死の終わり
広大は静かに椅子を引いて、座った。
朝から降り始めた雨は雪になった。もう3月も終わりである。名残の雪だろう。
春も近いとはいえ、冷え込みはまだまだ強い。
雪は降るとこの家は不思議なほど、静寂になる。耳が痛いほどの静寂だ。
時計が消えて半年、秋も冬もこの家は妙に静かだった。暮らす人間が一人減るだけで、音はこれほどにも失われる。
しかし時計の気配だけは、あちらこちらに残っていた。扉の隅に付いた爪の跡だとか、整理された本の背表紙だとか、庭の足跡だとか。
残された時計の気配は広大の気持をざわつかせる。そして同時に、彼女が叫んだ言葉を思い出させる。
最後に時計が叫んだ言葉は、古い鳥人の言葉だった。もう誰も聞き取れないだろう。
時計もその言葉を習ったわけではあるまい。心の奥底に、遺伝子に刻まれていたのだ。それが不意に口から突いて出た。
その意味を広大は考える。
彼の人生でそれは、ただ一度だけ言われた事のある言葉である。
「さて」
音の無い部屋に広大の声だけが響く。
目の前には散剤と、湯がある。いつものようにゆっくりと、湯飲みに散剤を落とし込んで、湯で溶かす。
混ぜるうちに、甘い香りが漂った。
それを鼻先に持って行き、香る。
「……どうせ終わりがくるのなら、僕が先に死んでおけばよかったとおもったけど」
時計がさらわれたあ後、広大は死を思った。何もしなければ死ぬはずだった。
何日分もの薬を湯に溶かし、ひたすらに飲んだ。それだけで、後はこんこんと眠った。
時計の救出を考えたこともあった。喫茶店のマスターに頼めば、鳥人保護の団体が動くだろう。非道な研究を重ねるあの所長は、何らかの罪に問われるはずだ。
しかし変な動きをすれば、時計の身が危ない……ぜんまい時計の爆発は、彼女を蝕んでいるのである。
不幸な境遇ではあっても、広大が何もしなければ時計が死ぬことはない。
例え危険があっても救い出す方が時計のためになるのか、それともこのままでいる方が時計のためになるのか、思考はいつもそこで止まる。
最後にいつも行き着くのは、鳥人狩りとして手を汚した過去の思い出である。血まみれの手を今でも夢に見る。
(半年は、長かったのかな。時計にとっては……僕は、長かった)
死は確かに広大の家を叩いただろう。しかし、広大は死ななかった。
死ぬ前に時計が最後に叫んだ言葉を、鳥人の古い言葉を調べてみようと思ったのである。
調べるといっても、広大の目では書物を紐解くわけにもいかない。
そこで山音に事情を隠して尋ねた。彼女は戸惑い口を閉ざした。しかし根気よく尋ね、ようやくその意味を知ったのは昨日のことである。
その言葉は、広大の耳に染みた。
「……この病は死に至らず」
広大は古い本の言葉を口にして、薬を飲む。甘い香りが喉一杯に広がった。
薬が詰められていた箱は、もう空である。この一杯を最後に、薬は切れる。
決別のように、広大は湯飲みを庭先に投げ捨てる。鈍い音がしてそれは遠くで割れた。
(なるほど、この薬はただの甘い粉だ。小麦粉に何か……味を付けたもの)
10年前、広大は死を渇望した。本当は20年前、妻が鳥人に殺されたときに広大も死ぬつもりだったのだ。
しかし復讐というどす黒い感情を満たすため、広大は鳥人狩りとなった。
当時、この国は鳥人の襲来に遭っていた。戦う人間は、いくらでも必要とされた。
戦場を、広大は体験したのだ。
(戦っている間、僕は何を思った。楽しいと、思ったんじゃないのか、いや、何も思わなかったのか。殺す事に関して)
妻の死はただのきっかけだ。広大には残虐な血があったのかもしれない。
10年前、目を潰されて広大ははじめて、自分の残虐性に気がついた。だからもう、自分は死ぬべきだと思ったのだ。
広大は友人の医者に、毒薬を譲ってくれと願った。
もちろん却下された。しかしこのままだと広大が首でも吊ると思ったのだろう。ある日友人が箱一杯にもってきたのは、この薬である。
君を蝕むものは、死に至る病だ。
友人は医者らしい真面目な声で言った。
(……その病名を知っているか。絶望というのだ)
絶望が君から離れない限り、この薬は毒だ。君はやがて死に至る。
しかし。
(……生きたいと願えばこれは良薬になる)
10年前、友人の語った最後の言葉を、広大は苦笑と共に思い出した。
ただの味を付けた粉だ。医者である彼は、広大にプラシーボ効果による緩やかな自殺を勧めたのだ。
生きる希望があれば、生き延びる。その広大の心の変化に期待して。
「僕はまた生きることになりそうだ」
広大は味気ない朝食のあとを片付けた。久しぶりに、さまざまなものを口にした。パンに白米に、漬け物に、苦手なはずだった菜っ葉でさえも、とにかくあるものは全て食べた。
やせ衰えていく広大を案じたマスターがことあるごとに食事を運んでくれるのである。
溜め込んでいたそれを綺麗に食べた。一口噛みしめるごとに、血が騒いでまだ生きられる。と広大は思う。
食べた形跡を見せると、マスターは涙を流さんばかりに喜ぶだろう。
彼と鳥人のかすかな恋はいまだ続いているらしい。卵は、生まれなかったのだろう。しばし山音は落ち込んでいたが、最近は笑顔である。
人も鳥人も、生まれ変われるのだ。
「……」
綺麗に片付けを終えた広大は、ゆっくりと廊下を歩く。朝食前に開けた窓のおかげで、部屋はしんしんと冷えている。
構わず廊下の奥まで行き当たると、広大は手探りで扉を開ける。
そこにはかつて、板を張り付けてあったはずだが、今は外されていた。時計が外したのだろう。
部屋の中に手を差し込めば、触れるのは暖かい桐箪笥だ。それはいまだに、懐かしい香りをまき散らしていた。
「……やあ、会いに来たよ」
静かに引き出しに指をかけ、開ける。当時は高級品の嫁入り道具といわれたそれは、20年間手入れしないままでも静かに開いた。
引き出しの中、潰れたブロンズ粘土と小さな紙が転がっている。どちらももう、広大の目では見ることもできない。
しかし写真に焼き付いた幸せそうな笑顔を、広大は覚えている。優しい人であった。
彼女は10年前、広大の夢の中に一度だけ出て来た。
広大の潰れた目を指さして、さなぎのように美しい。そういって去っていったのだ。
それ以来、夢にも見ない。
彼女の顔を忘れる前に作ろうと、練ったブロンズ粘土は完成することなく棚に収まっている。
「……愛している」
広大はしばし考え、それを鳥人の言葉で口にする。
「……」
それは、時計が叫んだ言葉である。
桐箪笥の部屋に随分長くいたものらしい。
痺れる足を引きずって、広大は部屋を出る。きつく扉を閉めて、続いて向かった先は玄関だ。
その隅には、もう何年も触れていなかった電話が置かれている。
古くさいプラスチックのそれに触れると、埃が溜まっているせいか、妙に柔らかい。埃を払いながら、手探りにコードを探す。
それを恐る恐る、壁の穴に差し込めば途端、耳元に10年ぶりの電子音が蘇った。
「さあ、僕は生きよう」
深呼吸を一度。広大はプッシュボタンを静かに押す。
「……時計と一緒に」
やがて呼び出し音が耳元に響き渡った。




