過去の話・下
気がつけば、夏は終わっていた。
窓の外に広がる緑は浸食されるように赤くなり黄色くなり、そして枯れる。
冷たい風と雪が吹き荒れることもあった。結露が窓を凍らせることもあった。
しかし、時計はそれを黙って見ているだけである。研究施設の中は温度が一定に保たれていて、冷え込むことも暑くなることもないのである。
二人の家から時計が連れさらわれて、もう長い時間が経った。
時計はまるで玩具のように軽々運ばれた。もう抵抗する気概さえなかったからだろう。
その時、時計を蝕んでいたのは絶望である。絶望は死に至るのだと広大は言った。
しかし。
(……死なないじゃない、広大さんの馬鹿)
時計は窓枠に肘をついて、外を眺めながらそう思う。
時計の毎日は、ただただ実験である。しかし、痛みを伴うようなものはない。
眠らされることもあったが、それは睡眠のデータを取ったのだと、逐一報告もある。昔に比べると、ずいぶんと居心地のいい実験ばかりだ。
しかし時計にとってそれらは何ら興味のわくものではなかった。
さらに珍しくも、所長は時計に文字などを教えた。人間界の日常も、そして様々な知識を。
すでに知っているものもあったし、初めて知ることもあった。
それだけは時計の心をくすぐったが、やがて飽きた。今更覚えたところで、やがて時計は死ぬのである。
食事はやはり、決まった時間に決まったメニュー。
真っ白な部屋の中で食べる食事は、虚しさばかりが募った。
眠る場所はベッドではない。鉄製の、木のモチーフ。枝に足で捕まり眠るのは、辛かった。羽根は広大を救おうとする時に動いたきりで、それ以来動いていないのだ。
もし木から落ちれば、無様に落下するばかりだろう。
……いつの間にか、時計の体は広大の家にすっかり馴染んでしまっていた。
(いつ死ねる?)
最近はコトリとも音をたてなくなった胸のぜんまい時計に、時計は尋ねてみる。時折、胸を強く叩いてみる。それでも音はしない。
(ほんとう、役に立たない)
壊れてしまったのかもしれない。それならば。
(早く中で腐ってあたしを殺せばいい)
時計は床に座ったまま、窓枠にのせた腕に額を押し当てる。
それはいつか本で見た、祈りを捧げる人間の姿にそっくりだった。
窓の外は夜が続く。昼は実験のため、外を見ることができないからだ。
夜の森は深い。その森のどこかに、時計の両親の墓があるのだろう。しかし時計は誰にも知られず死んで行く。
研究施設という、この薄暗い部屋で死んで行く。
この薄暗く重い気持は、広大がずっと抱いていたそれに近いはずだ。
初めて時計が広大の家に降り立った時、彼はもうすぐ死ぬのだと言った。
(広大さん……)
時計は窓枠に頬を寄せて目を閉じる。
彼の笑顔を思い出すときだけ、時計は生きていたいと思うのである。
「さあ時計、胸の時計をとってあげたよ」
ある時、所長は珍しくにこやかにそういった。
深い眠りを伴う実験の後である。目覚めた時計は、激しい胸の痛みに気がついた。
そっと触れると、胸に頑丈な包帯が巻かれている。周囲は不思議と感覚がない。痲酔だと、所長は言う。
その白い包帯に隠された奥、そこに傷口があるのだろう。叩くと激痛が走った。
「しばらく動かない方がいい。出血も、多少あったのだから」
いつもの通り、ただの実験だと思っていた。突然の告白に、時計はぽかんと所長を見上げる。
「時計を……とったの? 胸の?」
それは一年近く、時計を苦しませていた物だった。
「……爆発は……もうしないの?」
真っ白な部屋だった。天井も床も所長のまとう手術着さえも、真っ白だ。
彼は片手でマスクを外しながら、銀皿の上に乗った何かを時計に見せつけた。
「爆発だって?」
時計は恐る恐る、それを覗き込む。時が来れば爆発するそれを、これほど安易に扱っていいものなのだろうか。
覗くと、よく磨かれた銀皿に時計の青白い顔が映った。
そして、その真ん中にあるものは。
「ぜんまい時計だって?」
所長のせせら笑う声が時計の芯を痺れさせた。
「爆発などするものか。それはお前の鼓動の早さを刻む機械。実験データを取るものだよ」
皿の上、恭しく載せられたものは、指先ほどの小さな箱である。
赤い血に塗れたそれは、何でもないただの小さなカードであった。
夜になっても痛みは胸を疼かせた。それは傷の痛みではないのかもしれない。むずがゆく、掻きむしりたいほどの痛み。
それは、怒りだった。
(騙されてた、ずっと)
所長は口の端に笑みを浮かべたまま、時計に種明かしをしたのである。
(爆発物を仕掛けたなんて嘘を言って、あたしを焦らせて)
死を思うとき、確かに時計の帰巣本能は刺激された。それはまさに本能だろう。無意識に、時計の体は古巣へと向かったのだから。
(……あの男はあたしがどこへ行くのか、分かって、あんな嘘をついて)
無知とは、害毒である。
時計は踊らされていたのである。いや、所長にしてみれば嘘ではなく、実験だと言い張るのだろう。
鳥人が人間に情愛をもてるかどうかの実験。帰巣本能を刺激させ時計と広大を出会わせ、そして。
……実験は、確かに彼の思う通りに進んだ。
(騙されてたんだ、あたしは!)
