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ただいま、広大さん

 広大の毎日は、単調である。

 朝起きて、窓を開ける。古くて広い家には20もの窓があるので、それを順番に開けていく。これが骨の折れる作業だった。

 充分に風か゛抜けるのを感じたあと、広大は素足で庭に飛び降りる。

 暖かい4月の日差しが彼を包んだ。春の野菜がそろそろ実っている頃である。

 広大は足でそれを探りながら、植え付けた場所を見つける。

 柔らかい土に触れて、野菜を香る。土と、春の香りがする。

 実ったそれをいくつか収穫し、そしてそれを台所に持ち帰る。白い御飯と味噌汁に、野菜の一品。広大の朝食はいつでも簡単なものだ。

「さて」

 広大は顔を上げて、笑った。日差しは暖かい。今日は非常に暖かい、良い日になるのだろう。

 こんな日は、アトリエに籠もってしまうのは勿体ない。喫茶店にでも行って、無駄な話で盛り上がるのが、一番楽しい。

「いつまでそこに突っ立てるんだい?」

 明るい日差しを遮る、小さな影がある。

 広大はそちらに向かって、一歩、二歩と近づいた。

「朝食当番は君だよ。最後の朝食は僕が作っただろ?」

 広大は腕いっぱいに収穫した野菜を、その影に向かって高く掲げた。

 いつもより多めに収穫した野菜は、土の香りが強い。

「菜っ葉も食べられるようになったから、君が好きに作るといい。そして昼から猫の喫茶店へ行こう。山音ちゃんが君に会いたがっている」

 掲げた腕から、重さが消える。野菜を詰めたザルを誰かが取ったのだ。

 その代わりに、広大の腕の中に暖かく柔らかい何かが飛び込んでくる。それは非常に高い熱を持っている。鋭い爪と、柔らかい羽根と、長い髪と。

 そして、穏やかな鼓動を。

「……ただいま、広大さん」

「……お帰り、時計」

 その声も、体の熱も、それは生きた時計のものだった。

 土の香りと森の香りと緑の香りが、彼女を包んでいる。

 施設から逃げ出したとは聞いていた。森の中をひたすらに駆けてきたのだろう。

「待ちくたびれたよ、時計」

 広大は彼女の爪に触れた。力強く、割れてもいない。羽根は、相変わらず動かないようだ。まるで飾り物のように、硬直したまま時計の背にくっついたまま。

「あれから何年経った?……さあ顔を見せて」

 広大は時計の顔をそっと撫でる。骨格が、ずいぶんとしっかりしている。広大の知っている時計は10歳だった。しかしあれから数年。鳥人の成長は早い。

 しかし時計はまるで子供のように広大に抱きついたまま、動こうともしなかった。

「君を探そうともしなかった僕を恨んで、どこか違うところへ行ったのかと心配してた」

「……うん」

「マスターは時計を探そうっていったけど、僕は反対した。鳥人の帰巣本能は、素晴らしいんだろう? けして君が道を間違うはずがないって、そう思った」

「……うん」

 喋りながらも広大は心の中で別の事を思い出していた。

 それは電話越しに喋った所長の声だ。

 ……時計は羽根を傷つけた。もう飛べまい。その彼女は森に逃げた。彼女はどこへ逃げるというのか。

 彼は憔悴した声で、そう言った。

 所長と時計の間に何があったのか、広大は知らない。

 あれに初めて反抗を受けましてね。重い口を開いて彼は言った。


『そちらの家に戻ると思いますか? 村口先生』

 彼は疲れた風である。

 戻ると思います。

 広大はそう返した。

『しかし彼女は飛べない。このラボからあなたの家までどれほど離れていると思いますか。彼女が辿り着けるはずがない……が、戻れば……それは私の実験の完結でもあります。あなたの家に戻れば私の実験は成功だ。しかしね、村口先生』

 所長の声は、すっかり老いている。

『ラボに戻ってきて欲しいと願う気持もあるのですよ。不思議な事にね』

 電話越しということもあるのか、彼の言葉は優しい。

『私は冷たい人間だ。しかし10年です。彼女を育てた。素直に言いましょう、私は彼女を娘のように思うことがある……いや、今もだ』

 彼は、賭をしましょうと静かにいった。

 広大の家に時計が自発的に戻れば、二度と所長は時計を取り戻すことをしない。

 しかし所長が先に時計を見つければ、再びラボに連れ戻す。

『時計がそちらに戻れば私の実験は成功だ。しかし私の気持ちは敗北だ。私が彼女を連れ戻すことができれば、その逆です』

 何という愚かな賭か。と彼は笑った。こんな馬鹿げたことを10年の研究に、捧げるのか。と彼は笑った。

 その笑い声を最後に、広大は所長の声を聞いていない。彼が今どこで何をしているのかも知らない。

 

「君がきっとこの家に辿り着くだろうと思ってた」

 広大は時計の暖かい背を抱きしめる。

 希望ではない。きっと彼女はこの家を、庭を目指すだろうと広大は思った。

 だからこそ、待つべきだと、広大は思った。

 名残の雪が溶けて日差しに暖かいものが混じり始め、初夏の空気を感じる頃。春と初夏のちょうど合間、暖かい風が広大の頬を撫でる頃

 ちょうど数年前と同じ日に、時計は戻って来た。

「山音ちゃんは探していたみたいだけどね。仲間の鳥人さえ見つけられないほど隠れて進むなんて、君の逃げかたは随分上手だね」

「……うん」

「どこをどう逃げてきたの。教えて時計」

「うん」

「うん、しか言わないね。時計」

 広大に抱きついたまま、時計は肩を震わせている。少し痩せた肩である。しかしその体は土と緑の香りを纏っている。

 広大からも、同じ香りが漂っているのだろう。

 時計は震える声で、静かに呟く。

「……ただいま、広大さん」

「……お帰り、時計」

 今日は一日、同じ言葉を交わして過ごすことになるに違い無い。

 それは、光輝くほど幸せな応酬である。

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