第五話
夢見が悪かったなんてものではない。
げっそりとやつれた顔にクマをこしらえて、三日はとぼとぼと登校していた。
世間は平和だ。
常ならば心の浮き立つような小春日和だ。周囲を歩く生徒たちの表情は明るい。
ひとり三日だけが、寝不足もあらわな沈んだ面持ちで歩いている。
バス停から山道を五分ほどのぼり、昇降口へと至る。
頭がずんと重かった。
「望月さんおはよう」
声をかけてくれるクラスメイトに、適当に返事をしながら教室へむかう三日の前に、
かの生徒会長と副会長が、そろって姿をあらわした。
「あれ、三日ちゃんおはよう。すごい顔だね、どうしたの?」
「……ああ、一之瀬さん」
面倒な人たちに会ったと思った。なにより、口をひらくのが億劫だった。
「寝不足か」
十夜が眉をひそめる。
「そのようだね。だめだよ三日ちゃん、睡眠不足は女性の敵だよ。……にしても、くらい顔だね。大丈夫?」
「少し夢見が悪かっただけです」
「夢を見たのか」
低く十夜がつぶやく。
「ええ」
「ふうん、よほど嫌な夢だったんだね、かわいそうに。調子が悪そうだけど、保健室に行く?」
いかにも親切めいた声の調子で、秋が問う。
「いえ、平気です」
「そうかな、大丈夫なようには見えないけど。無理はしないようにね」
「ありがとうございます」
そう答える三日に対し、十夜はなぜか不機嫌そうに目をすがめた。
だが今朝の三日には、その視線を受け止めるだけのゆとりはなく、うつむいたまま頭をさげた。
「教室に行って、すこし休みます。それじゃあ」
「お大事に」
薄い笑みを口元にはいて、秋が手をふった。
「秋」
力ない足取りで立ち去る三日を見送ると、十夜は表情をあらためて、厳しい口調で秋を責めた。
「彼女に干渉したな。勝手なことを。必要ないだろう」
「必要だよ。怪しいものは疑ってかからないと」
十夜は目を細めた。
腰の重い自分とは異なり、この男はフットワークが軽い。
互いに補い合うことで、生徒会が機能しているのは間違いなかった。
「……何かわかったのか」
問われて、秋は困ったように表情を崩した。
「忍耐力はそれなりにあるけど怖がりだってことと、ムカデが嫌いだってことくらいかな。ああ、あと泳げない」
「それで?」
「それと僕のことは知らない様子だった。夢が人為的なものだってことは、気づいてなさそうだったからね」
やれやれと首をふる。
いましがた会った、憔悴した様子の彼女の顔が頭をよぎる。
自分の手を染める血に気づいていながら、さして驚いたそぶりもみせない少女が気にはかかるが、かといって、それだけで夢の中身を引っ掻き回すなど、やられるほうはたまったものではないだろう。
「まだ続けるつもりか」
「もちろん」
「……ならば、今夜は俺も行こう」
羽目をはずしがちなこの男の、ストッパーになるのは自分の役目だ。
秋が首をかしげた。
「来るの?」
「ああ。お前は加減を知らないからな。ほうっておけないだろう」
「ふうん、まあいいけど。じゃあ次は趣向を変えて、話しかけてみようか」
口元に手をあてて、秋が言った。
「昨夜は、反撃するそぶりもみせなかったんだ。真っ向から問いつめたほうが早いかもしれない。嘘のつけない空間で、あの子が何を語るのか、みものじゃないか」
楽しげな秋に、釘を刺す。
「あまり遊びすぎるな」
まるで気に入りのおもちゃを見つけたような態度の秋を見て、不運な新入生に憐憫の情をいだく。
「それと、ホームルームがはじまる前に、校舎の外を見回りに行くぞ」
「ええ、嫌だなあ」
不満の声をもらす秋に、十夜は告げた。
「小物がうろついているんだ。駆除しておかないとまずい」
「見回りいつまで続くのさ。どこのバカだよ、いい加減にしてくれないかな」
それには十夜も同意を示すしかなかった。
「ああ、まったくだ」
――この日は、学園内の空気がざわざわしていた。
小さなトラブルが頻発し、生徒たちも皆、落ち着きをなくしているようだ。
三日も、どこからともない視線を感じることが幾度かあった。
昼食後、いくぶん気分も上昇していた三日は、千佳とわかれて図書館へ行こうと思いたった。
昨日見たツルバラが印象的だったので、花の咲く植物について書かれた園芸書を読んでみようと考えたのだ。
実際に購入するかどうかはわからないが、花の名前を覚えるだけでもたのしそうだ。
そんなわけで、図書館へとつづく渡り廊下を歩いていたときのことだった。
「おい、あぶないぞ!」
