第四話
「王子様?」
芽衣と京子が首をかしげる。
「そう。西洋風の王子様です。ハーフらしいんですけど、金髪碧眼の美男子で、スポーツも万能なんですって。あたし、一回でいいから会ってみたいなあ」
「へえ、それって八重樫高校でしょう」
「はい、そうです。もしかして京子さんも知ってましたか、王子様のうわさ」
「いや、それは知らないけど、八重樫とだったらうちは交流が多いから、顔をあわせる機会くらいはあるんじゃないかな」
「え、本当ですか!」
「そうね、毎年夏には両校交流イベントがあるわね」
「えええ、すてき! じゃあ八重樫の学校祭まで待たなくても会えるんですね」
千佳がガッツポーズをとった。
「まあ、中身はただのゴミ拾いなんだけどね」
「かまいません。うわさの二階堂くんに会えるなら、ゴミくらいいくらでも拾ってみせます」
「名前までチェック済みなのか。頭がさがるね」
「人の顔と名前を覚えるのは得意です」
だから千佳は日本史が得意なのかな、と考えていると、微笑みをたたえた芽衣と目が合った。
「三日ちゃんは興味ないの? そのうわさの王子様」
「うーん、私は、顔とか運動神経とかにはあまり」
「それじゃあ、どういう男の子だったら好き?」
「男子だからってわけじゃないですけど、一緒にいて落ちつける人がいいです」
「わかるわ。それってとても大事なことよね」
「なるほど。ミカと芽衣先輩は相性重視なんですね。あ、京子先輩はどういうタイプが好みですか」
京子はひとつまばたきをして、それから静かにこたえた。
「私は、――心が豊かで優しい人がいいな」
そう告げる京子の瞳は、思わずみとれるほどの慈愛に満ちていて、こんなふうに想いを寄せられる人は幸せだろうなと、すこし羨ましく感じた。
ほんのりと胸があたたかくなったところで、室内に電子音がひびく。
「皆さん、マフィンが焼けましたよ」
朝倉の声にうながされて、四人は席を立った。
「ちょうど紅茶もはいったところだから、お茶にしましょうね」
「はーい。わあ、いい匂い」
「本当。おいしそうね」
オーブンから熱々のマフィンを取り出し、皿に取りわけていく。
「お天気がいいから窓際で食べましょうか」
朝倉の勧めで、おのおの紅茶とマフィンを手に取り、席をうつる。
窓は中庭へと続く小道に面していて、開け放たれた窓から、園芸部の手によるツルバラが目を楽しませてくれる。
「きれいに咲いてますね」
三日がつぶやくと、芽衣があいづちをうった。
「ええ、本当に。よく手入れしてくれているのよね」
「いいな、きれいだなあ」
植物は好きだが、家には盆栽がひとつ置いてあるきりだ。
(花が咲くのもいいかもな)
「そら、食べようか」
花にみとれる三日の注意を京子がひき、皆はそろって手をあわせた。
「いただきます」
「あつそう」
ねこじたの三日が息を吹きかける横で、京子はかまわずにぱくりとかぶりつく。
「甘い。おいしい」
「ナッツのほうは甘さがひかえめで、素朴な味がしておいしいわよ」
「芽衣さんは木の実が好きだもんね。じゃあ次はそっちを食べてみるよ」
「うんうん、両方おいしいです」
三人に少し出遅れる形で、三日はナッツとシナモンのマフィンをかじってみた。
生地はしっとりとしていて、シナモンの刺激の後にバターの香りが口に広がり、頬がゆるむ。
「おいしい」
「ああ、本当だ。とてもおいしそうだね」
ふいに声がかけられ、見ると窓のむこうに一之瀬 秋が立っていた。
「副会長!」
千佳が声をあげる。
「一之瀬くん。どうしたの? こんにちは」
「やあ芽衣ちゃんこんにちは。そっちの子たちは昼に会った二人だね、家庭科部だったんだ」
「はい」
「いいな、部活楽しそうだね。僕なんか校内の見回りに駆り出されていて、もうくたくただよ」
「あら、そんなに忙しいの?」
「うん、まあ春だからね。どこも浮き足立ってるみたい。きみたちは今日は何を作ったの? すごくいい香りがする」
「チョコとナッツのマフィンを焼いたんです。あの、たくさんあるのでよかったら副会長も食べていきませんか?」
