第九話
またひとつ界を渡った。
さきほどまでいた体育館とは異なり、ここは静かだ。
だだっ広いだけの漠として何も見当たらない空間に、三日と、九十九と、そして京堂が立っていた。
「はじめまして、望月 三日さん」
見たところ九十九は機嫌がいい。
「眼鏡はずしたんだね、お嬢ちゃん。普通にきれいでつまらないな」
京堂が、三日に九十九をボスだと紹介した。
ならばこれが噂のコレクターかと意識して見つめてみたが、とりたてて怪しい気配は感じない。
京堂と同じく、人間なのかもしれなかった。
入学当初の三日ならば、動揺するだけで何もできなかっただろうが、今は不思議と落ち着いていた。
自分を偽るのはやめたのだ。
「後援会の会長さんが、私に何か用ですか」
着崩した和装がよく似合う。そのおもてには生気がみなぎっていた。
なぜ自分をここへ引っ張ってきたのか疑問には感じるものの、そこへの不安や怒りはない。
ただ、騒動をおさめて、先ほど倒れた友人を元に戻してやりたいという気持ちばかりが胸を占めていた。
九十九は瞳を輝かせて三日を見つめている。
「ああ、会いたかったんだ君に。少し話がしたくてね。ここなら邪魔が入らないだろう」
「話をしたら、帰してくれますか。私だけじゃなくて、体育館の皆も?」
「もちろんだよ。なにせ、今日の目的は私の好奇心を満たすことなのだから。君に関しては、面白い噂ばかりを耳にするからね、どうしても直に会ってみたかったんだ」
どうやら京堂は、九十九に付き従っているだけで、会話に参加するつもりはないらしい。
少し離れたところで腕を組んで見守っている。
なので三日も、九十九に視線を固定して、続きをうながした。
「私のどこがそんなに興味をひいたのでしょう」
これでも大人しく無難に過ごすよう心がけていたのだ。
「もしかして……、あなたも私を人魚だと思ってらっしゃいます?」
「ん、違うの?」
「誤解です」
「そう。だったらこう訊ねてみることにしよう。君は人魚とはどんな係わりがあるのかな」
ギラギラとした目を向けられて、わずかに気持ちが引き締まる。
この質問にはあまり答えたくない。だって、何を血迷ってか、稀に人は人魚を食べようとするから。
「人魚の血肉を口にしても、不老不死にはなれませんよ」
「うん、知ってるよ。むしろ即死するんだよね」
「……食べないでくださいね」
「食べないよ。それで、質問には答えてもらえるのかな」
三日はしぶしぶ口をひらいた。
「親の親が……人魚だったと聞いています」
「へえ。人魚の孫か。なるほどねえ!」
「もし、あなたが人魚を探しているというであれば、お役には立てません。人魚がかつて五宝湾にいたということは知っていても、今どこにいるのかはわからないんです」
「うんうん、いいんだ。そうか、孫か。そのせいで君の体液には解毒作用があるのかな」
「……よくご存じですね」
三日は渋面を作った。初対面の人間に個人的な事情を知られているというのは、思いのほか気持ちがわるい。
「陸にあがった人魚は二度と海に戻れないというよね。それに人魚は日焼けもしないんでしょう。ずいぶんと能力を濃く受け継いでいるね、さすが人魚は血が濃いのかな」
たしかに三日は泳げない。母も同じだ。
海から追われた人魚の血を引く者は、二度と海には入れない。
「もしかして、それを確認するために私は昨日プールに落とされたんですか」
あっさり肯定する九十九に、頭を抱えたくなる。
「ひどいじゃないですか。泳げないと知ってて突き落とすなんて」
恨み言などものともせず、九十九は、「確認は大事だから」と言い放つ。
「君は力も強いんだってね。それも人魚の特性?」
「さあ、どうなんでしょう」
実を言うと、怪力は父方の祖母の血のせいなのだが、それを言っても詮無いことだ。
「ご満足いただけたなら、そろそろ戻りたいんですけど」
しかし九十九は指を振ってさえぎった。
「んー、だめ」
「ちゃんと正直に話しました」
「うん、でも、――まだ隠していることがあるよね?」
九十九の袖がふわりと揺れた。手にはみっつめの水晶が握られた。
「辻褄の合わないことがいくらもある。私は全てが知りたいんだ。君のお父さんのことなら、調べたらすぐにわかった。お祖母さんは禁山に住まう鬼だったんだって? 鬼退治のプロとターゲットが結ばれるなんて、おとぎ話のようだね」
九十九は一歩後ろに下がった。
「けれど、母親の方はだめだ。何もわからない。耳を疑うような逸話ばかりが漏れ聞こえてくるだけで、年齢も出生地も不明。――私は本当はね、君のお母さんにこそ興味があるんだ。もう百年も二百年も昔から、今と同じ姿で生きているというのは本当なのかな。この街のすべてが君のお母さんに従うというのは本当なのかな」
「……知りません」
「それっておかしいよね。人魚の血筋だから長命だというだけでは説明しきれないことが、君のお母さんにはたくさんあるようだ。ほらね、興味がわくだろう。どきどきするよね」
とうとうと九十九は喋る。
「君は本当にあの二人の子どもなの? 言ってはなんだけど、それにしては普通すぎやしないかね」
「え」
思わず三日は目をまたたいた。そんなこと、言われたのは初めてだ。
「子どもです」
「義理の母とかじゃなく?」
もちろんそうだ。あんな現実離れした人を母と呼べるのは自分くらいなものだろう。
「はい」
「ふうん。君のお母さんって、何者?」
水晶がつるりと光る。
「答えたくありません」
「そう?」
見つめる先で、水晶が手のひらから落ち、床に砕けた。
「残念」
破砕音が響き、破片が飛び散った。
同時に、九十九と三日の間の空間にひずみが生じる。
三日の全身を、悪寒が走った。
「何――」
ざわざわと、禍々しい気配がする。
とても大きな影がにじみ、徐々に形を成していくのを、茫然と見ていた。
「君が苦手だと小耳にはさんでね」
三日は後ずさった。
九十九の背後に回った京堂が、困った風に眉を寄せる。
「ごめんな、以前盗み聞きしたんだ。お嬢ちゃん、嫌いなんだって? ムカデがさ」
「いじめたいわけじゃないんだけどね。でも、君が本当に彼女の娘だというなら、このくらい余裕であしらえるんじゃないかと私は思うのだけど」
ギザギザの長い体躯にうごめく足が幾本も生えている。
繊毛のこすれる音が肌を粟立てる。
「……いや」
かすかに痙攣する喉から絞り出された声に力はなかった。
「やだ。いや、――やめて」
いまやはっきりと呼び出された、全長五メートルはあろうかという大ムカデを前に、三日は茫然と立ちつくした。
(――ああ)
ぐらぐらとめまいがする。
(息ができない。こわい。怖い!)
