生の始まり
施設を逃げ出すことは、容易かった。
昔の施設にはもう少し、人がいたはずである。
しかし今はもう誰もいない。扉は壊れ、床は割れている。まるで廃墟だ。飛び出せばすぐそこは森。雪の残る道は白く、夜でも明るい。
幸いなことだ、と時計は駆け出した。走ると背が痛む。それは先ほど傷つけた羽根である。血は止まったが、羽根は動かない。
(……うっかり、馬鹿なことをしたわ)
傷付けなければ飛んで逃げられたかもしれない。しかし、傷つけることで所長に隙が生まれた。
羽根を傷つけるという行為だけで、初老の彼は驚くほど落胆したのである。
向かってこられるかと覚悟もしたが、傷ついた羽根を見ただけで彼の何かも傷ついたのだろう。
写真に写っていた彼女との思い出によるものかもしれない。しかし時計は、そこまで探る気も、聞く気もなかった。
実際、余裕などないのだ。恐怖で膝が笑う。気を抜けば倒れそうなほどに恐ろしい。
足を止めて振り返ればそこに所長が無表情のまま立っているように思われる。だからひたすらに、真っ直ぐ前だけを見つめ続けた。雪の積もる大地と、林立する森の木を。
その奥は闇だ。何も見えない。ただ森の香りだけが強い。
目の見えない広大は毎日をこのような感覚の中で、暮らしているのだ。
追われる恐怖から時計の速度が上がる。最後はまるでもがくように両手を前へ前へと突き出した。
走れば心臓が跳ね上がった。しかしそれは時計の心臓のたてる鼓動である。ぜんまい時計など、どこにもなかった。爆発するものなど、どこにもない。
逃げだす気力を削いでいたのは、ぜんまい時計の存在だ。
どうせ逃げ出してもいつかは爆発すると思い込んでいた。
最初の目的は広大を巻き込んで死ぬことだった。しかし、たった半年でその目的は大きく歪んだ。
(……広大さんを殺したくない)
しかしぜんまい時計がそこにないのならば、時計を縛るものはなにもないのだ。絶望は確かに時計を蝕んでいたが、それは希望に変わった。
(10年、あんなところにいて……逃げて広大さんに出会って、たった数ヶ月で)
時計はがむしゃらに走る。飛べなくなって以来、走ることがずいぶん上手になった。
雪の残る不安定な大地を、転ばずに走ることもできる。
(たった数ヶ月で人間のルールなんてものを押しつけられて御飯を食べたりベッドで寝たり本を読んだり不安になったり)
森は深い。振り仰げば、高い空を鳥人達が飛んでいる様子が見える。今宵は満月だ。月の光は森には届かないが、空は明るい。そこを彼らは楽しげに飛ぶ。
彼らは人と暮らすことを拒否した鳥人だろう。
自由に空を飛ぶ。そしてそのうちに、子を成してやがて森に落ちて静かに死ぬのだ。
鳥人としては見事な生き様だ。
しかし、時計はそれ以外の道を知ってしまった。
(そしてあたしは人を……)
冷たい石を蹴り上げて、それは森の奥へ音を立てて転がっていく。その先に、月光が静かに降り注いでいた。
(……人を好きになったり……)
広大の家は、時計の家は、森を真っ直ぐに抜けてまだその先である。
はじめて広大の家に帰った時は、飛んで向かった。
走ればどれほどかかるのか、時計は知らない。地図もない。
ただ目を閉じて息を吸えば、体の奥底にある帰巣本能が行き先を告げるのである。
服の内側に付けられたポケットを探ると、つるりと冷たい感触が指に触れる。
それは、宝石に姿を変えた二枚貝である。
生きたまま別の物に変容する……初めて聞いたときは恐怖しかなかったが、今は妙に心強い。
生きたまま、別の物に生まれ変われるのだ。
「帰ろう」
帰って広大の顔を見よう。と、時計は下唇を噛みしめる。
それこそが彼女を突き動かす衝動だった。




