アトリエの話
アトリエを見学しても良いか、と時計が恐る恐る問いかけてきたのは翌朝のことだ。
朝食の後、二人の生活はいつも離れる。
時計は家の掃除や空中散歩に忙しく、広大は相変わらずアトリエに籠もる。互いの境界線を越えたことなど一度も無かったというのに、その日に限って時計は広大に向かってそういった。
「器用ね」
時計は渋々、といった口調で褒める。アトリエは狭いので羽を折りたたんでいるのだろう。さきほどから彼女の羽音は一切耳に届かない。
大人しく椅子に腰掛けているであろう彼女だが、いかにもつまらない。といった声音を崩さない。
広大と言えば座りなれた椅子に深く腰掛けて、目前の生ぬるい粘土を両手に包んでいた。
最初は冷たい土の塊も、両手でじっと包み込んでやると熱が広がって行く。その熱は固い芯まで蕩けさせ、やがて土と掌の温度は同じになる。
普通の粘土ではない。仕上がればブロンズのような艶を出す独特な粘土だ。触れたときの心地よさから、広大はこの粘土を気に入っている。
「お褒めの言葉をありがとう、時計。でも目が見えなくなってから始めた趣味だからね。実際どんなものが出来上がってるのか、自分じゃ見えないんだよ」
机の上に置いてあるのはブロンズ粘土の塊。指でつまみあげ、ひねった。
両手で暖めて命を吹きこむようにする。目は見えないが、それが形成されている様子はなんとなく、掴める。
目が潰され、最初に恐怖を感じたのは、闇ではない。意外なことに、指先に感じる異様なまでの鋭さである。
何に触れてもそれは過敏に反応する。指の感覚が目の代わりになろうと躍起になっている。その触感の鋭さに、広大は恐れ怯えた。
それを少しでも収めようと始めた趣味が、粘土いじりだったのだ。
無論、師匠があるわけでもない。本を読んで勉強するわけにもいかない。
知り合いに粘土の発注を頼み、ただ土に向かいあう日々を過ごした。
最初は見えない目で土の塊を見つめただけである。次に、触れた。掌で包んだ。膝にのせたまま、1日を過ごしたこともある。
いつ頃から捏ね始めたのか。確か最初は凶暴な捏ね方であった。殴り付けたこともある。
しかし最近になってようやく、粘土を手の内に包み込んで捏ねる方法を覚えた。
その頃から、何かしらの形を作ることができるようになっていた。
「見えないのによくここまで作るわ」
時計は彼女らしい口吻でそう言う。かすかに口を尖らせているのだろうか、そんな声だ。
昨夜は同じベッドで眠った。その事を責めることも、厭うことも、時計はしなかった。そして広大はその事について触れることもしなかった。
殺されずに朝を迎え、生きて今ここにいる。時計もまた、そこにいる。それだけで広大は満足である。
広大は粘土の表面を、そっと撫でた。
「見えないからこそ、作ることができるのかもしれないね」
「鳥人を作るの?」
広大が今、指先でひねっているのは、鳥人の羽根である。一枚一枚丁寧に、折りこむようにして羽根を作る。
大きさは指先から肘くらいのもの。それほど大作ではない。が、その分、細部には気を使う。鋭くなった指先は、果敢にもリアリティに立ち向かうのだ。
「そうだ」
「罪滅ぼし?」
「罪だなんて思ったこともないけど」
広大は牛肉を食べる。豚肉も、野菜も鳥肉も魚も食べる。そして害虫は駆除する。その中で罪悪感を抱いたことは一度も無かった。
むろん、鳥人をどれだけ殺そうと広大の心に傷などつくはずもない。
ただ、多くの鳥人を殺す中で虚しさがあったのは事実だ。その虚しさの残留から逃げ出すため像を作り始めたのかもしれず、しかしそれが罪滅ぼしの気持ちかどうかまではまだ悟りを開けない。
「何故鳥人を作るのか。その答えとして最も適しているのは、すべての生き物の中で細部まで理解しているのが、鳥人だったから……かな」
指先で羽根を作る。次は足の先を作る。鋭く尖った、独特の鳥人の足の先。そして華奢に見えて筋肉の付いた腕も、張った太もも、盛り上がった肩甲骨。
「たとえば内臓とか、そういう中の部分まで分らないと立体成型は難しい」
「……ずいぶん嫌な言い方ね」
ぞっとする、と時計は呟く。確かに嫌味な言いぐさだっただろうか、と広大は思う。
しかし謝罪すべきことではない。時計の気持ちを広大が理解できないように、広大の気持ちを時計が理解することは不可能だ。
ただ歩み寄れる部分はある。たとえば時計が広大のアトリエを覗きたい、といったのはその歩み寄りの一部だろう。
少女の視線を感じながら、広大は苦笑した。彼女が現れたおかげで、物を良く考えるようになった。
思えば広大の時間は10年、止まったままである。ゆるゆると死に向かうだけの10年だった。しかしあの4月の日、広大が扉を開いて時計を迎え入れた。
あの瞬間、開けた扉から時間が動き始めたのだ。
「……人は残すことがすきなのね。像とか……写真とか」
「そうかもしれない」
「あと、お墓とか」
時計は声を絞るように言う。
「お墓?」
「そう、人ってお墓を作るでしょう。だからあたしも作ってみたの」
「ああ……昨日」
「そう」
時計の声が沈むとき、それは何かを思い描いているところだ。広大も釣られ、彼女の言葉に耳を傾ける。
「巣材の欠片を運んだの。それから森に行って」
広大は腕を止めて、想像した。白い羽根を持つ鳥人の少女が古びた木の枝を抱きしめて、森に浮かぶ風景は幾分かメランコリック過ぎる。
しかし時計ならば似合うだろうと、見たこともない彼女の容姿を想像して広大はそう感じた。
「鳥人は死ぬときは一人だから、墓……と人が呼ぶものは自分で決めるの」
「人の気持ちは分らない、か」
「鳥人は残すなら、子孫を残すから」
時計は言葉の応酬に飽きたのか、音をたてて立ちあがった。
彼女が動くと、時計が意識していなくても羽根が動いて空気をかき乱す。自分以外の生き物が存在すると、家の中の空気は知らず蠢く。その感覚に、広大はいまだ慣れずにいた。
立ち去る彼女の背に向かい、広大は苦笑する。
「興味深い思考の相違だ」
「そういえば、今日の番ご飯は広大さんの嫌いな菜葉の醤油漬けだから」
「え」
広大はつい、声をあげた。もともと食べること自体を好まない上、広大は好き嫌いが多い。
「菜葉の醤油漬け、あたしは好きだもん」
「僕は嫌いだ」
時計の声はどんどん遠ざかり、最後には歌うような声だけがアトリエに残った。
「人間は鳥人の気持ちを理解できない、でしょう」
「……それは意見のすり替えだよ時計」
文句を囁いてみたところで、鳥人の少女の気配はない。すでに台所へと駆け出した後である。
広大の手の中で、こねまわしていたブロンズ粘土の羽がとろりと蕩けた。




