月夜の話
時計の羽根がふわり、大きく開く。
周囲は一面、夜である。ちょうど満月なのか、天には巨大な月がぶら下がり、黄金色の光が周囲を包んでいる。
夜目の利かない時計だが、満月の夜は気持良く飛ぶことができる。
「……」
思う存分に空を飛んだのは、本当に久しぶりのことだった。古巣に戻って以来、羽根を思いきり広げられるスペースも無い。
普段は折りたたまれている羽根を、思う存分に伸ばしてそして羽ばたく。深い森の上を、時計は延々と飛んでいるのだ。
何匹かの鳥人とすれ違ったが、彼らは時計になど目もくれない。時計も鳥人の礼儀として彼らを無視し、やがて彼女は森の上に止まった。
深いその森は、時計が逃亡の際に寝床にしていた場所である。
研究施設から逃げ出したのは、まだ春先の頃。必死に逃げ、通りすがる鳥人に助けを求めた。
しかし鳥人は情愛を持たない。時計は追い払われ、その鋭い爪で皮膚を裂かれた。
傷ついた体を森の中に押し込めて、じっと耐えていた時も月は美しかった。
「ここでいいわ」
かつてのように、時計は一本の枝に止まる。森の香りと大地の香りが、胸いっぱいに広がった。
心地よいはずなのに、胸のぜんまい時計は狂おしいほどに鳴り響く。
時計は構わず、手に持っていた一本の枝を撫でる。それは今にも朽ちてしまいそうなほど古い木の枝である。鼻を近づけると、埃と血の香りがする。
良く見れば、表面に深い傷があった。それは、鳥人の爪によって付けられた傷だ。この枝を掴む際に、食い込んだのだろう。
この傷を付けたのは、母か。父か。
「骨なんて無かったから、仕方ないよね」
枝を一度抱きしめる。それは、壊された巣に落ちていた巣材の一つだ。
かつて時計を温めた巣材の一部だ。
抱きしめてもやはり父と母への情愛は浮かばない。ただ哀れであると思うだけだ。
先ほどすれ違った鳥人たちへが目の前で死を迎えれば、同じ感情を抱くだろう。その程度の感情だ。
しかし時計はその枝をそっと天に掲げる。そしてしばし戸惑う。祈りの言葉など、時計は何も知らないのだ。
「鳥人だもの」
だから時計は、無言のままで枝を森の中へと投げ捨てる。乾いた音とともに、それは大地に散る。
「さて」
枝の行き先を見つめた後、時計は羽根を大きく振るわせる。
ずいぶんと遠出をしてしまった。もう、広大は眠った頃だろう。
「帰ろう」
あたしたちの家へ。
時計は心に浮かんだ言葉に、驚く。自分の巣ではなく、二人の家だと一瞬でもそう思えたことに時計の羽根の動きが乱れる。胸の時計が速度を速める。
羽根の動きが止まり落下しかける。慌てて姿勢を整えて、時計は凜と天を見上げた。
放り捨てた枝の行方よりも、家へ戻ることを体が求めている。
これは尋常ならざる状態だ。
「……やっぱり殺さなきゃ」
誰を殺すのか。
「……広大さんを、そして、あたしはあの家で一人で死ぬんだ」
鳥人は情愛の無い生き物である。一人で生まれ一人で死ぬ。時計は痛む胸を服の上から強く押さえ、月を横切るように一気に飛び立った。




