羽根の話
自身に起きた異常に気づいたのは、まだ朝ぼらけの時刻の頃。
時計は寝起きと同時に、羽根を上下に動かす。人間の寝具は鳥人の時計には合わない。
しかしここで過ごす以上、慣れるしかないわけだが。そうはいってもたやすく慣れるものでもなかった。
まずは起きて強張った羽根を動かす、そして凝り固まった筋肉をほぐすように優しく背筋を伸ばす。
部屋の荷物は片付けて、羽根を広げても問題はないようにしてあった。
そうして動かして、床から数十センチ浮かび上がる。これが時計の朝の日課だ。
しかしその日、羽根はぴくりとも動かなかった。
ぴくりとも動かない羽根を、時計は肩越しに見つめる。その目線の先、曇りガラスが朝の青い靄に包まれていた。
「飛べなくなったの」
その言葉を吐き出した時、時計は自分の声がさほど震えていない事実に驚いた。
「え」
今まさに食事を口に運ぼうとしていた広大の手がぴたりと止まる。
動作の一つ一つが緩慢な広大にしては機敏な動きだ。ちょっとだけ、演技かかった動作だな、と時計は冷静に見て瞼を下に落とす。
目の前にある箸に手もつけず、掌は拳の形のまま膝に置かれていた。
広大はさなぎのように潰れた目を真っ直ぐ時計に向ける。
時計は久々にその目を見た。
鋭い爪にえぐり取られたと言うその目は、良く見ると瞼や周囲に深い傷がある。それらの傷の跡が全て固まって、大きなさなぎのようになっているのだ。
彼に視力など無い。目が合う、などということもない。しかし、時計は極力その目を見ないようにしていた。
不思議な罪悪感と、言葉にできない恐怖感で落ち着かない気分になるのだ。
しかし今朝はその目を真正面から見つめても、不安は加速しなかった。
「なんで」
「……理由が分かったら相談なんて、するわけないじゃない」
羽根が動かないことに気付いたのは今朝一番。
一ミリも動かないと気付いたとき、最初は気のせいだと思いこんだ。そしてその後すぐ足下が崩れるほどの恐怖が時計を襲った。
羽根を動かすのは、足を動かすより容易い。息をするより自然にできた。しかし、動かなくなった次の瞬間から、飛び方を忘れた。
一体、これまでどんな風に羽根を動かしていたのか、どこに力を込めればいいのか、そんな些細なことを全て忘れた。
(だからあたしは、庭に出て)
早朝、庭には雨が降っていた。まるで霧雨のような雨である。
(深呼吸をして、羽根を広げて)
細かい雨を全身に浴びて、土の香りに目を閉じる。
(そして庭石の上からあたしは、飛んで)
しかし動いたのは腕だけで、羽根は飾り物のように時計の背に付いたまま。時計の体は飛ぶことなく、庭石の上から虚しく飛び降りただけである。
恐怖感の次に現れた感情は虚無感で、時計はそのまま力もなく朝食の席に座った。
「昨日は飛べていたのに?」
広大の声は少しだけ引きつって聞こえる。多少なりとも時計の身を案じているようでもあり、また多少の好奇心も含まれているようだ。
「人間と一緒に飛んだせいかな。羽根に負荷がかかったとか。疲れているだけだとか」
広大言う理由について、時計は100回も考えた。考えても理由が分からない。分からないまま動かない。
「こわいの?」
広大は慎重な口調でそういって、そろそろと近づいてきた。時計のすぐそば、ちょうど三歩分だけ離れて、彼はそこに椅子を引いて座る。
彼のすぐ横に小さな窓があり、蔓草が顔を出している。緑を含んだ薄い風がその蔓草を揺らしているのが見えた。
まもなくこの風も湿り気を帯びて、そうして本格的な夏が来るのだろう。
「それとも悲しい?」
「……研究?」
「素直に心配をしているんだよ」
険のある時計の口調に、広大が苦笑した。時計の声には震えはなく、すねたように思われたのかもしれない。
実際、震えるほどに恐ろしいというのに、心は却って冷静になるようであった。気持ちは深夜の森林のように静まり返っている。
「気にしないで。ただ飛べないから、買い物に支障が出るかもしれない。これまでみたいに、遠くまで買いだしにいけないから。それだけよ、支障があるのは」
それだけだ。飛ばなくとも時計には足がある。歩けばいいのだ。人と同じように。
「それだけだから……だから、気にしないで」
立ちあがろうとして、時計ははじめて自分の膝が震えていることに気が付いた。
「僕は何をしてあげられるかな」
広大が歌うように、言う。食事の香りと朝の爽やかな風にはそぐわない、重苦しい空気だ。
しかし広大の声には軽みがあり、それを聞いた瞬間、時計ははじめて泣きそうになる。
「……ずっと飛べていたのに、飛べなくなるのは恐い」
羽根が背中に在る以上、時計は足に重きを置いてはいなかった。そんな足が自己主張するように震えている。
震える膝を押さえるように座りこむと、続いて胸が早鐘を打ち始めた。胸の中に埋められた時計が急に動きを早めたようだ。
ここで爆発をするのか、と時計はとっさに胸を押さえる。しかし音は大きく早くスピードを高めた。落ち着け、と時計は心の中で呟いて、唇を舐める。
その唇は恐ろしいほどに乾いていた。
「飛べないと、鳥人として死ぬこともできないのよ」
空を飛べない鳥人は、それは鳥人とは言わないだろう。かといって人でもない。
胸に時計を埋め込まれ、さらに飛べなくなってしまった。自分はいったい何という生き物になるのだろうか。時計は不安と恐怖に身を強ばらせる。
「僕もずっと目が見えていたのに、急に見えなくなったんだ」
しかし広大は静かだ。指先がゆっくりと伸ばされて、それは時計の羽根を撫でる。
鳥人狩りの手にしては繊細な動きだ。
「恐くて絶望もしたけど」
嫌悪感を感じるはずのその手を、時計は振り払わなかった。不安に身を震わせる今、その暖かさが不思議と有り難い。
「……でもまだ生きてる」
時計は顔を俯けたまま、広大の手を受け入れた。
「まだ時計には羽根があるだろう? 羽ばたき方は、そのうち思い出せばいい」
「思い出す……」
息をするように自然に動いていた羽根だというのに、今はその動かし方さえ分からない。
飛ぶなど、とんでもない話だ。今なら家の2階に立つだけで、恐怖に身がすくむだろう。
「それまでは、地上にいるのもいいものだよ。だからまずは朝ご飯を食べよう」
まずは体を元気にさせて、戦う元気を付けなければ。と広大は真面目な口調で蕩々と言う。
何と戦うのか。それは自身とである。
確かにそうだ、と時計は崩れそうな体をようやく持ち上げた。




