出会い
背には羽根、腕には爪を、自由に空を飛び回り人を魅惑し人を食う。
人はそれを、鳥人と呼んだ。
村口広大は、瞳に光を持たない。
有り体にいえば盲目である。しかし、ただ盲目と一言でまとめるには、彼の目は異様すぎた。
彼をはじめて見る人は驚く。続いて大半の人間が目を逸らす。気の毒に、と言う人もあれば嫌悪感に顔を歪める人もいる。そのあたりの反応は、見た人間の性質によるのだろう。
たった一人だけ、あなたの目はサナギのように美しい。と、奇妙な誉め方をした女がいた。
……つまり、広大の目とはそのような形をしている。
かつて光を持っていたと思われるそこは、何かにえぐり取られたようにぽかりと穴が開いていた。
まぶたは炎症を起こしたまま固まって盛りあがり、それはやがてサナギの形となる。
これまで彼を見て7割の人間が気の毒にと声を詰まらせ、2割が名誉の負傷だと誉めたえ、そして1割が嫌悪感を剥き出しにした。
少しでも褒め称える人間がいたのは、広大に権威があったからだ。そして彼がまだ若く、世間一般でいう美しい顔立ちをしているのも、彼らの同情を引いた。
同情など、広大は聞き飽きていた。聞き飽いたが、彼らは毎日のようにやってきて、何かと広大に気を遣う。
そんな見え透いた気遣いにも飽き飽きしたころ、彼を支えていた権威の下降がはじまっていた。皆も飽きてきたのだろう。
人々の視線から解放された広大は、家の奥に引きこもることにした。
彼が引きこもりの場所として選んだのは、昔から暮らして来た古巣……家である。
光などなくとも生活に困難はない。気まぐれにやってくる面談者をのぞき、そうして彼の周りからは人が減った。
朝起きて眠るまで、広大の行動は一律である。
まず窓を開ける。広い家には20もの窓があるので、それを順番に開けていく。
風が抜けるのを感じた後、庭へと降りてそこに野放図に育つ野菜を鼻で嗅ぐ。
目は見えなくても香りだけで収穫はできる。そして簡単な食事をとる。彼は一日一度の食事で充分だった。
その後、彼は暗い独房のような部屋にこもる。その部屋を、彼は仮にアトリエと呼んだ。
土の香りをまき散らすそこで、彼は黙々と灰色の土塊を捏ねる。昼なお暗い部屋だが、光はない。光など、今の彼にとって無意味なものだ。
そして、足元に吹き込む風が冷えるころ、ようやっと彼は腰を叩きながら立ち上がり、窓を閉めるのだった。
春夏秋冬変わらない、単純にしてそして変化のない日々。
そんな日常がある日唐突に破られたとすれば、それは彼にとって青天の霹靂であった。
「おや」
ある朝のことだ。恐らくそれは4月だろう。広大の家には日付を知らせるものが無い。空気の香りでしか彼は季節を推し量れない。
やわらかい晩春の風が顔を撫でる、そんな朝だった。
「そこに、だれかいるのかな」
広大は窓の一つを開けながら、動きを止める。
真下に広がる庭先に小さな気配が揺れているのだ。
見えはしないが、窓から顔を差し出せば土の香りがする。
そこには密林のように鬱蒼と木々や雑草、そして花が生い茂る小さな庭があるはずだ。
甘酸っぱい大地の香りの中、甘いミルクのような香りが混じっている。
「困ったな。不法侵入は。警察に通報をしなくてはいけなくなるから」
広大は窓を開けつつ、そう苦笑した。
これまでも不法侵入はよくある話だった。視力のない、変わり者の元権威が一人で暮らす家。どんなものかと興味本位で忍びこむ人は意外に多いのだ。
またその類だろう。
(ここ最近は減っていたのだけど)
と広大は心のうちに呟く。
またなにかメディアが広大を取り上げたのかもしれない。
彼らは広大に許可も取らず、平然と人のプライベートを晒すのである。新聞もテレビさえも持たない広大は、そんな情報をいつも後から聞く。
「僕はあまり警察が好きじゃないからね」
「あたしも嫌いよ」
返ってきた声は若い少女のものである。まだ10歳ほどか、険のある鋭い声だ。
嫌な予感がする、と広大ははじめて動きを止めた。
少女の声は、すぐ目の前から聞こえてきたのだ。窓は2階部分に作られていて、広大はその2階に立っている。
彼女が庭にいるのならば、声は眼下より聞こえてこなくてはならないはずだ。
しかし、声は真正面……いや、それより少し高い場所から聞こえてきた。それだけではない。彼女の声はゆっくり移動している。
「でも警察より、ずっとあんたが嫌いよ。広大さん」
「……ああ、君は」
そのとき、広大の頬に柔らかい感触が伝わった。極上の手ざわりのその感触を、広大は知っていた。
「君は鳥人だね」
「……その呼び名は、私があなたのことを人間と呼ぶようなものよ。私の名前は時計。時計と呼んで頂戴」
まるで風のように柔らかい。羽根と思われるそれが、広大の頬へと触れてすぐに離れる。
巨大な羽根が作りだす激しい風に煽られて、広大の中の血が久しぶりに騒いだ。