お帰り時計
背に羽根を持たず、爪を持たず、まともに戦うことさえ知らない。
愚かで鈍く、ただ地上を這いずり回ることしか知らない。
そんな生き物を鳥人は人間と呼んだ。
時計は拳を強く握ったまま、目前に座る男を見つめていた。
広大という、この男の目は堅く閉じられている。いや、その目は溶接されているようだ。両の瞳はプクリと腫れあがり、目尻にまで深い傷が伸びている。
「あんたの目、まるでサナギみたいね」
「そう言った人が君以外にもう一人いたよ」
広大は軽い調子で笑い、そして時計の前へと茶を差し出す。
目が見えないくせに、彼の所作は完璧であった。椅子を引いて時計を座らせ茶を煮立てることまで詰まることなくやってのける。
その傷はフェイクなのではないか。と、時計は広大の目の前で舌を出してみる。が、反応は無い。
……やはり見えてはいないのだろう。
時計はカップには手も触れず、目の前の広大を睨み続けている。
敵意というものは波動となって伝わるのだという。それならば、この睨みも無駄にはなるまい。
「でも良い気味だわ。その傷、あたしのママかパパがやったんでしょう」
「うん……雌だったから、ママかな」
広大は悪びれもせず答え、茶をすすった。時計は思いきり舌を出して、そして背中の羽根を上下に動かしてみせる。
その風で、床の表面が払われる。
その風で、部屋の隅に積み上げられている古本がパラパラと乾いた音を立てた。
「あたしのママのこと、雌なんて汚い言い方しないで」
「……ところで、君は僕に恨みを言いに来たのかな。いまさら」
「いまさら?」
時計はキッと瞳を見開いて、広大に向かって茶を投げつける。熱くはないのか、彼は困ったように濡れた手を振ってみせただけである。
端正な顔の男だ。年齢は三十代だと時計は聞いているが、もう少し若くも見えた。
目が潰れてさえいなければ優しげな面立ちだろう。
しかし、この男が鬼であることを、時計は知っていた。
「両親を殺した上にあたしを研究施設に送っておいて、よくそんな口叩けるものね」
「だって君は害鳥だもの」
広大は濡れた手を舐めた。ああ、喉が乾いた。と、歌うようにいって彼は飲みさしの茶を一気にあおった。
何か薬効成分でも入っているのか、それは甘く苦い香りがする。
「いや、今の言い方は失礼だったね。訂正しよう。正確には君たちの種族が害鳥だ。僕は害鳥狩りのエキスパートだよ。そんな僕の家に君の両親は巣を作った。それはね、狩るでしょう」
広大の言い様は冷静だ。静かな口調で彼は上を指す。古ぼけた家である。その天井に黒い染みが見えた。
「あの天井の上に君のご両親は巣を作ったんだよ。そしてまだ卵だった君を暖めてた。だから、狩ったんだ」
時計は羽根を動かし、そして止める。恐怖で足元が急に震え始めたのだ。
彼が言うことが本当ならば、天井の染みは父か母かいずれかの血なのだろう。
その染みはいかにも古ぼけていて、範囲が広い。黒くそまったそれから、顔も知らない両親の悲鳴が聞こえてきそうである。
時計は奥歯を噛みしめて、その染みからゆっくりと視線を反らした。
窓から風が吹き込んで、広大の髪がふわりと揺れる。穏やかな、恐ろしいほど日常の空気である。
血の染みた天井の下、この男は日常を送ってきたのだ。そう考えると、恐ろしい。
「が……害鳥とか……信じられない。ただの殺し屋じゃない」
震える時計に気付かないわけがないというのに、広大は顔色一つかえなかった。
風がきついねと世間話のように笑った後、彼はふいに真面目な顔をする。
「鳥はね、良鳥と害鳥がいるんだ。良い声で鳴いたり環境をよくするのは良鳥で、糞害や人に害を与える鳥は害鳥だ。中でも君たち鳥人は、人を食べるじゃないか。害鳥以外、なにものでもない」
広大は淡々と呟く。その声を聞いて背が痛んだ。
時計は両親を知らない。目前の男が害したからである。
時計は一般に、鳥人と呼ばれる存在だった。背に羽根を持ち、指に長い爪を持つ。
人間と似ているが、異なる。
確かに広大が言うとおり時に人を食うが、常食するわけではない。だいたいは雑食だ。