そう言って腰を浮かせる千佳に、秋は礼を述べた。
「ありがとう。でも皆が待ってるから行かなくちゃ。また今度ご相伴にあずからせてもらってもいいかな」
「はい。あ、じゃあ皆さんのぶんもお土産にどうですか?」
「そうね、今日はたくさん作ったから、持っていってもいいわよ」
「本当? それは助かるよ。実は昼を食べそこねちゃって、お腹がすいてたんだよね」
「あらたいへん」
「ちょっと待ってください、すぐに包みますね」
千佳が持ち帰り用の小袋を手にし、いくつか中に入れていく。
「家庭科部は我が校の癒しだね。皆あまりに優しくて、涙が出るよ」
京子がトゲのある口調で言った。
「大事な部員たちです。ちょっかい出さないでくださいね」
「やだな、人聞きの悪いこと言わないでよ」
「念のためです」
三日は胸の内で京子にエールを送った。
初対面での印象が悪かった人物に、一日に二度も会うとは思わなかった。
「はい、これどうぞ」
千佳がポリ袋に入れたマフィンを差し出すと、秋は笑顔で受け取った。
「ありがとう。皆も喜ぶよ」
千佳の頬が上気する。
「放課後まで見回りなんてたいへんですね。おつかれさまです」
「これを食べてがんばるね。……ああそうだ、三日ちゃんっていったよね。ちょっといい?」
窓越しに手招きをされて、三日の顔がこわばった。
「なんですか」
嫌々足を運んだ三日に、秋が露骨な愛想笑いをする。
「昼に会ったときから、気になっていたことがあるんだ」
(ほらまた)
相手を見定めようとするかのような、秋の視線が三日に刺さる。
睨まれることをした覚えはないと言いたいところだけれど、きっと秋にとっては敏感にならざるを得ないことなのだろう。
(そんなにあの血みどろの手は見ちゃいけないものだったのかな)
もっと上手に、見なかったふりができたらよかったとでもいうのだろうか。
勘弁してほしいと思いながら、言葉の続きを待っていると、秋は両頬に手をのばした。
「さっきは十夜に邪魔されて見られなかったんだけどさ。――ほら、やっぱりきれいだ」
秋は、三日のかけていた眼鏡を奪い取り、瞳をのぞきこんだ。
三日は息をのんだ。
(わ、藍色)
裸眼で見つめる秋の瞳は、深夜に見上げる空の色をしていた。
気を抜くと吸いこまれそうな、魔性の色だ。
その瞳が、怪しい光をたたえてきらめく。
「素顔、見てみたかったんだよね。眼鏡も知的でいいけれど、コンタクトにはしないの?」
「……眼鏡が、気に入っているので」
「そう」
口角をつりあげて、満足をした様子の秋は、三日の顔にそっと眼鏡をかけなおした。
とたんに、秋の夜の闇を秘めた瞳はなりをひそめ、穏やかな茶色い瞳にとってかわる。
緊張にこわばる体をおして一歩さがり、息をつく。
真横でなりゆきを見ていた千佳が、「おお」と声をあげ、秋に嬉しそうにくってかかった。
「副会長、もしかしてミカにお熱ですか」
一瞬、何を言っているのかわからずに間抜け面をさらす三日の前で、秋は、顔をそむけるとふきだした。
「お熱っていつの言葉さ。いやいや違うよ、ただの好奇心。千佳ちゃんかわいいね、気に入ったよ」
「一之瀬 秋」
京子が低い声で名を呼んだ。
「なにかな」
「ちょっかいを出すなと言ったばかりなのに。お菓子を持ってとっとと業務に戻ったらどうです」
鋭い視線をむける京子に、秋は肩をすくめた。
「はいはい怖いな。それじゃあ千佳ちゃんに三日ちゃん、今度は過保護な保護者のいないところでね」
手をふり立ち去る秋に、千佳がにこやかに手をふりかえす。
三日はどうにも消化しきれないもやもやをいだいて、席に戻った。
その後に食べたマフィンは、もう湯気を出してはいなかった。
今日は部活も早くに終わり、一本早いバスに乗って帰宅した三日は、「ただいま」と声をかけて家に入った。
陽が延びたために、外はまだ明るく、一見しただけで部屋に人気のないのがわかる。
「今日は来ないかな」
そうつぶやいて、そのまま三日はきびすをかえし、外に出ると隣の家のインターフォンを押した。
