踊る話
空気に湿度が混じりはじめ、庭から漂う香りが濃くなっていく。広大は世間に梅雨が訪れたことを知った。
雨が降り止むと、決まって庭から音が聞こえる。
そんな時広大は、たとえ具合が悪くても庭へ降りることに決めていた。
「やっぱり。時計が歩いたんだなって思った」
庭の土も水に濡れている。構わず素足で降りると時計の腕がそれを支えた。
飛べなくなってもう幾日。気がつけば彼女は随分歩くのが上手になっている。
「なんで?」
「君が歩くとざくざくと、音がするだろう?」
広大はその場にしゃがみこむ。指で大地をなぞると、所々に穴が開いている。
「……手で地面に触ると、穴が開いてる。海にね、こういう穴が開くことがあるんだ」
小さな穴が転々と続いていた。それは、時計の足の爪が開けた穴である。それは美しいまでの規則性を持って、まっすぐに進んでいる。
彼女は歩いて庭の奥を覗き、そして戻ってきたものらしい。
「こういう穴は貝やカニの住みかでね」
「海?」
「見たことない?」
時計は言葉に詰まる。彼女は自分の”知らない”ことを極端に嫌がる。それは自尊心の高さでは無く恐怖感からだろうと広大は思う。
非常に、原始的な心の揺らめきである。
「時計は森で踊るんだね」
足跡を半腰のまま追って行けば、やがてむちゃくちゃに乱れた場所に辿り着く。それはまるでステップを踏んだような跡である。
鳥人は踊りの巧い種族である。
彼らは美しい羽根を空に思いきり広げて、空中を華麗に舞う。
長い手足を自由に伸ばして、羽根を羽ばたかせて、踊る様は美しい。鳥人狩りが目的を忘れて見ほれる事もあるほどに、美しい。
しかしいかなる時に踊るのか、広大は知らない。求愛の時期とも言われているが、生殖に適さない幼い鳥人が踊った記録もある。つまり、まだ明確な答えは出ていないのだ。
鳥人は踊る。それだけは確かな事だ。
「研究するの?」
またそればかり、と時計がため息をつく。
「研究は楽しいよ」
驚きと楽しみと、少しの苦痛の連続だ。
広大は時計の足跡を追うのを止めて立ち上がる。指先から大地が香る。
「時計は僕をまだ恨んでいる?」
「……それも研究?」
時計の進もうとしていた先は庭の奥である。その奥に何があるのか広大は知らない。そして知らないことに恐怖など抱かない。抱かないように、自分をコントロールできる。それが人間だった。
「研究じゃ無いよ。素直に、聞いてるだけ」
立ち上がると、ひやり涼しい風が伝わってくる。冷たいが湿度のある風だ。
「もう、なんだかよく分からなくなったの」
「鳥人は恨みを骨身に滲ませない」
「研究の結果?」
「僕のよく知る人がそう言ったんだ」
鳥人は情愛が薄い。家族愛さえ薄い。そして同時に、恨みや怒りを引きずらない。
彼らが鳥人狩りに抵抗するのは、あくまでも対決の場だけである。たとえ次の日に同じ個体に出会っても、攻撃を加えない限り彼らは反撃をしない。
「時計の気持ちは?」
「え」
「人の意見ではなく君の意見は?」
「……もう飛べなくなって鳥でもなくて人でもないから」
時計の言葉は鈍い。一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。その不自然な沈黙に耐えかねて、広大が口を開く。
「ご飯にしようか……あまり食欲はないけどね」
体力は確実にすり減っていた。庭に降りて歩くだけで目眩がする。しかしその体をしっかりと立て直せば、時計が背を押した。
初めて出会ったときからは想像もできない優しい手だった。
「あたし、もう少し歩くから、広大さんは横になってて」
「どこか……外まで、歩きにいく?」
「鳥でも人でもまずは巣で訓練をつむものだわ」
「ああそうか」
汚れた足のまま、廊下に上がる。それだけで息が上がった。鼓動が一瞬止まり、痛みが体を貫く。しかし何も無いような顔をして、広大は体を持ち直す。
「……ここは君の巣だったね」
十数年、変わらぬ空気を持つ家である。広大はその古巣の空気を胸一杯に吸い込んで廊下を歩き始めた。
心音は、不定期だ。
(まるで僕までぜんまい時計の爆発物を仕掛けられたような……いや、違う)
時の止まったこの家自体が、ぜんまい時計で動いているのかもしれない。
それは時計が訪れた瞬間に巻かれて動き始めたのだ。そして、いつか必ず止まる。
広大は時計に見えないように胸を押さえ、うずくまった。
……家の奥から、ぜんまい時計の刻む音が聞こえてくるようである。




