思い出の話
空気を振るわせる、彼女の羽音が耳に心地良い。
その音を不快だとも恐怖だとも思わなくなった自分の思考に、広大自身が驚いていた。
「広大さん、この家、片付けてもいい?」
新しい服を見つけた、と彼女は探検から戻るなり開口一番にそう言う。
「服のある部屋を見つけたんだ。すごいな君の嗅覚は」
「タンスを見つけたの。虫食いばっかりだったけど何着かは着られそうだった」
黒のワンピースと白のスカート、と彼女は歌うように言った。そして古ぼけた布の固まりを彼女は広大の前に落とす。
床に落ちたらしいその布からは、埃の香りがした。
「物置部屋みたいだった。タンスだけあったわ」
「物置……あったかな、そんなところも」
広大はふ、と眉を寄せて記憶の糸をたぐり寄せる。
滅多に立ち寄らない、陽も当たらない一角。
確かに荷物置き場として使っていた部屋があった。もう随分開けてもいない。何が入っているのかも思い出せない。主にも忘れ去られた部屋である。
目が見えなくなって10年。広大の中で、目が見えていた時代は遠い過去になりつつある。それ以前の記憶はどうにも曖昧で、日々の中に霞んで消えていく。
広大は茶碗に温い茶を注ぎ入れながら、苦笑した。
「よく見つけたね、そんな部屋」
「家ってつまり巣のことでしょう? 中の事分からないなんてどうかしてるわ。だからこの家、あちこちが埃っぽいのね。いやになっちゃう」
時計は羽根を動かす事をやめて床に降り立ったようだ。
鳥人の癖として、歩行が苦手なのだろう。彼らの足の爪は長く伸び攻撃に向いているが故に、地面に歩くことを想定して作られていない。
気を抜けばすぐに飛んでしまうようだ。
しかし広いとはいえここは家の中。羽根を壁にでもぶつけたのか、時計は飛ぶことを諦めて床を歩く。すると長い爪が木の床を叩く、独特な音が聞こえた。
「あたしの羽根も埃っぽくなっちゃうし」
「好きにすればいいよ」
広大は手を払って埃臭い空気を撫でる。
一人では感じなかった事だ。埃が多いなど、広大は今の今まで気付かなかった。
「だってここは時計の家じゃないか」
「あたしの生まれた、家ね」
時計は時折思い出したように棘のある言葉を吐いた。静かだが険のある声だ。山野高く飛ぶ、鳥の声に良く似ている。
彼女はしばらく埃を払っていたようだが、やがて聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「あと……写真」
「写真があったの?」
いつもの尖った声ではない。少し戸惑ったようなその声に、広大は首を傾げる。
「あったかな、写真なんて」
「えっと」
時計は言いよどみ、やがて言葉をかえた。
「あと、粘土」
「ああ、ブロンズ粘土だね」
この家には、アトリエと呼ばれる部屋がある。それを時計は見たのだろう。
狭い部屋にはグレー味がかった粘土が積まれているはずだ。粘土の破片と、汚れたヘラと、音もなくぴくりとも動かないその空気。
そして、緑色の光沢を持ついくつもの彫造もまた。
「ブロンズ像を作るのが趣味なんだ」
広大はふいに、その香りを思い出した。
重く、空気を締め付けるような香りだ。冬の香りによく似ている。石膏の側に近づけば、夏でも冬を感じることができた。
「変な趣味」
時計の声に活気が戻る。鼻で笑ったようだ。そして彼女は羽根を動かし……はたと気付いたように慌てて動きを止める。
険の強い彼女だが、戸惑う時は幼い。まだ10歳である。鳥人と人間の成長スピードが異なるとはいえ、生まれて10年しか経っていないことには変わりが無い。
広大は温い茶を飲みながら、彼女の気配を探った。
見えなくても、頭の中に想像が浮かぶ。
「じゃあ勝手に掃除するからね」
飛ばないように注意するかのように、彼女はゆるゆる歩き始めた。
かつり、かつりと彼女の爪が、歩くたびに時計の秒針のような音をたてる。
まるで赤子が歩くような不安定な足音に、広大は声をたてずに微笑んだ。
「何よ」
「別に」
柔らかい何かが広大の腕に触れる。それは、抜け落ちた時計の羽根の一片。
持ち主は落とした事にも気付いていない。広大はそれをつまみ、そっと鼻に押し当てる。大地の香りである。
そして歩く度に揺れる彼女の羽根の音は、木の葉のすれる音にも聞こえた。