巣の話
時計の姿が消えた、と思ったのは一瞬の事。
小さな悲鳴が聞こえた時、広大はやっと彼女の居場所を知った。
「……」
広大は壁に手を付くようにして、そろそろと階段を登る。
細くきしむ階段だ。段の角は取れて丸くなり、そこを糠袋で磨いてあるので恐ろしいほどよくすべる。
こんな風な意地悪をしたのは、時計である。部屋を掃除すると言った彼女は、その言葉通りに家の隅々を綺麗に掃除した。
埃の香りも無くなるほど、徹底的に。衛生面は完璧だ。ただし、古臭さの中でずっと暮らしてきた広大にとってはいささか暮らし辛くなったことも確かである。
「……ああ、こんな完璧にしなくてもいいのに。時計は本当に完璧主義だ」
手で体を支えるようにしてちょうど10段登りきると、そこに時計の羽音を聞いた。
「……広大さんこれが、巣?」
階段を登り切った先、小さな扉があるはずだ。その戸は開け放たれているのだろう。時計の声はすぐそばに聞こえる。
広大は彼女の声がする方向へ進み、手を伸ばすと柔らかい羽毛が指先に触れた。
その羽根は、震えている。
「上の部屋も……掃除をしようと思って……」
「ああ、見ちゃったのか」
目前に広がっているであろう風景は、広大の目には映らない。
見たいと願っても見えない。しかし一度だけ、目が潰れる直前にその風景を見たことがある。恐らくそれが広大が目で見た最後の風景だろう。
そこにあるのは、木や枝で作られた巨大な巣だ。枝は踏み固められ、葉で内側を覆ってある。
鳥人は巨躯を持つ物が多い。それに合わせた巣は、部屋の真ん中を占領する形であったはずだ。
そしてそれも今や、潰れて見る影もない。広大が徹底的に巣を崩したのだ。部屋の至る所に巣の残骸は散っているだろう。
血の跡もあるはずだ。無論、時計の両親が流した血である。その中に一滴か二滴は、広大自身の血も混じっているかもしれない。ここは10年前、ある種の戦場であった。
(何でも遺物というのは、嫌な空気がする)
広大は鼻を動かし、そんな事を考える。血のなどもう乾いているというのに、目が見えなくなって敏感になった嗅覚は些細な香りを嗅ぎつける。
広大は足を進めようとして、残骸らしき枝の固まりを蹴り上げた。
骨などは一切残っていない。研究所の知りあいが、研究材料にと全て持ちかえってしまったからだ。
そのついでに部屋の片付けを頼んだが、初老の男は鼻先で笑いそれを断った。
いわく、これほど完璧に残った巣を捨てるのはもったいない。残せば展示会でも開けるのではないかと。
鳥狩りで生計が立てられなくなる今後の、生活費の足しにしてはどうかと。
だからその夜、広大は巣を叩き崩した。
それ以来、この部屋には立ち寄らず、気づけば10年の月日が経っていた。
「ショックだったら可哀想かと思ったから、ここは入らないようにって注意するつもりで……忘れてたな」
蹴った枝は大きな音を立てどこかにぶつかる。空気は重い。10年前の空気をそのまま、ここは持ち続けたのだろう。
湿気った埃の香りの向こうに、10年前の風景が浮かぶようである。
「バカにしないでよ」
言いながら、彼女の声は小さく震えている。
「鳥人は親子に深い情なんて覚えない。広大さん、知ってるくせに」
「そうだね」
広大は時計の声がする方向へ腕を伸ばした。柔らかい皮膚に指先が触れる。薄い皮膚の下に、暖かい血が流れている。
かつてここで命を奪った手で、広大は時計を抱き寄せる。
「だけど同類の死は、本能を刺激する。時計、君はあまり見ない方がいい」
悲しみや情緒の震えではない。本能から彼女は震えているのだ。それに理由など、無いのだろう。
「広大さんは」
時計は呟くように言った。心なしか、憔悴した声である。強気な彼女には珍しく、疲れた声だった。
羽根もぐたりと、力なく垂れている。
「……なぜ鳥狩りになったの」
「難しい質問だね」
広大の足元で枝がぱきり、と乾いた音を立てた。
「君が空を飛べるようなもので、そこに理由は無いんだよ」
「……じゃあ、なんで鳥人との共存を考えたの?」
床に広がる枝葉は乾ききり、足が触れるだけで粉のように散った。
ざわり、と何がが動く音がする。それは時が流れる音だろう。時計に埋め込まれたという、ぜんまい時計の音かもしれない。
ここは時の流れが止まっていたのだ。しかし広大が枝を踏みしだいた瞬間、時が動き始めた。
「……さあ」
「理由なんてないの?」
時計は広大の手を払い、離れる。
「……理由なんて、ないのね」
いつか時計の気配がふと途切れた。
彼女はふいに窓の外に飛び出したのだろう。広大は思わず、手を伸ばす。掴んだのは虚空だ。
その先に、時計の羽が一枚、散ったようである。
「時……」
「晩ご飯作っておいてね」
名を呼びかけた広大の言葉を防ぐように、時計の存外明るい声が重なった。窓の向こうから顔を出しているのか声は近い。
彼女の顔を見ようと顔を上げるが、やはり広大の視線は闇に遮られている。
薄く、白い光が届くような気がしたが、それは時計の羽根に光が差し込んだのだろう。
「ちょっと思いついた事があるから」
「……分かったよ」
どこへ行くのか。そう言いかけた広大だが、違う台詞に乗せ替えた。その直後、時計の気配は遠ざかり広大は彼女をふいに見失う。
広大は心の乱れを隠すように、足に当たった木の破片を蹴り上げた。それは壁に当たって、大きく反響する。
全ての音が大きく鳴り響くのは、この家が静かすぎるせいなのだ。と、広大が気付いたのはそのずっと後の話である。




