深夜の話
深夜、必ず一度は寝室の扉が開く。
最初は薄く、時間をかけてゆっくりと。錆び付いた扉なので、ゆっくり開けても音がよく響くのだ。
それはまるで、風が泣くような音を立てる。
広大の寝室は物があまり置かれていないため、音が恐ろしくよく抜けた。
「……」
扉を開けた者は、足音も立てずに広大の真上にやってくる。
足音を立てる代わりに、ゆるやかな羽根の音が聞こえるのだ。彼女は飛んでいるのだ。飛んで、眠る広大を真上から見下ろしているのだ。
もちろん広大にその姿は見えない。その代わり、まるで森のような香りがするので彼女がそばに近づけばすぐに分かった。
やがて広大の首に細い何かが触れる。細いが固く、鋭い。それは彼女の爪だ。
鳥人の爪は鋭く長い。そんな爪が広大の首をぐっと締めた。
「時計、どこに行ってたの」
広大は締められている事実に頓着せず、言う。
「せっかく夕食作って待っていたのに」
思いついた事がある、そういって空へと消えていった彼女は結局夕食の時間になっても戻る事はなかった。
久々に一人で過ごす夕食は、味の無い侘びしいものだった。ほんの数日前まで、それが当たり前だったにもかかわらず。
「テーブルに時計の分は置いておいたからね」
「食べたわよ」
時計の声は低く、手は冷たい。その指がまた、広大の喉をきつく絞めた。
「痛いよ」
つぶやいても力は緩まない。かえって強くなる。しかし、どんなに強くなっても絞め殺すにはまだ弱い。
広大は寝転がったまま彼女の行動を受け入れる。その手を掴み、さらに強く締めるように誘うことさえする。
「殺すのなら、もっと強く握らないと。人間は、思ったより簡単には死なないものだよ」
広大の目はもとより闇しか映さない。
闇の中へ押し込むよう、強く強く時計の腕を喉に押しつける。しかし、本格的な闇が広大を包むより先に、淡い光が広がった。
……時計の羽根が輝く色である。闇の中、それは何かの指針のように、広大の闇を払う。
お互いの動きが不意に止まった。
時計は小さく震えて、広大の首から指を離す。
「……胸の時計がなかなか爆発しそうにないから、いっそ手で殺そうかと思ったんだけど」
「力が足りないかな」
広大は喉で笑った。痛みは少しも感じない。
いざとなれば怪力を出せる彼女だ。本気で殺そうというのなら、もうとっくに広大は絞め殺されている。長い爪で胸を抉り取ることだってできるはずだ。
それをしないという事は、時計の中に広大を生かしておこうという気があるのだろう。
森の香りを放つこの生き物は、性別も年齢も種別さえも広大とは異なる。何を考え、何を求めているのかなど、大人で男で人間である広大には理解もできない。
「とはいえ、どうせ僕はそのうち死ぬから、君が手を汚すこともない」
「……あたしが殺すのよ」
物騒な言葉を久しぶりに時計は呟いた。そもそも彼女の目的はそうだった。
この巣の中で生涯を終える。そのためには彼女の古里を占拠する不作法な人間を殺す必要がある。
それは時計にとって譲れない線なのだろう。
「そうだね……そうだった」
時計は大きな羽を広げて広大の上に浮かんでいるようだ。見えなくとも、なんとなく風景の想像はついた。
まるで天使のようだな、と広大は思う。
死に際して天使が降りてくるという、そんな絵画によく似ている。
「分かった。じゃあ、殺してもいいからちょっと横に来て」
「なに」
手を伸ばせば、思ったよりも近く時計の体があった。その細い腰を抱き寄せると、羽根が広大の顔の上にかかり腕の中に高い温度を感じる。
「ちょっと……」
「ああ、やっぱり想像通りだ。鳥人は体温が高いね」
時計はいささか抵抗したが、やがて諦めたのかどうでもいいように体の力を抜く。
だらんと垂れ下がった腕からも、羽の隙間からも人とは異なる体温を感じた。
「もう夏だけど、この家は夜になると冷えるんだ」
時計は髪が長いのだろう。羽の合間に絹のような柔らかい流れがある。
それを含め、他の鳥人に比べると少し成長が遅い。足も手も細く、爪の太さも成熟しきっていない。まだほんの、子供だ。
幼い頃を研究施設で過ごし、その後は山を放浪していたという生活環境のせいかもしれなかった。
しかしそんな環境も、精神には影響を及ぼさなかったのだろう。人間ならば、間違いなく体より先に心が壊れる。
やはり鳥人とは、おもしろい強い生き物だ。
「朝までこうしてくれるとうれしいな」
「寒いのなら、薪のストーブを引っ張ってくればいいのに」
時計は諦めたのか呆れたのか、長い長いため息をつく。彼女の体からは土と木と月夜の香りがする。
「どこに行ってたの、時計」
「言う必要なんてないとおもうけど」
「じゃあ門限を決めようか、家族のように」
「馬鹿みたい」
時計の声に欠伸が混じった。
寝惚けた時計を腕に抱きしめたまま、広大もゆるゆると眠りに落ちていく。
……そして広大は、美しい月夜を飛ぶ夢を見た。