街に出て、残飯を漁るものもいるし、山の中で果物や野菜をとって食うものもいる。
人ばかりを好んで食うわけではない。それどころか、人を狙えば反撃の恐れもある。それを学んだ鳥人は、いつの頃からか人を避けて暮らすようになっていた。
「まあ害鳥というのは人間の勝手な言い分かもしれない。鳥人は見た目は人と同じであり、人語を解す」
だからこそ、人間に嫌われていつか狩られるようになった、と広大は冷徹な声で呟く。
「人を食べるから、というのは人間の勝手な言い訳かもしれない」
遥か昔は、人と鳥人が共に暮らすこともあったと聞く。
そんなおとぎ話のような時期はとうに過ぎ去り、やがて鳥人狩られ殺される運命となった。
鳥人を狩る人間は、害鳥狩りと呼ばれ、もてはやされる。しかし彼らも鳥人の抵抗にあって殺されることもあった。
戦いに生き残ったものは英雄であり、権威だ。
つまり、目の前に座る広大は鳥人狩りのかつてのエキスパートであった。
彼は時計の母と壮絶な戦いをした。
その結果、広大は目を潰され鳥狩りの資格を失ったのである。
それは、10年前のことだと時計は聞き及んでいる。
「君はまだ卵だったからね。潰すのは可哀想かなってちょっと思った。そしたら知りあいの鳥人研究施設が卵を欲しいっていうから、あげたんだ」
広大は天真爛漫に微笑む。笑うと、彼の顔から表情が薄くなるようだ。笑っているはずなのに、感情がこもっていない。その顔を間近に見て、時計は思わずたじろぐ。
「それにここ数年は鳥人に良い風潮だろう?」
彼は茶を口に含んで肩をすくめてみせた。
「環境団体と擁護団体がわんさと湧き出て、鳥人の保護に走ってる。今や鳥人は普通にその辺で飛び回れる存在だよ、もちろんまだ地域によっては差別が凄いらしいし、まだ狩られているみたいだけど。この地方は比較的そんな差別も緩くてね、最近はよく見かけるようになった」
おそらく人は鳥を狩りすぎたのだろう。どちらかに風潮が偏れば、それに反論する人間が出てくる。
いまだに差別はあるものの、鳥人が鳥人であるというだけで殺される時代はもう終わった。
そして同時に、広大の鳥狩りとしての権威も忘れ去られていったのだ。
「近くの喫茶店じゃバイトしてる鳥人もいるよ」
都会でもそういった施設があるときく。行く宛のない鳥人を保護し、望めば人間のように仕事まで与えられる。
なぜそこへ行かずここにきたのか、と広大は見えない目の奥で時計に語りかけた。
「……時計を埋め込まれたの」
時計は、胸を押さえた。今は白いワンピースに包まれている体の中に、隠し切れない傷がある。
それは古傷だ。そのさらに奥、生物としてはあり得ない一定のリズムが刻まれている。
「時計?」
「胸の奥。心臓の近く。もしかすると心臓に、かもしれない」
胸を指でぎゅっと押さえると、硬質なものが触れる。指先が震え、時計は浅い呼吸を繰り返す。
「……ぜんまい時計で動く爆破装置」
かちり、かちりと胸の奥から音が聞こえる。そんな気がする。実際には聞こえるはずもないのだが、胸に手を当てるたびにそんな恐怖が体を震わせる。
「時期がくれば爆発するの」
時計を引き取った研究施設の男は、冷徹にそう言った。冗談など、生まれてこのかた言ったこともないような男である。笑みさえ浮かべない男である。
真っ白な建物の中、真っ白なベッドに横たわる時計に向かって、彼はそう言ったのだ。
「お前の胸にぜんまい時計で動く装置を仕掛けたと、そういったの」
その日から、彼女は時計と呼ばれるようになる。いつか時を止める時計だ、と男ははじめて目の奥に光を灯した。
名前などそれまでなかった。初めて持った名は、自分を殺す名前だった。それでも、時計はその名を受け入れた。受け入れるしか無かったのだ。それ以外に、名前など無かった。
「それは残酷だね」
時計の震える声を聞き、広大ははじめて眉を寄せる。
「僕は害鳥狩りをするけど、苦しめて殺すのは反対している。あの研究所、なんでそんなこと」
「知らないわよ。あたしは逃げたの。そして山の中にずっといたのだけど」
研究所は山の奥にあった。無我夢中に逃げ出すとそこは深い森の中で、食材はたんとあった。
