過去の話・上
思えばその日は、朝から妙に涼しい日であった。
夏も盛りだというのに、開いた窓から冷たい風が吹きつける。冷たく湿った空気だった。
朝食を終えて、広大はいつもの散剤を静かに攪拌していた。時計は皿を片付けをしようとしている。皿と皿がぶつかってかすかな音をたてている、穏やかな朝の時間である。
……時計がふと動きを止めた。
「広大さん、誰か来たみたい」
「チャイムが鳴ったの?」
広大は耳を澄ましたが、何も聞こえない。そもそも訪問者など滅多にない家だ。
その滅多に無い賓客の最後は、時計だった。
そんな時計がこの家に来て以来、他の生き物の訪問など一度も無かった。
「違うの。何か、庭の方で音がした……気がする」
鳥人は人間よりも耳がいい。嫌な音を聞きつけたのか、時計の声がかすかに緊張を帯びている。
広大は静かに椅子を引いて立ち上がった。
「僕の家を探りに来る人間かもしれない。昔は割といたんだ……困ったな。面倒だから、窓を閉めて籠城しようか。今日は涼しいからちょうどいいよ」
息を止めて耳を澄ましてみても、やはり音は聞こえない。木の枝が擦れ合う音だけだ。
繁る緑の中に、木の幹の向こうに、息を潜めてこちらの様子を窺う人間がいるのかもしれない……そう思うと広大の中に苦い不快感が広がった。
昔は、そういった侵入者が多かったのである。目を潰されたかつての英雄、かつての権威の生活を覗き見てやろうという、不逞の人間が。
追い払うことは簡単だ。出て行けと言えば出て行く。しかし、懲りずに何度も現れる。
「ここ最近は、全く姿を現さなかったのにな……また、僕のことがテレビか何かで取りあげられたのかも」
「もしかすると、山音ちゃんかもしれない」
しかし時計はふと、手を打ち鳴らした。
「ちょっと見てくる」
「もし見た事のない人間だったら、悲鳴のひとつもあげておいで。たぶん、向こうがビックリして逃げてくれるよ」
「悲鳴なんて上げるわけないでしょ。見た事ない人間だったら、蹴り出してくるわよ」
時計が器用に走る音が聞こえる。歩く事だけでなく、走るのも上手になった。
この分なら、本当に蹴り出すこともできそうだ。広大は小さく笑って、薬を口に運ぼうとする。
時計のリズミカルな足の音が悲鳴に変わったのは、その直後のことだった。
「広大さん!」
聞き慣れない時計の悲鳴に、広大は湯飲みを落とす。それは生ぬるい薬湯をまき散らし、激しい音を立てて割れた。
時計は再び部屋に走りこんでくる。彼女の腕が、素早く広大の腰を掴む。爪が腹に食い込む。鳥人の力は人間のそれより強い。
「早く、逃げなきゃ!」
「……っ! 時計!?」
時計の腕は広大の腰を抱えるなり、軽々と持ち上げた。
普段は押さえていたであろうその力の、全力を振り絞って時計は広大の体を抱えあげたのだ。
食い込む爪の痛みに、そして足が宙を泳ぐその感覚。
「時計!」
「逃げ……!」
時計の声は悲鳴に近い。彼女の背の羽根がばさりと音をたてた。
もう何ヶ月も動くことの無かった羽根が動いたのだ。しばらく耳にしなかった羽根の音が、広大の耳に届く。それは泣き声にも聞こえる。
凝り固まった筋肉が急に動いたことで、時計の体に激痛が走ったのだろう。小さな悲鳴をあげて、彼女は広大を掴んだままその場に崩れる。抱えられた広大もまた、ともに床に落ちる。
投げ出された広大は不安定に落下して、体は床で一度跳ねた。
しかし痛みを堪えて広大は床に手を伸ばす。そこには倒れた彼女がいるはずだった。
「時計! 大丈夫? 何が……」
が、触れたのは冷たく固い革の靴である。
「土足のまま、失礼しますよ。庭先から上がらせて頂いたので、下駄箱を見つけられませんでね」
革靴は不思議と冷たさを含んでいる。冷房のきいた車から降りたばかりなのだろう。
指が触れるだけで、きゅっと音をたてるようなその革靴を、広大は昔見た事がある。
そして、その冷たい声も。
「……所長」
「お久しぶりですね。本来ならば事前にご連絡でもするべきですが、その時間もないので失礼しました。あなたの家は電話も繋がらなければパソコンもない。アナログで困る」
男は一息で言った。まるで機械のような声である。暖かみを一切感じない声である。
愛想笑いさえ浮かべない、それは研究施設の所長の声だった。
声は多少老けたかもしれない。しかし、冷たさは10年前よりさらに悪化したものらしい。
「……ひどく急なご訪問じゃないですか、所長さん」
広大は壁に手を突き、何とか立ち上がる。
時計は素早く広大の背に隠れたようだ。その小さな体は可哀想なほどに震えている。彼女の鋭い爪が、広大の体を掴む。
鼓動の音が、背越しに伝わった。
「今更何かご用ですか。僕はもう権威じゃない。鳥人の研究もしていない。ただの死に損ないだ」
だから広大は、敢えて笑みを浮かべ手を広げてみせる。
緩やかに、笑みを浮かべたまま時計の体を押し隠す。
