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過去の話・中

「まだそんな遺物をもっていたのですか。あなたは結局、権威を捨て切れていないようですね」

 数ヶ月ぶりに聞く所長の声は、恐ろしく冷たく時計の体に染み渡ってきた。

 それは悪夢の声だった。

「離せ! 離せっ」

 時計はその声を振り払うよう、叫ぶ。しかし、体はぴくりとも動かない。頭を振っても足をばたつかせても、体は所長に横抱きにされたまま、動かない。

 体に噛みついてやろうと顔をあげると、その口も掌で塞がれる。

「時計は、この家に来てから少々乱雑になったようだ。ラボに戻ったら、教育から始めなければならないようだな」

 羽根を押さえられ、腰を掴まれると鳥人は動けないのだ。

 養鶏所の鳥を掴むような気安さで、この男は時計を簡単に封じ込める。

 骨と皮しか無いような初老の男のどこに、そんな力があったのだろう。時計は彼に拘束されたまま、声までふさがれた。

(広大さん!)

 広大は腕を所長の杖で弾かれ、一度倒れた。

 倒れると起き上がるまで時間がかかる……かつて彼が語ったことだ。

 ところが今、彼は俊敏に立ち上がった。その動きは、確かに戦う男のそれだ。

「……みたかね、時計。この男は鳥人狩りだ。その武器を、その動きを見たか」

 所長は時計の耳に囁いた。

「昔の動きは本能のように、体に染みついているようだ」

(……違う)

 時計は目を見開いて、広大を見た。床に落ちた凶悪な武器もまた、見た。

 彼の腕から流れる血が痛々しい。笑みを絶やしたことのない広大の顔に、初めて鋭い怒りが浮かんでいる。

 細い眉が天を向き、薄い唇が強く結ばれ、顔は透き通るような白。さなぎのような瞳が、貫くように所長を睨み付けている。  

 今の彼は鳥人を狩るため、そこに居るのではない。

(今の広大さんは、違う……あたしを、守るために怒ってるんだ)

 広大を眺めて、所長は疲れたように笑った。

「ああ、あなたの怒る顔を初めてみました。最愛の妻をお腹の子供ごと鳥人に殺され、鳥人狩りになった若き英雄……妻を殺された時も、あなたはそんな顔をしていたのか」

 は、と時計の動きが止まった。

 広大の動きも同時に止まる。目が見えないはずの広大と時計の視線が、確かに空中で絡んだ。

「おや。時計には、隠していましたか? それは済まないことをしました。しかしいずれ分かることです。時計は賢い子だ。理解するでしょう。あなたは20年も前、妻と……子を、殺された。鳥人にね」

 先ほどまで煩いほど鳴いていた蝉の声が聞こえない。土の香りも、朝食の残り香も何も香らない。

 ただ時計の中に浮かんでいたのは、この家の奥で見つけた古ぼけた写真と桐の箪笥。そして壊されたブロンズ像だけである。

 冷たい空気の中に漂う埃の香りだけが、今はっきりと頭に浮かんだ。

「20年前、鳥人の襲来があった時。この国の一番隅の……そう、前線だ。そこにあなたはいた。私もその頃、医者として前線入りしていたのでよく覚えてます。あなたは怒りにまかせて、そこで戦った。あの血生臭い場所でね」

 所長の声が遠く聞こえる。彼は時計の束縛を緩めていた。しかし、時計は力なく、その場に座り込むことしかできない。

「あなたは10年間、見事に戦った。10年前、目を潰されるまでね。可哀想な英雄……話題性はじゅうぶんですが、もう古いんですよ。あなたのことを覚えている人などだれもいない」

「所長」

 広大は冷静さを取り戻している。静かに腕をさすり、乱れた髪を撫でる。腕の血がついたのか、頬に一筋血の跡が掠れた。

「所長、あなたも古い。鳥人はもう保護されるものとして認知されている。今更、非道な実験は世の非難をあびますよ」

「ええ、だから非道なことなどなにもしていないでしょう? 私はね、鳥人と人間が愛を持てば良いと思っています。情愛をもって、恋愛をして、結婚をする。つまりは融合する」

 所長の声は、実験中と変わらない淡々としたものだった。

 時計は手足もだらりと投げ出して、ただ床を見る。

 そこには広大の落とした巨大なナイフと、広大が割ったであろう湯飲みの欠片が見えた。

 その欠片は広大の足を傷つけたのだろう。見れば、床にも血の跡がある。

(早く……ふかないと、色が残っちゃう。洗濯も……傷の手当て……早く)

「そのためには鳥人からいかに情愛をうみだすか……これが問題です。人間が鳥人に情愛を持つのは簡単だ。しかし逆は難しい。家族の概念を、鳥人も持つことができるかどうか。時計と言う名の実験は、それをデータを刻んでいる」

「鳥人をおもちゃにするつもりか」

「いえ、実験です」

 二人の会話は時計の上を駆け抜けていく。確かに今この瞬間、時計はただの物体だった。

 広大の傷を治すことも、床を拭くことも、朝食の片付けをすることも何もできない。

 たった10数分前まではいつもの朝だった。物音を聞きつけて庭に飛び降りた。その瞬間から、全てが変わったのだ。

 湿った夏の庭で、白いスーツ姿の所長を見つけた時。その恐怖を、時計は一生忘れることができないだろう。

(……ぜんまい時計なんて、爆発してしまえばいいのに)

 所長は広大の足を杖で払う。それだけで、彼は床に沈む。病に蝕まれた彼の体は軽い。転ばされて呻く彼は、弱い。

 時計の乾いた喉は悲鳴ひとつ、上げられない。

(今すぐ、爆発してしまえば)

 ただ胸を強く掴む。いつもなら激しく脈打つぜんまい時計は、不思議なことにコトリとも音をたてない。

(やっぱり昨日、あたしは死んでおくべきだったんだ)

 命は悲しいほどに時計を生かす。何も出来ない時計は、ただ天高く叫んだ。

 一週間しか生きられない蝉の声が、それに唱和する。

 それは、海辺で覚えた鳥人の古い言葉である。

 その言葉は、切なさを帯びてまるで悲鳴のように響き渡った。

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