ふいに野太い声がかけられ、ふわりとあたたかな風が体をつつんだ。うしろから、三日を押しのけて立ちふさがる人物があった。
男は、はっとする三日に背をむけて身構えると、とつぜん茂みから飛びかかってきた黒いかたまりを、太い腕ではらいのけた。
べちゃ、と、弾力のあるものが壁に当たる、嫌な音がする。
半透明な体液をこぼし、廊下のすみに落ちたのは、黒いネコだった。
大柄な男は、倒れるネコをつまみあげ、口の中をのぞきこむと言った。
「ロボットだな」
突然の出来事に、わけがわからずにたちすくむ三日の肩を、誰かがたたいた。
振り向くと、さきほどの男ほどではないものの、筋肉質な体つきをした青年が、なだめるように三日を見つめた。
「大丈夫? 災難だねえ、あんなのにでくわして」
「あの、あんなのって……?」
ネコをぶらさげた短髪の男が、三日のほうに戻ってきて言った。
「眼球にカメラがしこまれているようだ。たぶんこれは情報屋の目だな」
「あーあ、壊しちゃってよかったんですか? 叱られますよ」
「しかたないだろう。この娘さんが襲われそうだったんだから」
三日の肩に手を置いたままの青年が、首をひねる。
「でもそれって変ですよねえ。情報屋のって、あれはただの悪趣味な監視カメラでしょ? 人を襲うなんてはじめてききますよ、バグかなあ」
「知らん」
「物騒な話ですねえ。お嬢ちゃんも怖かったね?」
「あっ、はい。ありがとうございました。たすかりました」
「いや。ケガがないならなによりだった。これの持ち主には苦情を言っておく」
「あのう、持ち主って誰なんですか」
三日がおずおずとたずねる。
「情報処理部で、のぞきやハッキングまがいのことをやっている、困ったヤツがいるんだよね。お嬢ちゃんは新入生? かわいいねー」
「京堂。軽薄なまねはするな」
「軽薄じゃないですよ。率直な感想です」
「ええと」
ずっと肩に触れられたままの手が気になり、視線をさまよわせる三日を見て、がっしりとした体つきの男がため息をついた。
「まずはその手を離せ。わいせつ行為だ」
「ええ? わいせつってのはこういうのをいうんですよ」
京堂と呼ばれた青年は、肩の上の手をどかすと、腕をまわして三日の腰を抱きよせた。
「京堂!」
地響きのような怒鳴り声がして、京堂が笑いながら腕をはずす。
「冗談ですって。ごめんね、お嬢ちゃん」
「ああいえ」
めまぐるしい会話に、不慣れな三日は目がまわりそうだ。
「ところでかわいいお嬢ちゃん。クラスと名前とメールアドレスを教えてくれるかな」
「は?」
ぶぜんとした男の、せきばらいが聞こえる。
「教える必要はない。不出来な部員が失礼をした。俺は三年の五島だ。今のようなことはめったにあるわけではないが、気をつけたほうがいい」
「五島さん、ムキムキでしょ。体操部の部長をやってるんだよ。こんなに重そうな筋肉をしてるのに、鉄棒とかくるくる回っちゃうんだ。面白いから見学においで。美人はいつでも歓迎だよ」
「へえ、体操部。すごい」
五島と京堂のがたいのよさにも納得である。
「オレは京堂。友哉って呼んでもいいよ。お嬢ちゃんは部活なにかやってるの?」
「あ、私は家庭科部に入ってます。望月 三日です」
ぺこりと頭をさげる三日を、京堂がしまりのない顔で見つめる。
「へえ、女の子らしいねえ。これから、ことさらによろしくね」
「ええと、よろしくおねがいします」
「今度、家庭科部に遊びにいってもいい? 部活、何曜日にやってるの?」
「火曜日と木曜日です。遊びに来ていいかどうかは、私にはちょっと……」
わからない、と続けようとした三日の言葉をさえぎって、京堂は大きくうなずいた。
「明日だね。わかった」
「え、あの」
「そこまでだ」
不毛な会話を打ち切って、五島は京堂の頭をつかんだ。
京堂があわてて身をよじる。
「ちょっと、痛い、痛いですって!」
「下級生に迷惑をかけるな」
「かけてませんよ。仲良くなろうとしてただけでしょ。ねえちょっと、自分の馬鹿力をわきまえてくださいよ!」
「知らん。行くぞ」
わめく京堂をひきずって、五島は「邪魔をしたな」と声をかけ、クラブハウスのある方角へと歩いていった。
あたりには、さわやかな春の風だけが残る。
ぽかんと二人を見送って、三日はつぶやいた。
「なんだったんだろう。にぎやかな人たち」
そうして、騒ぎのきっかけとなった、黒ネコの残した壁のシミを、けげんなおももちで眺めるのだった。




