二枚貝の話
夕陽は最後の一筋の光だけを残して、ほとんどが沈んでしまった。
天上の高いところから夜がくる。広大は紺色に変わった空をぼんやり見上げていた。そんな彼の側に、そっと時計は近づいた。
「何か見えるの、広大さん」
「匂いがするよ、夜のね。夕暮れと夜では香りが違う」
広大は砂の上に座ったまま、ずっと空ばかり見上げていたようだ。見えない目で見る空は、どんな風に見えるのだろう。と、時計は思った。
「それ、なに?」
そんな広大は先ほどから右手で何やら小さなものを弄んでいる。覗き込むと、それは七色に輝く美しい石だった。
「……綺麗」
「マスターがくれたんだ。とても貴重な石だよ」
受け取った時計は、それを指の先でつまむ。そして落とさないよう気をつけて、高く掲げる。
最後の一筋、輝く西日を吸い込んだそれは複雑な色を持っていた。
形は歪んだ楕円。まるで渦巻くように模様が描かれている。光を閉じ込めたような石だった。
時計のため息を聞きつけたのか、広大が楽しげに笑う。
「それはね、元は二枚貝だよ」
「これが、貝?」
時計は目をこらして石を覗き込む。やはりそれはただ美しい石にしか見えない。
「生き物だけど、時々こうして石になる」
最近はやはり体調がいいのだ。そんな些細なことに時計は安堵した。
広大は時計から石を受け取ると、表面を優しく撫でた。熱が加わって、光が柔らかくなったように見える。
「オパールといってね、まあ石自体はさほど珍しくないんだけど、これはとても珍しい。貝の中にオパールの成分を持つ地下水が染みこんで出来たんだ。何年も、何十年もかけて」
広大が石の表面を叩いた。かつかつと、それは音を立てる。
「こうして宝石になる貝が時折、ある」
「……生きているの?」
「もう死んでるよ」
時計は広大に寄り添ったまま、死んだ石を見る。
「生きたまま宝石になるなんて、どんな気分なんだろう」
それは長時間かけて行われる命の変化なのだろう。自分が別のものになるなど知らないまま、貝は死んで行く。
「生きたまま、別の生き物になるなんて」
じわりと、時計の羽根が痛んだ。まだ動かないその羽根はもう死んでいるのかもしれない。死んで、何か別の生き物に変わろうとしているのかもしれない。
鳥人でなくなった時計は、人間になるのか。
(……人間になれば? なるわけがない)
どちらともつかない、奇妙な生き物になるだけだ。
熱せられた砂を掴み、時計は吐きそうだ。と思った。
「そろそろ、帰る時間だね。時計。海はどうだった?」
広大は穏やかに潮風に吹かれている。時計は思わず、彼の袖を掴んでいた。
「……ねえ広大さん。鳥人は人間の子供を宿せるの?」
声は波の音よりも小さい。しかし広大には聞こえたはずだ。
彼は動きを止めて、口を固く閉じる。馬鹿な質問をしたと、時計は唇を噛みしめる。汗がじわりと、こめかみに浮かび体に熱が籠もる。
広大は一瞬考えこむように動きを止めたあと、学者然として答えた。
「難しいだろうね。と、言いたいところだけど言い切ることはできない。まだ君たち鳥人の研究は進んでないからね。でも一つだけ言えるのは、君たちは卵生であり、人間は違う」
広大は言葉を選んでいるようだ。珍しく、回りくどい。
遠くでマスターの声が聞こえる。もう帰ろう、とマスターが太い腕を振っている。その隣、幸せそうに立つ青い羽根の少女を時計は直視できずにいた。
「……つまり、人は卵で生まれることはできない。卵生哺乳類が無いというわけではないけれど……」
「もし宿せたらどうなるの」
「無精卵として卵を産み落とすことはできるかもしれない。多分中身は」
「聞きたくない」
「……そうだね」
広大が立ち上がった。まるで目が見えているかのように彼は姿勢良く立ち上がる。そして時計の掌に、オパールを落とした。
「時計、これは君にあげる」
「え」
「ずっと考えていたんだ。僕は君に何を残してあげられるか」
握り続けていたオパールは、かすかに熱を持っている。時計はそれを強く握りこむ。
広大は潮風で乾いた唇を微笑みの形に変えた。
「どうせ僕はまもなく死んでしまうから、何か君に残してあげたかった……といっても、鳥人には分からない感情かもしれないね。ただの人間のわがままだよ」
時計の背に嫌な汗が流れ、ざわざわと胸騒ぎが喧しい。
そんな時計の心情にも気付かず、広大はやはり笑うのである。
「さあ帰ろう、時計」
砂浜を並んで歩く。振り返れば、白い砂浜に二つの足跡が残っていた。人間の足と鳥人の足跡。
似て異なる二つの足跡は、やがて海風に吹かれて崩れ去っていった。




