本を読む話
雨が続き、背中の羽根もじっとりと重い。
そんな時、時計は家の中を探検することにしていた。
「時計が静かだと思ったら」
広大の静かな足取りが近づき、時計ははっと顔を上げる。
それは家の一角。1階の東の片隅にある、小さな部屋だ。
中には天井から床までうずたかく本が積み上がっている。ここは図書館だ。と広大は言った。
それが本というものであり、色々な物語を、有益な事柄を描いている……と教えられるまで、時計にとってのそれはただの紙くずだった。
広大にはもう読むこともできなくなったであろう、本の塊だ。
赤い表紙に青の表紙、絵の描かれたものに箱に入ったもの、本はひとつとして同じものがない。
10年前から、恐らく同じ場所に置かれているのだろう。2階でおきた惨劇も、本は聞いていたはずだ。
無言のままそこにある本が恐ろしい。時計は最初、図書館を嫌った。
しかし一歩、また一歩と近づくたびに恐怖感は薄れる。やがて一冊の本を抜き取った瞬間、恐怖は消えた。
10年止まっていた時を、時計が動かしたのだ。
「本、借りてるからね」
天井まで埋まる一冊を、時計は引き抜いては開く。
とはいえ、文字はあまり読めないので、できるだけ絵が入っているものを選ぶ。
そんな風に気紛れに読むうちに、気がつけば時計の周囲には本ばかりが積み上がっていた。
珍しく顔色のいい広大が時計の隣に座り、本の表面をなぞる。
それに触れたところで広大には見えないはずだ。しかし、分かったような顔をして彼は頷いた。
「本の内容、わかる?」
「最初は分らなかったけど、ずっと見ていたらわかる気がして」
地図らしい物、人体を描いたもの、文字ばかりが刻まれたもの、同じ本といっても色々な種類がある。
ただの記号にしか見えなかったそれも、一日見つめていると多少なりとも理解できるようになっていた。
文字はただの記号ではない。一つの形となって時計の前で再構築される。
「それを続けてると本当にわかった気がする。まだ本当に簡単なものしか読んでないけど」
「それだけの哲学を君は、どこで積んできたのかな」
広大は嬉しそうに時計の羽根を撫でる。その手はやせ細っている。
「広大さん、体調悪いなら寝てたらいいのに」
「時計が珍しく勉強熱心だからお付き合いしようと思ってね。何の本が読みたいの? 言ってくれたら、大体の場所なら分かるよ。今でもまだ、分類した場所は覚えてるから」
「その情報は古いわよ。あたしがあちこちに本を移動したから。多分めちゃくちゃになってると思うわ」
時計はだらしなく寝転がり分厚い本をめくる。それには人体が描かれていた。両手を広げた人間の体に、細かな線と円が描かれている。
別のページには、跪いて手を合わせる人間の姿もあった。その人間の前に描かれているのは、鳥人によくにた生き物である。
幾度も出て来たので時計はその生き物の名前を知った。天使と言うのである。
そして人間は天使に祈りを捧げているのである。
天使の上には神がいて、人は神に祈るのである。
鳥人とは似て異なる存在だった。
「……広大さん、神に祈るってどういうこと?」
「祈りたいことがあるの?」
「べつに、そういうのじゃないけど。ほら、本に」
時計は本をとん、と叩く。
「人間ってとっても無駄なことをするなって」
「不安があるとき、人は祈るんだよ。全員が全員、そうではないけれど」
「ふうん、わかんない。鳥人はそんなことしない」
鳥人は、不安に苛まれると踊るのである。晴れ上がった空の真ん中で、美しく舞うのである。
踊り、不安を体から追い出すのである。
(それは、本能による衝動だわ)
時計は読んだ本にあった一文を思い浮かべる。正確な意味は分からないものの、今の気持ちに一番合う言葉であった。
時計は湿気臭い床に寝転んだまま、ページをめくる。
最近時計は、埃を気にしないようになっていた。掃除をしたところで、埃を根絶させるのは無理だったのだ。
「ね、広大さん。病気とか薬に関する本ってあるの?」
「あるけど時計には難しいと思うよ」
ところで。と、広大はまた話題を替える。最近、病気や薬の話題になると、広大は意識的に話題を替えようとする。
「ずっと聞こうと思ってたんだけど」
……外はまた雨のようだ。
ぱたぱたと、降る雨が窓から見える。
庭の緑はますます美しい。
「君は最初に出会った時から僕に敬称を付けたね。広大さん、と」
時計は足を揃えて体を起こす。羽根は動かないままで、最近では邪魔に感じることさえあった。
「憎い仇の筈なのになぜそんな呼び方なのかなって、ずっと気になってた」
「人間は、相手の名を呼ぶときに必ず敬称を付けるものだ……って」
時計にそれを教えたのは研究施設の所長だった。
だからこそ、初めて出会う仇の広大に対して自然に敬称を付けたのだ。
「でも僕は時計、と呼び捨てだよ」
「だから凄く腹が立ったわ。なんて失礼な男だろうって」
憎しみは倍にもなった。しかし今、その憎しみは不思議なほどに萎んで、時計のどこかに隠れてしまった。
「殺されるかなって思ったのに、名前を呼ばれて君に対する警戒心が解かれたんだ。いきなり、さんを付けて呼ばれたのだから、和んでしまってね」
広大はそう言って苦笑する。
この家に辿り着いたのは、まだ冷える季節だった。時計はこの庭に降り立ったのだ。腹を空かせ、怒りだけを原動力に空を飛んで。
広大を殺してこの巣を取り返そうと、それだけを考えていた。
それほど時は経っていないというのに、今の時計は憎い仇と食事をして共に暮らしている。
……鋭い爪は広大を貫くことなく、怖々と本などをめくっているのだ。
「別に、癖で呼んじゃっただけ。和ませるためじゃないわ。……それに誰が殺さないっていった? まだ気を緩めないで欲しいものだわ」
時計は指をつい、と伸ばす。よく尖った爪で、広大の心臓のあたりを突く。
服越しにも分かるほど、その体は薄くなっていた。




