空の話
朝から降り続く雨は、まだ止まない。
雨が屋根を叩く定期的な音に、体を包む霧のような湿度。その中から時計の気配が消えたことに気づき、広大は無意識に立ち上がった。
足を取られないよう気をつけて、広大は階段を手探り登る。階段にまで湿度が染みこんでいるようで、広大は二度ほど足を取られた。
焦れば焦るほど、足の動きが鈍る。ようやく目的の部屋に辿りついた広大は、思わず叫んだ。
「時計!」
それは潰された巣が散らばる部屋である。時計はちょうど、窓の所に立っている。
古い窓の外には小さなバルコニーがあり、プランター程度なら置く事のできるスペースが用意されていた。
……時計は、そんなところにいたらしい。
時計の羽根は白く光を放つので、広大でも彼女がどこにいるのかよく分かるのだ。
息を詰めて数歩。白い光を放つその塊に、広大は飛びつく。
バルコニーに立つ少女の腕をとり、掴んで乱暴にひきよせる。時計は小さな悲鳴を上げたが、気にせずその体をきつく拘束した。
「気配を感じたから、来てみたら……君は今は飛べないのだから、こんな場所に立ってはいけない」
よろけて二人はバルコニーに手を突く。雨は一段と強さを増して二人の上に降り注ぐ。
一瞬で頭から服の中まで冷たい水にさらされた。時計の羽根も、水を含んでずしりと重くなる。
「お願いだから、僕を走らさないでくれないか。転ぶと、立ち上がるのに時間がかかって危ないんだ」
広大は時計を解放し、頭を振るう。水が周囲に散った。
しかし時計はまだ小さく震えている。
「無茶をすれば飛べると」
広大の手に時計の濡れた羽根が触れる。まだうまく動かないようである。
しかし朝食からまだ、数時間しか経っていない。そんなに早く飛べるはずがない。
しかし時計は飛べない恐怖に身を焦がされて、こんな場所に来たのだろう。
「でも、たった二階が、こんなに恐くて」
広大は想像する。
「……すごく、高くて、恐くて」
時計は一人、バルコニーに立って雨の庭を見下ろしたのだ。それは擬似飛行であったのかもしれない。
広大にも覚えがあった。
粘土を捏ねはじめたこと。それも広大にとっての擬似的な世界との繋がりである。
「恐怖感と戦うのはいいことだけど、無茶はよくない。それより冷えてるよ、時計」
二人の体はすっかり冷え切っていた。
濡れた身体が冷たい。しかし触れ合った場所は、じわりと熱を持っている。
「まだ早いけど、お風呂にしようか」
立ち上がった時、広大の体から散らばったものがある。それは小さな紙に包まれた散剤だ。
内ポケットの中にしまってあったので、濡れずに済んだのだろう。それは乾いた音を立てて床に落ちる。
「広大さん、薬が落ちた」
「ありがとう」
それは湯に溶かして飲む、広大の常備薬。湯に溶かせば、甘い甘い味となる。そしてそれは広大の体を骨から蝕んでいく。
しかし時計は拗ねたような口調で呟いた。
「あたしも薬があればいいのに、飛べる薬」
「そんな薬はないさ」
鳥人の焦りを広大は理解できない。しかし慰めることはできるのかもしれない。羽根を撫で、広大は笑う。
「風呂のお湯をためてくれないか、時計」
「ところで広大さん、この薬なに?」
さらさらと、散剤の音がする。細かなそれは、淡い桃色をしていると広大は昔、医者から聞いた。
薄暗い病院だった。ちかちかと、蛍光灯から聞こえる音だけがうるさかった。
広大は薬を時計から受け取ると、ポケットの奥深くにしまいこむ。
「早くお湯をためてよ、時計。この家の給湯器は古くて、温度が上がるまで時間がかかるから」
「そういえば広大さんの病気って……」
「一緒に入る?」
戯れてみれば、時計が一呼吸おいて普段通りの声をあげた。
「……馬鹿!」
「嘘だよ。しっかり浸かってあたためておいで。冷えると飛べるものも、とべなくなる」
時計はぶつぶつと文句を言いながら、軽快なリズムで階段を降りていく。
部屋に一人残った広大は、バルコニーの窓を締ようとして、動きを止めた。
雨はまだ降り続いている。初夏の雨は、庭の緑を育て明るく健全な色に変えていくはずだ。
しかし家の中は果たして、健全な色に染まっているのだろうか。
目には見えない境界線が二人の間にあるが、互いにそれを気付かないふりをしている。
いつまでこの生活を続けられるだろうか。
心に浮かんだしこりを再び奥深くにしまいこみ、そして広大は窓を閉めた。