時計は窓を叩く。二度、三度。殴り付けるうちに、窓にヒビが入る。小さなヒビはやがて広がっていく。
この程度のこと、時計にとっては簡単な仕事である。これまで、やらなかっただけである。絶望は時計から、逃げ出す力さえ奪っていた。
腕も折れよと叩けば、夜の闇にガラスは破れる。腕に傷がいくつも走ったが気にもならない。
時計は飛び散った破片のひとつを手で掴む。そして、一つ深く呼吸をした。
割れた窓から、外の空気が染みこんでくる。外はすっかり冬である。白い雪がちらちらと舞っている。
広大の家も、さぞかし寒いだろう。薪のストーブは使われているのだろうか。そう考えると時計はふと微笑んだ。
そしてその微笑みが消える前に、時計は右の羽根を強く掴んだ。
左の手で握られたガラスの破片が羽根の付け根に鋭く刺さる。何故か痛みは、つゆほども感じなかった。
「何ということを……!」
音に気付いたのか、駆けつけてきた所長が見たものは、血まみれの時計だろう。
羽根を切り落とすまでは出来なかったものの、深く傷ついた羽根はもうぴくりとも動かない。
ガラスの破片を投げ捨てて、時計は笑った。
「残念ね。羽根が動かないあたしは、鳥人でも人間でももうない」
どこにそのような力が残っていたのか。笑いがこみ上げる。それは騙されていた自分自身への笑いだ。苦しみ抜いたこの一年への笑いだ。
そして、希望だ。
「だからもう、所長さん。あたしを実験になんか使えないわ、もう二度と」
血がぬるぬると背を伝わって、白い部屋を赤くする。
その中で、時計は不思議なほど清々しく笑っていた。
研究施設を出ると決めた時計は、堂々と歩いて施設の中を行く。
以前逃げ出したのは、たまたま開いていた窓の隙間から逃げ出したのだ。あの時はただ必死で、研究施設が見えなくなるまでひたすらに飛んだ。
「……帰るわ」
しかし今、時計は歩いてこの施設を抜けようとした。
呆然と時計を見つめる所長は、すっかり年老いている。見れば、ただの老人だ。
いったい、何に怯えていたのか。時計は彼の持つ銀皿を遠くへと飛ばす。からからと、それは笑うような音を立てた。
「……帰る」
この研究施設で、これまで時計が行き来したのは実験室と自室と食事の部屋だけである。
もう生きる気力もなく絶望の淵にあった時計は、この施設の様子を探るつもりもなかったし、その気力も無かった。
しかし今、所長を振り切って実験室を飛び出してみれば目に飛び込んできたのは薄汚れた機材や、蜘蛛の巣の張った、割れた壁である。
時計の行き来した部屋以外、全てが壊れていた。無人である。音も無く、気配もない。すでに死んだ空間だ。いつからこうだったのか。おそらく、時計が飛び出す前から、そうだったのだろう。
広大は言っていた。すでに世間は鳥人保護の動きにあると。それはここ数年の動きである。恐らく研究は非難の的になり、早々に閉じたのだ。
しかし、ただ一人、所長だけは残り続けた。そして時計への実験を続けていた。
回り始めたぜんまい時計のように、一度回ると止められない。そのぜんまいを止めたのは、時計自身だ。
ゆっくりと歩いても所長が追いかけてくる気配は無い。
背に緊張を保ったまま、時計は入口に向かう。
(……走るな。走るな、あたし…)
時計は深く念じて、息を整える。いまだ腹の底にある、かすかな恐怖に気付かれてはいけない。
「……ん?」
入口だけは、片付けがされていた。所長が出入りをするためだろう。その脇に小さな小部屋がある。覗けば、最低限の生活用品が揃えられているようだ。
机の上にはグラフの描かれた書類。うなり声をあげるパソコンには、画面をみっちり覆い尽くす文字、綺麗に磨かれた湯飲み。その隣に。
「写真?」
時計は手の汚れを服で拭い、それを手に取った。
古ぼけた写真である。そこに映っていたのは、幼い人間の娘だ。美しい髪を持つ彼女ははにかみながら、写真に収まっている。
「……人は、写真を残すのね」
少女の隣、これ以上無い幸せな笑みを浮かべるのは所長である。
時計はそっとその写真を返し裏を見る。そこには掠れる文字で”享年10歳”とだけ、刻まれていた。




