服の話
生まれて初めてベッドで眠ったという鳥人の少女は、朝から明らかに不機嫌である。
「眠ってない。眠らされたっていうのよ、あれは」
鳥人の常識と人間の常識は、些細なことで食い違う。
「じゃあゆっくり眠れなかった、ってわけだ」
時計は小さな欠伸で応えた。
少女と出会い1日しか経っていないというのに、広大は昔から彼女を知っているように感じることがある。
卵だった彼女を手で包み、研究所に渡したのは広大自身だ。時計の両親との、文字通り死闘を終えたその後の事である。
全身の傷もまだ生々しく、鳥人の足で目を深くえぐられた。息は荒く、肺が焼き切れそうに痛む。
床には鳥人の夫婦の死骸が横たわり、血の香りは真夏の空気に生臭く香った。広大は満身創痍。
ふらつく足を叱咤して、血まみれの床に腰を落とす。目に手をやれば、気を失いそうなほどな激痛が背筋を貫いた。
自分の血の香りなのか、倒した鳥人の香りなのか。
……時折、夢に見る。その風景の中で、広大を唯一慰めるものがあった。
それが卵の存在だ。
血まみれの手で時計の卵を探りあてたとき、広大は最初それを叩き壊そうと思った。しかし、指先に伝わった生暖かさと、殻のざわりとした感触が不意に広大を現実に戻したのだ。
いくつかある卵は親鳥に踏まれ、もしくは広大によって潰されている。しかしこの卵は生きていた。
この戦闘の中で、一つだけが壊れずに残った。広大は神など信じていないが、この卵が生き残ったのは、何か目に見えない力が働いたせいに違い無い。
その卵を胸に抱いた瞬間を、広大はいまだに覚えている。
そのせいなのか、出会った瞬間から時計を他人のようには思えなかった。
時計の体内奥深くにもその記憶は残されているのかもしれない。
口では批判めいたことを良いながらも、彼女は広大を攻撃しようとしないし、逃げだそうともしない。
……いかにも不思議な関係だ。と、広大は思う。
「……あたしは昨夜」
時計の声に、戸惑う色が出た。
「……夢を」
「鳥人が夢を見るとは知らなかったな。どんな風に……人と同じように見るのだろうか」
「あれは夢じゃないわ。眠れなかったから、多分、色々昔のことを思い出しただけで」
4月の涼しい風が吹き抜ける。広大は箸を握った手を止めて、しばし朝の風に吹かれる。昼には温度が上がりそうである。
「……」
「……」
時計もまた不自然な無言に落ち着いた。
一人で居る頃は、静かであるのが当然だった。だと言うのに、二人で過ごす無音の時間は妙に居心地が悪い。
無音の中に、時計が揺らす羽根の音。そして時折、かつかつと地面を掻くような音が聞こえた。
彼女の長い足の爪が、地面を掻いているのである。
「……じゃあ、質問を変えよう。時計、美味しかった?」
朝食を二人で食べた。それは初めて二人で囲む食卓だった。
広大が夕飯を取る習慣が無いため、昨夜は彼女も食事を抜いた。鳥人は一日に二食とる。そう聞かされたのは今朝の事である。
「今夜は珍しく、夕食もとろうと思う。そのためにも、君の好みをしっておきたい」
「何だって食べるわ。あるならね。でも……二人で向かい合って食べる意味が全然わかんない」
時計はふてくされたよう応えた。そして食べ終わったあとの食器をまとめている。陶器の触れあう音が静かに耳に届く。
鳥人……というよりも時計自身が潔癖症なのだろう。片付けや掃除をやけに好む。
彼女が立ち上がると空気が生まれた。人が一人増えるだけで、家とは活気付くものらしい。音が増えるからだろう。
時計の歩く場所に光の道が生まれるようだ。その道を踏むように、広大も付いて歩く。
「それより時計、服を着てるんだね」
「いまさら?」
