第六話
昼休みは短い。
橘 十夜は、副会長の秋をひきつれて、情報処理部の部室へ来ていた。
ディスプレイを見ながら、俗に「情報屋」と呼ばれる溝口 理央と会話をかわしていると、ほどなくしてそこに、二年の尾上 京子がやってきた。
京子は、予想だにしない顔ぶれがそろっていたせいか、あからさまに顔をしかめて、部室の主の溝口に言った。
「お客さまがいらしてるなら、私は戻ります」
溝口が首をふる。人種の違いを思わせる白い肌に、肩の下まで伸びるくすんだ赤毛がさらりと揺れた。
「いいんだよ、京子さん。ゆっくりしていって」
「いえ。悪だくみには加担したくありません。またあらためます」
「ああ、待って」
きびすをかえした京子を、溝口は呼び止めた。
「今、橘くんと話してたんだけど、学内の結界が破られそうなんだ。そうしたら、外から悪いものが入ってくるかもしれないでしょう。京子さんも気をつけていてね」
「結界が?」
京子が舌打ちをする。
「生徒会は何をしているんでしょうね。不甲斐ない」
「これでも毎日走り回ってるんだから、あんまりいじめないでよ」
あてこすられた秋が、へらりと笑う。
「ああそうだ、昨日はマフィンをごちそうさま。皆でおいしくいただいたよ。とくに奏はよろこんでたっけ」
「奏? ああ、あの一年の」
「そう。あの子、お腹がすくと扱いづらくなって大変だから」
「人づかいの荒い上級生に囲まれて、鬱憤がたまってるんじゃないですかね」
「かわいい子ほどかまいたくなるもんさ。誰もがあなたの放任主義のご主人さまと同じじゃないんだよ」
京子は、心底うんざりしたというように秋をねめつけて、「失礼します」と吐き捨て、部屋を出ていった。
「あーあ、怒っちゃった」
十夜があきれた眼差しを向ける。
「怒らせたんだろう」
「感情豊かでいいでしょう、京子さん」
どことなく誇らしげに、溝口は言った。
「で、さっきの続きだけど、どうなったの?」
秋が仕切りなおす。
「ああ。望月さんね」
溝口が監視カメラから送られてきた映像の、再生ボタンを押した。
「結論からいうと、なにもわからなかった。邪魔がはいったんだ」
ディスプレイ上に、外の渡り廊下を歩く三日の姿が映し出される。
「ほら、ここ」
溝口が指さす。
カメラが少女に急接近したとおもうやいなや、突如、画面を筋肉質な男の上半身が占め、画像が激しくぶれて、映像はぶつりと途絶えた。
「あー、これはまた」
秋が残念そうな声をもらす。
「体操部の五島だな」
「だねえ。かよわい一年女子を守るヒーローじゃん。あこがれるね」
「どうする? 監視はつづける?」
溝口に問われて、十夜はうなずいた。
「ああ。しかし見ているだけでいい。不審な行動があったわけでもないのに、飛びかかるのはやりすぎだ」
「了解」
「十夜はやさしいからなー」
秋がくるりと体の向きを変える。
「それじゃあそういうことで。おじゃましました」
「すまんが頼む」
とっとと出て行く秋を追って、十夜も部室をあとにした。
クラブハウスの廊下で、体操部の五島と京堂の両名とすれちがう。
「おう」
「こんちはー」
五島はしぶく、京堂は軽薄そうに、挨拶をする。
十夜も挨拶をかえしながら、五島の右手にさげられた黒い毛のかたまりをちらりと見た。
「ああこれ? 五島さんが殴り壊しちゃったんですよ。情報屋さんとこの端末みたいだから、今から謝りにいくんです」
「謝るんじゃない。苦情を申し立てに行くんだ。誤作動を起こしたからな」
「そうか」
十夜はうなずいて、二人を見送った。
秋はというと、体操部の二人になど目もくれず、少し行った先で携帯を片手に誰かと通話をしていた。
「そう。だから、三日ちゃんと千佳ちゃんにはお礼を言っておくんだよ」
近づくと、そう話しているのが聞こえてくる。