「研究施設の所長さんが、訪問する理由がない。今の僕は、ただの隠居の身です、さあお帰り下さい」
「ええ、あなたに用はありませんよ。預けてあったものを返して頂きたい。用事はそれだけです。用が済めば、すぐ戻ります」
しかしその初老の男は一歩も引かない。声は冷静だ。彼は広大を見てもいないのだろう。視線を感じない。
その視線は、恐らく広大の後ろに立つ少女に向けられている。
「さあ時計、おいで」
……想像よりも、優しい声である。
広大に向けては冷徹な声をだすその男が、時計にはまるで父が娘に向けるような優しい声を出す。
広大は宙に浮かべていた腕で、壁を殴った。声が、知らず荒ぶる。
「時計はあなたの物ではない!」
「いえ、私の物ですよ。あなたが卵を下さったじゃないですか」
どこかで蝉が鳴き始めた。思えば、10年前の惨劇。あの日もちょうどこんな季節であった。
目が見えなくなったその直後、響いた蝉の声は暴力的なまでに鋭く脳に突き刺さった。
「これも実験の一環でしてね」
「実験……?」
所長が初めて広大を見たようだ。目が見えなくても、その冷たい目線を感じる。
「……鳥人が人に情愛を持てるか。そしてその愛を続けるかの実験」
彼はゆっくり、そういった。
「そもそも鳥人と人間は種が違う。それに鳥人は同種族にさえ、情愛も敬愛も持たない。しかし、人の手によって育ち、その上で人間と共に暮らせば? そこに、愛は芽生えるのではないか。いや芽生えるはずだと私はそう思う」
「何を……」
「村口先生、あなただってかつては鳥人を殺していた癖に、今や興味の対象になっているではないですか」
せせら笑う声が、ゆっくりと部屋に広がって行く。
庭の蝉が大仰な音を立てて鳴き始めた。
「最初は私が仮想の親になろうと思ったのですがね、無理でした。私は鳥人以上に情が無い。実験には向かない人間だ」
彼は何かを指で弾いた。机を、リズミカルに叩いたのかもしれない。
その机の上には、時計と広大の食べた朝食の跡がある。
「そこであなたを使わせて貰った。この実験は二重の意味がある。あなたも心を病んでいらっしゃる。そんなあなたが異種の生き物に、それもかつて殺していた対象に愛を持てるか」
「あなたは……」
「結果は上々だ」
時計は震えたまま口もきかない。所長は一歩足を踏み出し、時計の腕を掴んだようだ。
時計が嫌がり暴れる。しかし彼はそれを難なく捕まえる。広大がそれを阻止する間もなく、所長の手は、時計を掴んで引きずっていた。
鳥人の動きを、彼は良くわかっている。暴れる実験動物を掴むような乱雑な所作で、彼は時計を押さえこんだのだ。
「時計はもう実験動物じゃない!」
「実験動物ですよ。この数ヶ月は臨床試験でした。試験は巧くいきました」
時計の呻くような声が聞こえ、広大の血が高ぶった。
時計の声は人のそれよりも、激しい呻きだ。鳥人の本能が吐き出す声だ。この家に来て、初めて聞く時計の鳥人としての声だった。
その声には、涙の音が滲む。
しかし所長は構わず、せせら笑うように言うのだ。
「時計は、憎いはずのあなたを好ましく思った。……ほらもう泣きそうだ。鳥人が人のために泣くなど、これまで聞いたこともない。涙はね、情愛の証ですよ」
蝉の鳴き声は煩いほど。それなのに時計の羽根が震える音がよく聞こえる。
広大はそろそろと、壁に沿って歩く。小さな棚の背面、そこに手を差し入れた。
「あなたも、時計を嫌いではないでしょう? いや、むしろ……」
「所長。あなたは僕を見くびりすぎてますよ」
古びた棚。その後ろ。壁がかすかに陥没していて、穴があるはずだ。そこは、夏でも冷たい。10年の時が止まった穴である。
広大はそこにある硬質なそれを、思いきり引き抜いた。
「……僕がもう戦えないとでも?」
手に掴んだそれは、ざらりとした感触を脳に運ぶ。冷たく固く、砂に似た乾いた感触だ。もう二度と、握ることはないと思っていた。
大きく反り返った身に、青光りのする鋭い刃。それは、鳥人を狩るため使われる得物だった。
もちろん、旧式だ。ハンターはもっと効率のいい武器を使う。新しい武器も、殺傷力のある武器も、いくらでもあるのだ。
このような旧時代の武器で戦う男は、数多い鳥人狩りの中でも、広大だけだっただろう。
だからこそ、得られた権威でもある。
そして、体はまだ戦い方を忘れていない。
……しかし。
「残念ですよ、本当にね」
「……!」
「あなたは鳥人狩りの中でも、頭の良い方だと思っていました。もっと……そう、冷静な方だとね」
10年の月日はかくも残忍である。腕に鋭い痛みが走り、掴んでいた得物は床に落ちる。床の割れる音と腕を流れる血の感触に、広大は時の流れを感じた。
「広大さん!」
時計が悲鳴を上げる。手を伸ばすが、掴んだのは空だ。
立ち上がるべく床に手を突くと、時計の羽根が指先に絡んだ。
それは床に散った羽根だ。それをかき分けるように、広大は素早く立ち上がった。




