海の話
海へ行こう。と、誘いを受けたのは梅雨も明けた頃の話である。
「時計ちゃんが海を見たことがないって聞いたからね」
大きな車を運転して、喫茶店のマスターが大声で笑う。
助手席には広大、後ろの席には時計と山音だ。後ろが大きく開いているので、そこに向かって羽根を広げるんだよ、と山音は優しくそう言った。
こうすれば羽根がラクチンでしょう。と、山音は相変わらず可愛らしい笑顔で時計に向かってウインクする。
「すみません、連れていって貰うことになって」
「何言ってるんですか先生。どうせ喫茶店は休みだし、山音と二人で出かけるよりもみんなで行った方が楽しいでしょう。先生もここ数日体調がいいみたいだし」
運転をしながら、マスターは器用に広大へ話しかけていた。確かにここ数日、広大の調子はよくなっている。
顔色も落ち着き、食欲も出た。それでも遠出は……と渋る時計を説得したのも広大である。
「家に居たって病気が良くなるわけじゃ無い。気晴らしになりますよ、海を見るのも」
「……海か」
時計は羽根を座席の上に乗せたまま、窓の外をちらりと見る。恐ろしいほどのスピードで車は真っ直ぐ進んでいた。
他の車はない。アスファルトが日差しを受けて暑そうに輝いている。そんな道の上を車は走る。
まるで低空を速度を上げ飛んでいるような、気妙な感覚である。時折上下にガタガタと揺れる感覚も面白い。
羽根も動いていないのに、まるで飛んでいるようなのだ。
「擬似飛行っぽいでしょう?」
と、山音がそっと耳打ちした。
「だから私、車が大好きなの。電車も面白いけど」
「車、初めて乗ったわ」
今日の山音は清楚な青のワンピースを身に纏い、大きなツバの麦わら帽子を抱えていた。
白い鞄と白い靴。非常に愛らしい笑みで笑う彼女を、時計はぼんやりと眺める。
「山音ちゃんは海には?」
「ええ、去年も。とても綺麗なの。鳥人はあまり海の上を飛ばないから。まるで、空みたいで。海って」
飛び方を忘れた山音の肌は抜けるように白い。その腕を車の窓にぺたりと貼り付けて、やがて弾けるようにいった。
「ほら、時計さん、海!」
彼女が指さす方角に、真っ青な輝きが見える。
窓を薄く開けると、これまで嗅いだことのない不思議な匂いが鼻に飛び込んできた。
「さあ、出ておいで時計ちゃん」
マスターと山音に促されて、時計は恐る恐る車の外に出る。
途端、体に強い日差しと温い風が吹き付けた。それはじっとりとした重さを含む風である。生臭いような、懐かしいような、そんな香りである。
「潮風と言うんだよ」
マスターが指さす方向に見えるのは、真っ青な。ただどこまでも青い水の塊である。
川や湖とは違う。どこまでも広い。一番奥は、丸みを帯びて空の青と混じり合う。
空には巨大な白い入道雲。その真下を、水の塊がゆうゆうと揺れているのだ。海は時折蠢き、白い波を立てることがある。
そのたびに、ざあざあと雨のような音がした。
「……すごい」
車を止めた場所から数歩、吸い寄せられるように進むと足が柔らかい砂を踏んだ。
「熱!」
砂は熱湯のように指と指の間にまで滑り込んでくる。鳥人の足は人間のそれより厚くできているが、想像も出来ない熱さに時計はその場でステップを踏む。
「やだ、熱い! 痛い!」
「時計さん!」
山音が慌ててその肩を支えた。
「時計さん。これを履いて。普通の地面より、砂はとても熱いの」
山音が差し出したのは、先が切られた白い靴だ。山音の履いているものと同じである。そっと足を差し込めば、爪の先だけが外に出て、足の裏はすっぽりと覆われる。
「わ、便利。山音ちゃんが?」
「うん。外を歩くとき、靴があった方が便利だから」
白い靴は大人びて、美しい。それを履いている自分の足を見下ろして、時計はこそばゆい気持に襲われる。
その気持を押し隠し、海へと近づけば目の前が青一色となった。
青だけでは無い。空も熱を帯びている。太陽の光がまっすぐに降り注ぎ、当たりは一面黄色味を帯びているのだ。
黄色と空の青と海の青と、混じり合ったそれは何とも言えない色だった。
「時計、海はどんな感じ?」
気がつけば広大が隣に立っている。強い日差しの下で見る広大は、やはり色白で不健康だった。
しかしいつもより気分がいいのか、彼は大きく深呼吸を繰り返している。
「潮風なんて久しぶりだ。うちから海は遠いからね」
「なんだ広大さん、見た事あるんじゃない。じゃあ海がどんなものかも知ってるくせに」
「……海がどんな風なのか、言葉で伝えて」
広大は囁く。
「時計の言葉で」
「……巧く言えないわよ。だって初めてみるんだもの」
