る舞うのは偉いけどな、自分を虐める真似はするな」
「…!」
ハッと身体を固めると、彼はまた頭を優しく撫でる。
「このまま魔法陣を出して、船に送り届けてやれるからさ。本当にスイーツが食いたいって言うなら、後で俺が持ち帰って――」
「大丈夫」
わざと言葉を遮り、首を振る。
「だって、キオウさんが一緒でしょ? 最強のボディーガードなんでしょ?」
「………」
またもや唖然としたキオウに、キーシは強く笑ってみせた。