「じゃあね。今日は補習がある日でしょう。終わったらおいで」
「奏か」
携帯をしまった秋に問う。
「うん、そう。あいかわらず嫌そうな声をしていたよ」
秋が目をほそめた。
シャープな顔だちをした後輩を思い浮かべて思う。
性質のよくないやからにばかり気に入られる彼は、気の毒だ。
放課後、任意の補習授業が終わり、帰り支度をした生徒たちが教室を出ていくと、奏は廊下を追いかけて、望月 三日に声をかけた。
「望月さん」
「ああ、三鷹くん。今日の英語、たくさん宿題でちゃったね」
「うん。……あのさ」
並んで昇降口に向かいながら、奏は重い口をひらく。
「昨日はマフィンをごちそうさま」
「え、あれ? 三鷹くん食べたの?」
「その、昨日はちょうど、生徒会の手伝いをしてたんだ。クラス委員なんて、生徒会の下請けのようなものだから。そうしたら、副会長がさしいれを持ってきて」
「そうなんだ。まさかあのマフィンが三鷹くんの口に入るとは思わなかったな。ちょっとだけびっくり」
「おいしかったよ。お腹がすいていたから、たすかった」
「よかった」
三日の眼差しがやわらかな光をおびた。
「それで副会長が、望月さんと大瓦さんに会ったらお礼を言っておけって。急に二人の名前がでるから驚いたよ。家庭科部だったんだね」
「ええ、そうなの。運動部とちがって、のんびりとしているから楽しいよ」
奏はいくぶんためらいがちに、質問を口にした。
「部活ではどんなことをしてるの」
「かんたんなお菓子や軽食を作ることが多いけど、小物を作ったこともあるよ。まだ、はじまったばかりだからよくわからないんだけど、来月からは皆がそれぞれ興味のあることを話しあって、活動内容を決めていくみたい」
「へえ。なんだかいいね」
「でしょう」
三日がはにかんだような笑みをみせる。
こうしてみると、三日はあらためて美しい少女なのだと感じる。
(きれいだけど、すこし、世間離れした美しさだよな)
まっすぐな長い髪も、にじみ出る品のよさも、不思議と人間くささを感じさせないのだ。
(秋さんに監視対象だなんてふきこまれたせいかな)
しかしこうして話しているかぎりでは、三日にうしろぐらい部分があるようには思えない。
背すじがのびていて、一見すると気高いようなのに、内気な性格のせいか、いつもひかえめにしている、とらえどころのない女の子だ。
「どうして家庭科部に入ったの」
そうたずねると、三日はすこし考えるそぶりをみせた。
「……そうね。調理、とか、お裁縫とかでも、それって自分やまわりにいる人が心地よくなるためにすることでしょう。生きるために必須だからやるわけではなくて、生活を充実させるためにすること」
「そうだね」
「そこが不思議で、興味があったの。人間らしさって、なんだろうと思って」
(――それは、聞きによっては、人間ではないと言っているようにもとれるよ)
そう、彼女に告げてみたかったけれど、奏にそこまでの思いきりのよさはなく、困惑をあいまいな表情でごまかした。
「ずいぶんと難しいことを考えているんだね。オレはてっきり、料理が好きだからとか、そういう答えが返ってくるんだと思ってた」
三日は、二度三度とまばたきをする。
「もちろん、おいしいものを食べるのは好きよ」
「だったら一緒だ。オレもおいしいものは好きだからね。まあ、自分では作らないけど」
「作らないの?」
「つい、時間がもったいない気がしちゃってね」
「――ああ」
三日はふいに、まじめな表情になって、目をふせた。
「時間を惜しむ、か。――それもよくわからない感覚だなあ」
くちびるからこぼれ落ちたつぶやきを、しかし奏は聞き逃さなかった。
三日の顔をのぞきこみたい衝動をおさえて、視線をさまよわせる。
と、そこで、奏は息をのんだ。
(――うっそだろ。タランチュラ!)
