夜の話
一日目の夜はすぐに更けた。
時計は固いベッドの上にうつ伏せになり、羽根を上下に揺らす。
そのたびに、部屋の香りが時計の鼻を刺激する。古い木の香りだ。
一日、窓を開け放った。新鮮な空気をたっぷりと入れ換えたはずなのに、この部屋の香りは残ったまま。
嫌な香りではない。古巣の香りだ、と時計は目を閉じて息を吸い込む。
彼女が横になるのは埃臭いベッドだが、一日干して埃を払えば多少はましなものとなった。
おろしたてのシーツと毛布を広大がどこからともなく出してきたおかげで、肌触りは悪くない。
それに部屋にはカーテンも付けられた。これもまた広大がいずこからか出してきたのである。この家は無駄に広く、そしていろいろなものが揃っている。
「……」
時計は薄く瞳を開いて、体を左右に揺らす。
胸とベッドの間には柔らかい毛布が詰めてある。羽根とも動物の毛とも違う不思議と癖になる感触だ。化学繊維だ、と広大は笑っていったが時計にはよく分からなかった。
「……変なの」
時計は呟いて、枕に顔を落とす。声が枕に吸い込まれた。
そもそも鳥人はベッドで眠ることをしない。羽根が邪魔だからだ。
鳥人は木の上で眠る。
鳥人は人間によく似た生き物だが、足の形は通常の鳥のように鋭く尖っている。この足で獲物も捕るし、木の枝に捕まって立ったまま眠ることもできるのだ。
器用な鳥人であれば、枝に足を引っかけひっくり返って眠ることもある。
つまり、鳥人にとってのベッドは森だった。
それでもベッドで眠るように、と広大が意地のように主張し、結局時計が折れた形となった。
「ベッドで眠る? 研究所でもそんなの無かったのに?」
研究所には鉄で作られた木のレプリカがあった。冷たくも固いそれが時計の寝床だったのだ。それでもベッドよりはいくぶんも眠りやすかった。
(……研究所の木の上には透明なガラスがあって)
そこからは、いつでも夜が見えた。
昼は実験ばかりで、時計が見ることのできたのは白い壁と不思議な器具の数々だけだ。
夜、寝床の枝に捕まって天を見上げると、そこには夜が広がっていた。
真っ黒な天にはいくつもの星と、巨大な月。時折そこを駆け抜けてく鉄のかたまり。世界は夜しか無いのだと、時計は長くそう思っていた。
最初はガラスが何であるかを知らず、無我夢中にぶつかった事もある。翌日、時計の体に残った打撲跡を見て、研究所の人間は無慈悲に笑った。
「でもここは屋根があって、空が見えない」
時計が眠る部屋には屋根があり、壁があり、冷たい風も吹きつけてこない。
足元には暖かい炭をくるんだ革の塊まで置かれていて、住環境としては最高だ。
昨日まで彼女は森の中にいたのである。まだ春浅い時期には、夜になればずいぶん冷えた。冷たい無遠慮な風に吹きつけられ、羽根は何度も凍った。
初夏になっても森の夜は、寒い。
今日は暖かい湯に浸かり、羽根は元の白さを取り戻していた。根元から振るえば緩やかに動く。足の先にできていた凍傷にも傷薬が塗られた。
(……眠れない)
しかし時計は眠れない。その心地よさが却って不自然だった。
腕を張り、羽根を羽ばたかせて時計は少しだけ宙に浮いてみる。広い部屋なので、羽根を動かしても支障は無い。
部屋を綺麗に磨いたため、風が起きても埃一つたたない。
気持ちが恐ろしいほどに静まっていた。胸の時計も、コトリとも音を立てない。心の中に波が立たず、空気が肌に良く馴染む。
ここはやはり時計の古里なのだろう。ようやく戻ってくることができた、と思うと涙がにじんだ。
ただ仇である広大が共に居ることだけが、気持ちの内側を刺のように刺激した。
(広大さんが居なければ、この居心地のいい場所はあたしだけの物になる)
時計はゆっくりとベッドの隅に降り立つ。そして足でしっかり、ベッドの隅を掴む。
横になるよりは、幾分も安定した。
(殺す方法を……考えないと)
仇は目が見えないのだ。たとえ鳥狩りのエキスパートだったとしてもそれは過去の話である。
近づいて首を締めるなり、足の爪で胸を貫くなり方法はいくらでもある。
例えば今のような夜、眠る彼を襲えば事はたやすく済むだろう。時計の爆発を待つまでもない。
そうして、彼の死骸はどこかの森にでも、この庭にでも放置すれば良い。
死骸はいつか、朽ちて土と一緒になっていく。そして広大であったものは、無くなってしまう。
そうすれば、この広い家は時計だけの物だ。胸の中にあるゼンマイ時計が爆発するまで、この古里でゆっくりすごすことができる。
(でもいつでも……殺すことはできる)
時計は羽根を動かすのをやめた。
(いつか、いつか……)
しばし悩んだあと、腕を広げてベッドに向かってゆっくりと倒れ込んだ。
枕が柔らかく顔を受け止める。体がベッドの上で一度大きく跳ねて羽根が静かに動きを止めた。
まだ少しだけ残っている埃が、夜の闇にちらちらと踊る。
瞳を閉じれば夜の音が耳にうるさい。
それは静寂と言う音である。