「初めて見た人の言葉で聞いてみたい」
時計は周囲を見る。まだ時期に早いのか、人影はまばらだ。山音はマスターの腕に手を絡めて、何やら楽しげに微笑んでいる。
時計は半歩だけ、広大に近づいた。剥き出しの腕と腕が、触れ合う。
「……青くてとても広い……空がそのまま流し込まれたみたいで」
海はただ広い。青の合間に浮かぶ白の波が雲のようだった。空が飛べなくても、海で泳ぐことができれば擬似飛行を味わうことができるのではないか。
時計はこの美しい海で泳ぐ幻を見た。
「そして丸い。まるで大きな卵みたい。青い卵みたいな……」
「君の言葉は詩のようだ」
ふ、と広大が言葉を切る。そして戸惑う時計に向けて肩をすくめてみせた。
「っていう小説が、あったんだ」
「……」
「今度貸してあげるよ」
馬鹿。と時計は小さく呟いた。恐る恐る、爪で広大の服の端を掴む。広大の言う今度、が本当に来るのか。急に不安に襲われたのである。
海の青は相変わらず美しく、太陽は熱く鋭い。無言の二人の間に、ただ波の音だけが響いていた。
何をするわけでもなく一日が過ぎた。
時計は熱い砂浜の上に腰を下ろしてぼんやりと海を眺めているだけだったし、広大も日陰でマスターと何やら真剣に話をしているだけだ。
山音だけが忙しげに弁当だの冷えた紅茶だのを用意して、時折楽しげな笑い声をあげていた。
……そんな一日が終わる頃、西の方角からオレンジ色が広がって行く。
日が沈むのだ。夕暮れは家で見るよりもダイナミックだ。黄色だった太陽が、巨大なオレンジの塊となってぬるぬる海の向こうへ沈んで行く。
先ほどまで青かった海も空も、ただオレンジの一色となる。
そして、天は紺の色に変わっていく。
郷愁の色だ。と、時計はぼんやり思った。
「時計さん、もう夕暮れね。そろそろ帰る支度をしないと」
声をかけてきたのは山音だ。彼女はちょこんと腰を下ろして、時計の顔を覗き込んだ。
「ああ、時計さん。お肌が焼けちゃってる。痛そう」
一日中、砂浜に座り込んでいた時計の皮膚はうっすら赤くなっていた。それを撫でる山音の掌は白い。
そして想像以上に、柔らかだった。
鳥人は同族同士の情愛が薄い。ましてや同性で、触れ合うことなど滅多に無い。
初めてこのような触れられ方をした時計は、戸惑いながら彼女の指をそっと握る。
「山音ちゃん、ごめんね。一緒に飛ぼうって言ったのに、あたしまで飛べなくなっちゃった」
夕陽を浴びた山音の顔は穏やかである。背の青い羽根が潮風を浴びて緩やかに揺れていた。
「……今度一緒に飛ぶ練習をしようね」
「あのね」
山音は周囲を気にするように、時計の耳に唇を近づけて囁いた。
「私、子供がいるの」
恥じらいを含む、優しい声である。驚いて顔を見ると、彼女の顔は赤い。夕陽のせいか、それとも照れているのか。
「え?」
誰の子供かなど問うまでもないだろう。木陰で寛ぐマスターを、時計は横目に見る。恐ろしげにも見えるが、実際は優しげな男である。
視線に気付いたのか、時計たちに大きく手を振っている。
時計は山音の顔とマスターの顔を交互に見た。
「山音ちゃん、それって」
「ずっと欲しかったの。何度も無理だったけど、今、やっと、いるみたいなの」
彼女は母の手つきで、腹をなでる。薄い腹だ。まだ幼い、体だ。
だから飛ぶのはしばらくお預け。と山音は悪戯っ子のような顔で微笑む。
いつかの喫茶店で、山音が小さな声で子守歌をうたっていた。その拙い歌声が、時計の中で響き渡る。
時計は思わず山音の肩を強く抱きしめていた。
「時計さん?」
「……山音ちゃんは幸せなのね」
「ええ、とても」
柔らかい声である。色々な葛藤も、鳥人としての苦しみも人間との違いも全てを受け入れて飲み込んだ上で放つ声である。
「……」
山音は時計の耳元に、ある言葉を吹き込んだ。
それは人の言葉では無い。鳥人の言葉だ。時計は鳥人の言葉を学んでいないが、体の奥にある何かがその言葉に反応した。
「……?」
時計の口から飛び出してきたのも、同じ言葉である。初めて口にする鳥人の言語はたどたどしい。しかし言葉が口を突いて出た。それは本能から出た言葉だろう。
「……山音ちゃんは、マスターを……なの?」
「……うん、私はマスターを……」
気がつけば山音もまた時計を抱きしめていた。触れ合うところから鳥人の言葉が湧き出る。
それは心音に良く似ている。遙か古代より鳥人の皮膚に、骨にまで染みこんでいた言葉だ。
山音の体内から響く心音と彼女の声が混じり合う。それはいつまでもいつまでも、時計の中に鳴り響いていた。




