部屋の話
広大の暮らす家は古いが、広い。
扉は数え切れないほどあった。つまり、部屋が無数にあるということだ。それも一階だけでなく二階まで広がっている。
部屋だけでなく、扉の向こうには物置や使っていない風呂やトイレなどもあるはずだ。しかし、主である広大さえその部屋数を把握しきれていない。
「この部屋を時計の部屋にするといいよ」
広大はそう言って、壁に手をはわせてノブを探る。台所から東へ10歩。足下の床がきしむ、ちょうど隣に部屋があるはずだ。
手の先に伝わったのは真鍮の感触。
「さあ、どうぞ」
ノブを掴むが、何かに詰まったように戸はたやすく開いてはくれない。
長らく開けていなかったせいだろう。乱暴にノブを引くとノブ自体が外れてしまう。急に抵抗力が薄くなり、手の中に金属の重い感触だけが残った。
「ああ、やっちゃったね」
広大は苦笑し、ノブのあった場所を手さぐりで探る。ぽかりと開いた空洞に指を差し込み、勢いで戸を引き開けた。
「何て古い家なの、ここは」
隣に立つ少女は相変わらず険のある声だ。眉を寄せたのだろう。見えないが、恐らく彼女は細い眉を持っているに違いない。
概して鳥人とは美しい。線の細い、色白の、整った顔の少女なのだろう。
そして彼女の背に広がる羽根は光のような白だ。広大は光だけはなんとなく感じることができるのである。最初の出会いの際、広大は彼女を天使だと思った。
羽根から透ける光を感じ、自分はとうとう死んだのかと、そう思ったのだ。
「ちょっと、広大さん」
先に中へ足を踏み入れた時計が、突如叫んだ。
「……っ! 埃! すごいんだけど!」
天使と思われた少女は三回くしゃみをして、また叫ぶ。
「本当、汚い。最低!」
続いて部屋に入った広大は、足を止めて息を吸い込んだ。確かに埃が香る。湿気って重い。鼻の奥に残る独特の香りだ。
長い間この部屋の時間は止まったまま。過去の香りだ、と広大は心の内に思う。
「だってもう長く使ってないし、僕の目はこんなだから使う部屋以外を掃除とかしたくないんだよね」
時計の両親が死んだ部屋や、その血の染みが見える部屋はさすがに居心地が悪いだろうと、広大は少し離れた部屋……あまり使われていない部屋を、彼女に与えることにしたのだ。
だから部屋が汚くても我慢してほしい、と言っても彼女は無言だ。
「鳥人が綺麗好きだなんて知らなかったな」
「常識の範囲なら耐えるけど、常識を超えたら耐えられないわ」
「その常識は鳥人のもの? それとも人のもの?」
足先で床に散らばるものを蹴り上げながら、広大は進む。
目が見えなくなった時から、広大はできるだけ足を使うように心がけていた。つまり、足先に当たるものは遠慮無く蹴り上げて行くのである。
危ないだろうと忠告する人もいた。しかし、障害物を手で除けて転んでしまうほうが広大にとっては危険なことなのだ。
しかし時計はそんなくだらない忠告などしない。時折、邪魔な荷を退けている気配もある。
(人に育てられた鳥人は、人間社会に適合する)
広大はぼんやりと考えて、苦笑した。もう、鳥人にかかわることなど、一生無いと思っていた人生だ。
どんな因果か、広大と鳥人はつくづく縁があるらしい。
「空気を入れ換えればきっと時計も気に入るよ」
部屋の先に窓があったはずだ。しかし広大より先に、時計が開け放った。
ふわり、と土の香りがする。長い間光も風さえも通っていなかった部屋に、空気と風が浸食していく。
外は春から初夏へ移り変わる頃である。春の草花が死に絶え、それを超えて夏の花が咲く。生と死の狭間が生み出す、酸味に似た香りが広大の鼻いっぱいに広がった。
「埃臭い」
しかし鳥人は情緒を感じることもしない。
風のせいで、溜まりこんだ埃が舞い上がったのか、それはちりちりと音をたてた。
外の光を受けて、埃は一粒一粒輝いているに違い無い。それは、埃と蔑視するにはあまりに美しい。
「……こんな汚い部屋をあたしに?」
時計が羽根を上下に動かしているのだろう。部屋の中に風が通り、埃が窓の外へと逃げていくようである。
「なんで部屋なんて」
「一緒に住むといっても部屋くらいないと、困るだろ?」
「庭でも住めるのに」
時計はどこまでも不機嫌そうな声だった。
「むしろ庭の方が好きなのに」
「偽物でも一応家族になったんだから、そんな子を庭先になんて出せないよ」
「……家族ね」
ふいに時計の声が黒く滲んだ。おや、と広大は動きを止めて時計のため息を聞き分けた。
「気に入らなかった?」
「人間って家族って響きが好きねえ」
心底嫌味のこもった声だ。
鳥人は群れない生き物である。家族と呼べるのは、父と母だけだろう。
そんな父母も子が羽根を動かす時期となれば、次の恋を求めて去ってしまう。だからこそ、親愛の情も根づかない。
鳥人とは、生涯孤独な生き物だった。
「一緒に住むのに、他人じゃ寂しいだろ。血のつながりも、まあ種族としてのつながりもないけど。家族みたいなもんじゃないか」
「……あたしのこと、娘とでも?」
「もっと対等な関係と思ってるよ。家族という響きが嫌なら、同居人というのはどうかな」
広大は喉の奥で笑う。これほど高揚した気分は久しぶりのことだった。
彼女の羽風が、この家にわだかまる重苦しい澱みを払った、そんな気がするのだ。
「研究機関に差し出した鳥人相手に同居人……ね」
「君は根に持つタイプだねえ。人間の世界に入ってくるのなら、そういうのは似合わないよ」
「嘘を言ってる声だわ」
「いや、人の感情はそんなにいつまでも続かない。あっさり忘れてしまう。寿命だって短いからね。効率的に生きなきゃ」
広大は苦笑して、足下にあった椅子を手で探り当てる。そこに座ると、それだけで埃が立った。
「各自使う部屋は自分で掃除をすることと、食事の当番も決めないと」
「楽しそうね」
「だめ?」
「いいけど、あたし、あんたを殺すつもりなんだけど」
時計は部屋の隅にある何かを叩きながらそう言う。恐らくそれはベッドだろう。
ぽんぽんと軽い音が一定のリズムとなって広大の耳に届き、柔らかい埃が広大の鼻を刺激した。
長らく音の無かった家の中から、久方ぶりに響いた生き物の音である。
「そういや君は僕の仇敵だった。すっかり忘れてた」
「忘れないでよ」
気を抜けば殺すからと時計は言って、ベッドを抱えたようだ。鳥人は、幼くとも力が強い。
ベッドを庭先に干すつもりなのだろう。抱えたまま部屋から出ようとする時計の腕に、広大は軽く触れた。
手の先から、生きている温度が伝わってくる。かつてはこの腕をもぎ取り殺すことしか頭になかった自分が、その生き物を保護しようとしている。
人間とは、不思議な生き物だった。おそらく、この目の前にいる生き物よりも不思議な生き物だ。
「……しばらくは家族ごっこに付き合ってくれるとうれしいな、時計」
どうせ死ぬのだし。と広大はなんともない顔で言った。
どうせ殺すのだし、と時計もなんともない顔で答えた。




