ステータス◇ステータス
ついカッとしてデスティニィ号を飛び出したキーシ。だからと船以外に行くあてもないので、夜の浜辺で膝を抱えていじけていた。
キオウに悪意などないのだと、キーシはよくわかっている。…だからこそ、キーシは自分に対して劣等感にも似た感情を抱いていた。
「……はぁ…」
重いため息が出てしまう。
自分の名前も誕生日も覚えていない。それどころか、キオウ達と初めて会った頃の記憶もあやふやだ。覚えていないわけではない。…思い出したくないのだ。
自分に残る記憶の中で一番辛く苦しかった時のことを――…。
「…」
目の前では月明かりを受けた波がユラユラと揺れている。
デスティニィ号から眺める海は好きだ。それはたぶん、仲間がいて安心できる場所から眺める風景だから。
でも…、船の外で眺める海は苦手だ。自分の一番嫌な記憶――漂流していたところを海賊に拾われて奴隷商に売られた、あの記憶と結びつくから…。
「――キーシ」
暗い気持ちでうつむいていると、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。うっすら浮かんでいた涙を袖で拭う。
砂浜をサクサクと鳴らして傍らまで来たキオウが、そのまま自然な動きで隣に座った。
「無神経なことを言って、悪かった」
「………」
迷いなく誠意ある声音。チラリと見ると、キオウは寄せては返す夜の波を見つめている。
キーシは抱えた膝を小さく自分に引き寄せた。
「…キオウさんは、あたしの本当の名前や誕生日を知ってるの?」
「………」
躊躇いのような間を置いて、キオウは「何故そう思う?」と問い返してきた。
キーシは複雑な思いに下唇を噛む。
「その…なんとなく――…うん、なんとなくこう思ったの。
もしもキオウさんが本当のあたしを知っていて、それでもあたしを『キーシ』だって見てくれているなら…、そうだったら、何だか安心するなぁ…って」
「安心…?」
キオウの声音に、彼が自分を気遣っているのを感じる。
さっきは怒ってしまったけれど、それでもキオウは自分にとって大切な存在だ。そのキオウの気遣う心に、安堵感をおぼえる。
「もしも……本当のあたしが悪い人間だったら…、それを船のみんなが知ったら――…。
そうしたら…、あたしを見る目が変わっちゃうでしょ…?」
「…」
キオウはただ静かに自分の言葉に耳を傾けてくれている。
「…あたしは…、船のみんなに『キーシ』って呼ばれて、今までみたいにみんなと一緒にいたいの。
でも…」
止めどなく込み上げてくる不安に震える声。
「も…もしもあたしが……本当のあたしが…みんなが思っているような人間じゃなかったら…ッ!」
「キーシ」
力強く握られた手。
無意識に強く閉ざされていた目を開けると、自分の目をまっすぐと捉える碧い瞳。
「お前は、お前だ。他の何者でもない」
「キオウさん…でも……!」
自分の記憶を辿ろうとする度に這い上がってくる正体不明の恐怖。思い出してはいけないのだと警告する鼓動ーー。それらに畏れを抱かないほどにまで、自分は強い人間じゃない。
流れ落ちた涙を拭っていると、温かな手が頭に置かれ、そして優しく撫でられた。
「お前の生い立ちは問題じゃない。大切なのは、今こうして恐怖と戦えるお前の心だ。
何度でも言おう。お前は、お前だ。他の何者でもない」
「キオウさん…」
それに…、と。キオウはわざと悪戯っぽく微笑む。
「たとえお前の正体が何かを知ったとしても、船の連中がどうこう思うと――ましてや態度を変えると思うか?
ワケのわからんマリモのバケモノや、尋常ならない魔力を操る賢者を簡単にあしらう連中だぞ? 人を殺めてきた“真空のジーク”がフツーに馴染む連中だぞ?
そんな連中が、仲間を見捨てるはずがない」
「キオウさん…」
つられて力なく微笑むと、キオウはまた優しく頭を撫でてくれた。
その心地よい手に…、キーシは勇気を奮い立たせる。
「――…キオウさん」
意を決した呼び掛けに首を傾げるキオウ。
キーシはゆっくりと深呼吸して口を開いた。
「あたしの記憶…、魔法で戻してください」
「…」
聞いた瞬間にかたい表情で眉をピクリと動かすキオウ。
キーシは手のひらに滲む緊張の汗を裾で拭き取りながら、まっすぐと賢者の目を見つめる。
「いつでも記憶を取り戻す手助けをしてくれる、って言ったでしょう? あたしは、今、全部を思い出したいの」
「――それは」
「誕生日だけとか、本当の名前だけとか、そんな部分的じゃダメなの。中途半端じゃイヤなの。
思い出すなら、全部を思い出したい」
キオウは苦しい表情で首を横に振る。
「…俺が言った『手助け』は、ゆっくりと時間をかけて思い出していく方法だ。全部をいっぺんに思い出すのは、辛いことになる」
――…やっぱり、とキーシは確信した。
キオウは本当の自分のことを知っているのだ。だからこそ、自分が全部を思い出すことを渋るのだ。それはきっと、間違いなく、辛いことになるから。
それに…、自分が予想していたように、この記憶喪失の原因はきっと自分自身だ。
何か恐ろしいことが自分に起きて、自分はその恐怖から逃れるために記憶を手放したのだ。つまり――…記憶を取り戻すということは、そのときの恐怖を再び呼び覚ますということ。それが恐ろしくないわけがない。
だが。だからこそ。キーシは強くキオウの名を呼んだ。
「キオウさん。あたしの記憶は、あたしのモノなの。キオウさんのモノじゃない、あたしのモノなの。
心配してくれるのは嬉しいけれど、あたしはあたしのモノを取り戻したいの。
だから、キオウさんが止めるのはイヤ」
「………」
「あたしはまだ子供だけど…、小さい子供じゃない。
キオウさんの優しさに甘えていたくない」
決意に強く見つめていると――…、かなりの時間の後に、キオウが深いため息をついた。
「…わかった。ただし、これだけは絶対に譲れないからな。
――俺の手を握っていろ。記憶に流されて、自分を見失わないように」
差し出された手。迷いなく自分を委ねることができる人の手。
――――キーシはその手をしっかりと握った。




