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抱きしめる話

 海の風は想像以上に広大の体力を奪ったらしい。

 家に着くなり、体に寒気が走った。食事も忘れてまるで倒れ込むように寝床に滑り込む。

 一度、深く眠って目覚めた。まだ夜だ。再び眠った。乾きを覚えて目が覚めた。深夜だ。

 その時、静かに広大の部屋の扉が開いた。


「……時計、夜に来るなんて久しぶりだな」

 久しぶりの音である。広大は耳を澄ませて、その音を聞く。

 扉が開き、閉まる。続いて聞こえるのはかつかつと、爪が床を叩く音。歩くのも、随分上手になっていた。

 少女の気配がベッドの隣で止まる。広大はゆっくりと身を起こした。

「首を絞める?」

 冗談めかして笑って見せる。もう何ヶ月も前、時計がこの家に来たばかりのころ。彼女は深夜になるたび広大の寝室に忍び込み、首を絞めようとしたものだ。

 最近はそのようなこともなくなっていた。油断をしていただけに、久々の来訪は楽しいものだった。

「さあおいで」

 しかし今宵彼女は無言のまま、広大の手を取る。鋭い爪が広大の手首に食い込んだ。

「今度は違うわ」

 時計の声は張り詰めている。彼女は広大の手を持ち上げて、何かを握らせた。柔らかく、暖かい……脈を感じる。

「あたしを絞め殺せばいい」

 それは時計の首だった。

 見た目以上に細いそれは、軽く掴める。

 力を入れたらすぐ折れてしまいそうなほど、儚い。かつて鳥人を狩った広大の掌は頑丈にできている。何匹も、この手で鳥人の命を奪ってきたのだ。

「冗談はやめよう、時計」

 離そうとするが、時計の手がそれを許さない。自分の首を絞めさせようと、広大の腕をきつく握ったまま。

 ぐいぐいと、広大の掌を自身の首に押しつける。

「なんで君が突然、死にたがりになっているのかな」

「だって胸の時計は爆発しないし、飛べないし……広大さんは死ぬとか言い出すし、山音ちゃんは」

 暖かい感触が、広大の腕に降る。はたはたと、それは生暖かい滴である。時計の声が、喉が震えている。

 時計はしゃっくりを繰り返し、やがて手は離れた。

 まるで子供のようにしゃっくりをあげて、彼女は泣いている。

「山音ちゃんは……」

「掌で何かをするのなら……今の僕は殺すよりも抱きしめるほうがいい」

 広大は立ちすくむ彼女の背に両手を伸ばした。羽根の下から腕を入れて、背中でクロスするように抱きしめる。

 その姿勢のままベッドに倒れ込む。暖かい熱が全身を駆け抜けた。

「ほら、鳥人の体温は高いね。暖かい」

 出会った時は細かった骨も随分と成長した。薄かった体も頑丈なものになりつつある。まもなく、大人になるだろう。それは美しい鳥人になるはずだ。

 時計は長く生きなければならない子である。

「……なんで」

 時計は困惑したように呟き、そしてまた泣き声になる。

「どうしよう。ぜんまい時計が早いの」

 服越しに分かるほどに時計の鼓動は早い。体全てが脈打つ。それは時計の刻むリズムに似ている。埋め込まれたぜんまい時計が動き始めたのかもしれない。

 時計は広大の体から逃れようともがく。しかし弱い力だ。

 髪を振り乱して暴れていた時計だが、やがて力尽きたように広大の体の上で動きを止める。

「爆発……するかも、死んでしまうかも知れない」

「今爆発すれば、一緒に死ねるじゃないか」

 耳を澄ませば、その音がいやに耳についた。このような音が支配する中、時計はその恐怖と戦ってきたのだろう。

「……それはきっと、僕も本望だ」

 広大は時計を抱きしめたまま。柔らかい羽根も、暖かい体温も、全て広大に溶け込んでくる。

 夜はどんどんと深まって、闇は一番濃い頃だ。しかし後数時間もすれば、東から朝が来る。

「……」

 時計はまるで歌うように、何かの言葉を囁いた。古い言葉のようである。

 それは何の言葉かと、尋ねるより前に彼女は小さな寝息を立て始めた。

 眠る時計は広大の胸の上。広大は彼女の背に腕を回してしっかと抱きしめている。

 まるで地獄へ落ちまいと、少女にすがりついているようにも見える。飛べない彼女にすがりついても、結局落ちるしか道はないのだが。

 

 例え行き先が地獄であろうと今、このまま死ねるのならば幸せなことに違い無い。

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