薬の話
薄い紙に包まれたその薬に鼻を近づければ、甘い香りがする。
それはいかにも人工的な、甘い香りである。
「広大さん、薬?」
「うん。そうだね」
今朝は夜明け前から雨だった。
最近は雨の頻度が増えてきた。初夏特有の不安定な天候だ。このまま、梅雨に入るのだろう。
その湿度と雨音を肌で感じながら、広大はいつも通りの朝食をすませて薬に手を伸ばしたのだ。
専用の箱を手探りで開ければ、独特の甘さが広がる。
「どれだけあるの、それは」
「さあ……たくさん、かな」
時計は箱を覗き込んだのだろう。巨大なその薬箱には、ぎっしりと散剤が詰まっている。
箱にもすっかり薬の匂いが染みついて、目の見えない広大でもすぐに場所が分かるほどだ。
かつて、医者である友人から貰った薬である。通院を拒否した広大に、友は無言でこの箱を渡した。
広大は一日一度、その箱を開けて散剤を取り出す。
淹れたばかりの茶の中にそれをゆっくり注ぎ込み、スプーンで混ぜる。一度、二度。混ぜれば混ぜるほど、それは甘い香りとなった。
温くなるまで待って、それをゆっくりと飲む……ここまでが、広大の朝の儀式である。
「ねえ広大さん」
……いつもなら、広大が薬を飲むより先に時計は席を立つ。しかし不思議な事に、今朝に限って彼女はそこにいた。
「広大さんの病気ってなんなの?」
「死に至る病」
「そんなのじゃ分からない。風邪とか、色々あるんでしょう。人には。まあ……鳥人にもあるんだろうけど」
甘い薬は飲み続けると、不思議な事に最後に苦みが残る。それを誤魔化すため、広大は何杯かの茶を飲むことにしていた。
喉の奥にある違和感が消えるまで、最低でも3杯は必要だ。
「鳥人はほとんど病気をしないよ。時計だって長く放浪生活をしてたらしいけど、病気になんてならなかっただろう?」
ゆっくりと茶を湯飲みに注いで、口に運ぶ。出がらしも出し尽くしたそれは、白湯に近い。
「鳥人は頑丈にできてるからね」
「今はそんなことを聞きたいわけじゃない」
声に苛立ちが見える。飛べなくなった彼女は最近、やけに物を知りたがる。
以前なら、広大の私生活に一歩も踏み込んで来なかった彼女である。
心境の変化か、または鳥人にはあり得ない情でも芽生えたのか。
(……こんな時でもほら、僕は研究をしようとしている)
広大は苦笑して、時計の隣に立つ。
いまだ動かないという羽根は、椅子の上に引っかけられている。
ここ数日、彼女は椅子に座るのが随分上手になった。羽根を椅子に引っかけて、器用に座るのだ。
「死に至る病とは、絶望だ。時計」
「……絶望で人間って死ぬの?」
時計は慎重に呟く。その耳元に、広大は冗談めかして吹き込んだ。
「と、いうタイトルの本があってね。キェルケゴールの書いた哲学書だよ」
それを聞いた瞬間、時計の肩が震える。怒りか、恥じらいか。そして彼女の足が広大の足を踏んだ。
「馬鹿! 心配してあげてるのに、なんなのその態度は」
「ごめんね時計。少し眠っていいかな」
そして広大は彼女から静かに離れる。少し歩くと目眩が体を襲った。
深く息をすると頭が揺れる。ここ数日、食欲が極端に落ちたせいだろう。
どこも痛まない。苦しくもない。ただ、倦怠感が酷く、心音が煩い。
「……こんな時間に?」
「体調が悪いとね、人間は寝るんだよ……人間は頑丈に出来てないからね、特に僕は……最初に言ったと思うけど」
時計が手を下さずとも広大は死ぬ。最初に出会った時、広大は彼女に語ったのだ。
病によって、広大は死に至る。それは時計も知っていることで、彼女は口を閉ざした。
「その前に殺すって、もう言わないんだね」
「……おやすみなさい、広大さん」
時計は広大の言葉を無視して、庭へと駆け出したようだ。雨の音は激しいというのに、頑丈な彼女はすぐに庭へ降りる。
広大といえば、壁に手をつきつつ静かに寝室へ向かう。一歩、歩くと心音が鳴く。
その音は、家の中から響いているように広大は感じられるのだ。
振り返ってもそこは闇。時計の気配は遠い。
数ヶ月前ならば当然のことだった。この家は広大一人きりのものであり、顔を上げても闇しか見えない。
そんな日々を10年、送った。だと言うのに今更。
(……生きたいと思うなんて)
広大は心音を整えるように、静かに静かに息を吐き出した。