三日の住むマンションはワンフロアに二軒しかなく、A棟B棟と横並びに棟がつらなっている。
三日の住まいはA棟の三階で、隣りには幼馴染が母親と二人で暮していた。
同い年の皐月は、小さいころから、三日の最も大切な友人だ。
家族同然という言葉があるが、実家を離れた三日には、家族以上に一緒に過ごす時間が多い相手でもある。
皐月の母親が不在のときなどは、よく三日の家に泊まりにくるし、在宅しているときには逆に三日が夕食に呼ばれたりもする。
しばらく待っても返事がないので、三日は合鍵を取り出して皐月の家の玄関をあけた。
部屋の中には入らずに、靴箱の上の飾り棚に、今日作ったマフィンを二人分置いておく。
以前、玄関先に吊るして置いていったことがあるのだが、皐月が嫌がったために、不在の際は室内に入れておくようにしているのだ。
再び施錠をして自宅に戻り、部屋着に着替えてくつろいだ。
「つかれた」
不慣れな学園生活は肩がこる。
「あー、がんばろう」
今日のぶんの課題をやって、食事をとって、お風呂に入る。明日は補習授業のある日だから、そのぶんの予習もしないといけない。
一人暮らしだと邪魔のはいることがないから、勉強がはかどる。
皐月の気配がないことをすこし物足りなく感じもするけれど、三日はゆったりと過ごして疲れを癒した。
そんな夜半に、三日は夢を見ていた。
(悪夢だ)
そうひとりごちるほど、それはまぎれもない悪夢だった。
世界は赤く血に染まっている。
まるで十夜の左手に包みこまれているように、赤くぬめる。
赤黒く曇った空からは時折にごった血のかたまりがドロリと垂れ、大地は臓器のような弾力をもっていて、一歩を踏み出すごとに、靴底がわずかに沈む。
風がなく、大気が停滞しているせいか、じめついていて生臭い。
いつからここにいたのかわからない。
気づいたら見わたすかぎりの血染めの湿地で、ひとりたたずんでいた。
地面に微かな隆起がある以外には、人も獣も建物も、なにひとつとして見あたらない。
どこに行くあてもないなか、転倒しないように気をつけて歩を進める。
三日は学校の制服を身に着けていた。靴も通学に使用している革靴だ。
裾にレースのついた繊細なデザインのスカートや、生成りのブラウスが、汗ばむ肌に貼りついている。
(ここはどこだろう)
暗くよどんだ空に、胸の内まで塗りつぶされる心地がする。
徐々に瞳をにごらせて粛々と歩く三日のくるぶしに、水滴がはねた。
目をやると、何もなかったはずの大地に、小さな血の池があらわれていた。
くすんだ色の大地とは異なる、鮮血の池だ。
池の周りには血があふれていて、どうやら三日はこれを踏んだらしい。
足を止めて池を見つめる三日の耳に、物のこすれあうような微かな音が届いた。
神経を逆なでするような、不穏な音だ。
わきあがる嫌悪感に肌があわだつ。
緊張のあまり、きしんだ音をたてそうな首をなんとかひねり、背後を見る。
ムカデが、地平を埋めつくさんばかりに大挙して、うごめいている。
真っ赤な世界に、突如としてあらわれた異物だった。
もはや、大地を覆うものは血の赤ではなく、ひしめきあう琥珀色の生物だった。
百足という名の通り、無数の足をカサカサといわせて、こちらに押し寄せるようだ。
あわてて視線を転じると、いつのまにかムカデは池の外周をぐるりと取り囲み、地を這い、三日に迫っていた。
三日は恐怖に凍りついた。
弱々しく、いやいやと首を横にふった。
悲鳴もでなかった。
三日にとって、この世にムカデほどおぞましいものはほかにない。
心の中で泣き叫びながら、逃げ場のない世界を見わたした。
目の前には、底の見えない血の池がひろがる。
せまりくるムカデの気配に耳をふさぎ、三日は表情の抜け落ちた顔で、池に飛び込んだ。
むっとする生暖かい血液が口に入る。
目をつむることはできなかった。
――三日は泳げない。
口からゴボリと空気がこぼれ、三日は喉をかきむしり、沈んでいった――。