本物かどうかはわからない。クモにくわしくなどない。
だが、子どものにぎりこぶしほどもありそうな大きなクモが床を這い、斜め後方から音もなくにじりよってきていた。
毛のこわそうな黒い胴体に、人の警戒心をかきたてる赤い斑点模様が入っている。
足の一本一本に、顔のパーツまでもが、はっきりと視認できた。
背中を冷や汗がつたう。
(これ、毒がある。絶対)
見る者にそう信じこませるにたる、禍々しさを全身から発している。
(どうする)
奏は迷った。
ちらりと三日の背中に目をやる。
思考にひたっているのか、うつむいたままで、クモに気づいた様子はない。
意を決し、奏はベルトの内側から、ひとさし指ほどの長さの銀の小刀を取り出した。
右手に二本、かまえて息をととのえる。
ナイフ投げのコツは、二年の音無 百々(おとなし もも)に、以前教わったことがある。
百々とは違い、自分の場合は急場しのぎていどにしか使えないが、ないよりマシだ。
奏は小学生のころから弓道を続けていたし、的へ当てるという点では、気構えは同じだろう。
そう自分をふるいたたせ、ひとおもいに投げた。
一投、二投と、銀の刃は吸い込まれるようにクモの背をつらぬいた。
ガツ、とひびいた音に、三日が肩をふるわせる。
「え、なに?」
とっさに奏は三日がふりかえらないように肩を押し、ものを拾うしぐさをみせた。
「ごめん、携帯落とした」
三日の肩から力がぬける。
「びっくりした。ごめんね、私すこしぼうっとしてたみたい」
手にした携帯のボタンを適当にいくつか押しながら、首をふる。手に汗をかいていた。
「いや。そういえば、望月さんは、もうまっすぐ帰るの?」
三日が小首をかしげて奏を見る。
「ええ。そのつもりだけど、三鷹くんはちがうの?」
「オレ、今メールがきちゃって。書類の不備がみつかったから、整理を手伝えだって。生徒会室に行かないといけなくなった」
「ええ、たいへん」
同情の色をみせる三日に、奏はわざとらしくすねた表情をしてみせる。
「貧乏くじひいた気分。でもまあ、しかたないから行ってくるよ」
「そう。早く終わるといいね。生徒会とかクラス委員とかって、いままであまり感心がなかったけれど、けっこう忙しいものなのね」
「うん、忙しい時期もあるっていうだけで、いつもじゃないよ。じゃあここで。気をつけて」
「わかった。さようなら」
「また明日」
立ち去る三日の背中が消えるのを見届けて、奏はようやくうめき声をあげた。
「……しんどい」
うなだれたまま、動かなくなった毒グモを見やる。
「どうすんだよこれ」
善良な一般人たる自分には手に余る。
こわごわ近づいてみると、廊下には赤黒い血がにじんでいた。
奏は遠い目をする。
(また結界に穴があいたんだろうな)
学園を囲う結界が正常に機能しているなら、悪霊もあやかしも、害虫のたぐいだって、校内に侵入するおそれはないのだ。
ここ数日のあいだ、外部からこれを破ろうとする試みがくりかえし行われていて、管理をまかされている九条などは、見ていて気の毒になるほど奔走している。
いくら山の中だとはいえ、このような毒グモがいるという話は聞いたことがない。
「こいつも化け物か」
憤りをこめて、吐きすてた。
しばらく考えたあげく、クモはナイフごとハンカチにくるんで、トイレからかっぱらってきたトイレットペーパーでぐるぐる巻きにし、生徒会室に置いてくることにした。
案の定全員出払っているらしく、部屋は無人だったので、『毒グモ在中。取り扱い注意』のメモとともに、机の上に放り出した。
秋に顔を見せろと言われていたけれど、一応足は運んだのだし、向こうも忙しいのだろうから言い訳はたつだろうと、これで帰ることにした。
そうと決まれば善は急げだ。うっかり顔をあわせないように、そそくさと家路を急いだ。
道中、望月 三日のことを思いおこした。
奏の知るかぎり、あやしげな能力をもつ者ほど、気配に聡い。
もしも演技でないとしたならば、三日はそうとうニブい部類に入ると思う。
「彼女、この学校でやっていけるのかな」
ひとごとながら、気になった。