仲間も何人かいたようであるが、鳥人はそもそも群れない生き物だ。
まして時計は幼く、生殖の相手にもならないため多くの鳥人から疎まれ奥へ奥へと逃げ込んだ。
静かな土地に向かえば向かうほど、時計のリズムが耳につく。ある朝、耐えがたい恐怖に襲われた。
時計の音は続いている。周囲は見知らぬ山の中。父も母も知らない。そんな時計の記憶に、残る風景がある。
「で、その爆発で僕を殺すためにここに来たの?」
広大はなんでもない顔をして、恐ろしいことを言った。
そこではじめて、時計はそんな仇の討ち方もあるのだと気づく。
鳥人は他の動物に比べ、恐ろしく親子の情愛が薄い生き物である。親を殺されたからと言って、本気で憤慨するものは少ない。
ただ親子の情愛が少ない分、自分の生まれた場所に固執する。
「……それもいいけど」
だから、帰りたいと思ってしまったのだ。
時計は自分の体を抱いて震える。いつ死ぬのだろうか、そればかりを考えていた。死ぬ前に、生まれた場所に戻りたいと心底思った。
見た事もない、自分の古里へ。
「だって仕方ないじゃない、ここがあたしの生まれた場所なのだもの」
「鳥人にも帰巣本能があるって知らなかったな」
広大は学者のような顔をして、そしてやがて背を正す。
色の白い男だ。盲目ゆえ、あまり外に出ていないのかもしれない。
彼は孤高の鳥狩りと世間では言われていた。鳥狩りとは、普通は集団で戦うものである。が、彼はただ一人で複数頭の鳥人を狩る。
だからこその権威であった。
「なるほどね。僕を恨んでいるだの復讐だのはただの言い訳で、君はここへ戻ってきたかったんだ。そうだね?」
「……」
「君が死ぬまでこの家を明け渡してもいいけれど、困ったな。僕もここが、終の棲家なんだ」
かつて多くの仲間を殺したと思われる手を、広大は時計へと差し向けた。
「……いいよ、一緒に暮らそうか」
綺麗な掌である。これでどんな風に鳥人を殺したのか、想像すると恐ろしい。最近は狩りを止めたというが、気を抜けば殺されるのではないか。と時計は身構える。
しかし、広大は優しげに微笑んだ。
「……どうせ僕も、もうすぐ死ぬんだ」
広大の隣に置かれた茶からは、やはり甘い香りが漂っていた。よくよく見れば線も細い。確かに彼には死相が見える。
まさかと時計は愕然とし、そして息を整える。
「その前にあたしが殺すわ」
「恨みは持っていないんだろう?」
「親を殺した事については、もう何を言っても始まらないけど、あたしをこんな体にしたことが許せない」
天井に広がる血の染みは、見るだけで恐ろしい。この恐ろしさは親の流した血だから。というよりも、かつてそこに惨劇があったことへの恐怖心だろう。やはり、情愛は薄い。
ただ、研究施設へ送り込んだ事実だけが憎い。送り込まれなければ、恐らく時計は今頃自由に空を飛んでいたはずである。
「まあ、殺す殺さないはどうでもいい。ただ帰って来たかったんだろう。まずはそれで良いじゃないか」
広大はのんびりと、声を出して笑う。時計は奥歯を噛みしめた。
彼の笑みのおかげか、それともこの家のおかげか、先ほどから胸の時計が静かである。これほど胸が大人しいのは、珍しい。
「……どうでもいいなんて、ないわ」
広大は我慢強く手を差し伸べ続けている。その手を羽根で払って、時計は彼の家を見渡した。
古ぼけた、ただ広い、音の無い、香りの無い、ここは時計の故郷。
「お帰り、時計」
広大は静かに言って、柔らかな髪をかき上げる。窓からふわりと、4月の風が吹き込んだ。
曇った窓硝子に時計自身の姿が映る。うっすらと映るそれは、人間の少女となんら変わらない。ただ背に巨大な白の羽根を背負っているだけだ。
自慢の金の髪はぼさぼさと長く、白い顔にはやつれが見える。黒い目は、はっと驚くほど野生の色が滲み、視線の合った自分自身でさえもたじろぐほどだ。
久しぶりに自分の姿を目にした時計は恥ずかしさと憤りに唇を噛みしめてただ俯く。
……時計は、まだたった10歳なのだ。生まれ落ちて、まだ10年しか経っていないのだ。
「……うん」
目に浮かんだ涙を押し込んで、時計はそうしてこの家の一員となったのである。