時計は心外そうに呟いた。眉でも寄せたのだろうか。そんな声だ。
「ああ。見えないのね。でも服くらい今時の鳥人は誰でも着るんじゃないの?」
食器を洗おうというのか、水道の音が突如湧いた。その水に彼女の指が触れて、水が弾ける音をたてる。春の出水のような音だ、と広大は思う。
「最近はそうだね。昔じゃ考えられない事だけど」
街中に出る鳥人の大半が、今や衣類を身につけていた。ただしそれは盗んだものや、拾ったものなどで構成されていて、けしてセンスがあるとは言いがたい。
それでも鳥人が服を着るなど、これまでは無かったことである。
人を見て裸体であることを恥じるようになったのだと専門家は言う。まるで、アダムとイブだ。
すぐ隣に立つ時計の姿は見えないが、時折衣擦れの音が聞こえる事から何らかの衣服は身につけているのだろうと広大は想像する。
「長い……ワンピースのような服かな。靴は履いてない。アクセサリーも、多分付けてないよね」
広大は時計の真横に立ち、意識を集中させた。どれほど目をこらしても見えるはずもない。ただ、イメージはある。
物を写さなくなった広大の瞳だが、光だけは見ることができるのだ。
「髪は金に近いんじゃないかな。そして長い。羽に時々絡んで音が歪むから、背中まであるんじゃないかなって思うけど」
そして肌の色は羽と同じく美しい白だろう。目の色は透き通るようなブルーか、もしくはグリーンだ。
リアルは見えなくとも、イメージは最初から広大の中にある。
「半分正解。よく分かるわね」
「見えないから、何かの形を知る時は、触って判断するんだけど」
広大はす、と手を差し出す。人でも物でも、手で触れれば確実な形を捕らえることができた。目が見えなくなってからというもの、指先の感覚は鋭くなる一方である。
「でも時計は女の子だからね、イメージで当ててみた」
「……変態」
時計は羽根で広大の手を払う。疲れているのか、もしくは慣れたのか昨日ほどの殺意は感じられない。
「……研究所の所長……が服を着ろといったのよ」
「所長?」
「洗い物もね。食べたらちゃんとしなさいって」
彼女は食器を洗い終えると、羽を一度振るわせた。
時計の声から、嫌悪感がにじみ出る。広大の頭に浮かんだのは、時計を預けた研究施設の男である。
確か初老であった。冗談も言えない、そんな男だった。どこで出会ったのかは覚えてもいない。
広大の目が潰れた事を知った彼は、それは非常に残念だと泣きそうな声でそういった。
思えば、彼が人間らしい感情を見せたのはその時だけである。
「その場所に暮らすにはルールがあるからって」
「研究所は、それほど嫌な場所じゃなかったのかな」
「時計を埋め込まれるまではね……それにこの家のほうが嫌な事だってある。ベッドがあることよ」
時計が身をよじる音がする。食器を洗い終えたのだろう。彼女が動くと羽根も一緒に動くので、心地よい風が生まれるのだ。
「ところで、何か着るもの探してもいい? あたし、この服しか持ってないの」
「いいよ。服くらいはあるんじゃないかな。この家、無意味に広いから」
時計は不意に明るい声を出した。無理をしているような声だが、広大は敢えてその澱みを聞き流す。
「じゃあ勝手に探すわ。でも服の背中のところ、切っちゃうからね」
時計はさっそく探検の気分なのだろう、羽根を大きくはためかせ声がどんどん遠ざかっていく。
やはり彼女の動く先に光の道ができるようだ。見えないというのに、彼女の飛んでいく先がなぜか頭にしっかりとイメージされる。
広大はその軌跡を掴むように、静かに指を伸ばした。
「なんで切るの?」
「羽根!」
背中の羽根に通す穴がいるのだ、と時計は叫んだようだが、その声は彼女自身の羽音にかき消された。