ヒューと、喉が鳴る。
まばたきも忘れて恐怖に震える三日の周囲を、ムカデが円を描くように這い出した。
「たす――けて」
顔色を失った三日の有様に、京堂のおもてが曇る。
「お嬢ちゃん。……なあ、ボス。本気で苦手そうだぞ」
「待って」
詰め寄る京堂を手で制し、九十九が周囲を見回した。
「……揺れてる」
大気が音をたてて振動していた。
この場で地震など起きようはずもないのに、徐々に足場が震えだす。
「君のしわざか?」
九十九が三日を見定めるように真っ向から見据える。
しかし三日は己の恐怖にとらわれて、他の何事にも目を向ける余裕を失っていた。
(怖い。たすけて。たすけて誰か)
「怖い。怖いよ。やだ、たすけて――」
黒い瞳が揺れていた。
ムカデがぐっと距離をつめる。
「たすけて!」
バン! と、空間に亀裂がはいった。
九十九がはっとして三日を制止しようとする。
「やめろ、壊れる――!」
「三日!」
唐突に、三日の眼前に二人の人物が降り立った。
「やめるんだ、三日。呼んじゃいけない」
ムカデと三日の間に割り込むように姿を現したのは、秋に連れられた涼一だった。
彼は慌てたそぶりで三日の腕をつかんだが、ぎゅっと目をとじて震える様に気づくと、眉をひそめて背後のムカデに冷たい眼差しをくれた。
「こんなもののために……」
「うわあ、おっきい虫だねえ」
秋がおののいて目を丸くする。
「何これ、ムカデ?」
「そうだよ、ムカデだ。まったく。三日はこれが嫌いなんだよね。でも、大丈夫。大丈夫だよ」
「いやだ、やだ、やだ。こわいの……」
誰かの気配は感じたものの、それが誰なのかまではわかってなかった。
すすり泣くような声をもらす三日を背にかばうように立ち、涼一はその歯で腕をざくりと切り裂いた。
肘から手首にかけて、一筋の大きな傷が走る。ぼたぼたと鮮血がしたたった。
「忌々しい」
ムカデに向かい、傷ついた腕を振り払う。血液が、ムカデの全身に降り注いだ。
「うわ」
九十九の後ろで、京堂が目を見張った。
ムカデがのたうち回る。
命をおびやかされているのが見てとれた。苦悶の叫びが伝わるようだ。
じゅっと音を立てて煙りがたち、見る間に身体が蒸発していく。
秋の喉もごくりと鳴った。
「すご……」
ただひとり、九十九だけが瞳を爛々と輝かせている。
「なんとすばらしい。あの血、――本物だ」
対する涼一は、冴え冴えとした瞳で九十九をねめつける。
「俗物め。何をしたかわかっているのか」
吐き捨て、三日をそっと抱き寄せた。
ムカデは、あとかたもなく消え失せた。後には、血のにおいだけが立ちこもる。
「三日。三日、もう大丈夫。怖いものは消えちゃったよ」
こわばる肩がぴくりとはねた。
「……うそ」
「本当だよ、もういない。怖がらなくていいんだよ」
おどろくほど甘い、優しい声に、三日はおそるおそる目をひらいた。
「いない?」
「そうだよ、ごらん」
「――ほんとう」
そうして三日はぱちぱちと目をまたたいた。
「涼一さん?」
「うん」
「どうして? ――ケガ、してるの?」
はっとして身を離す三日に、涼一は首をふる。
「もう治ったよ。かすり傷だ」
血の垂れていた腕を、涼一が振ってみせる。
「へえ、すごいな。本当にもうふさがってるのかい」
首を突っ込んできた秋に、三日が驚く。
「あれ、えっと?」
「一之瀬くんが僕をここまで連れてきてくれたんだ」
「そしたらこの人、急に腕を噛み切ろうとするんだもの、驚いたよ。ねえ、たいした治癒力だねえ。三日ちゃんの、ええと、――恋人?」
きょとんとする三日の肩をなだめるように抱いて、涼一は首をふった。
「それは違う。ただの祖父だよ」
「そう、祖父、――って、ええ! 祖父って祖父のこと?」
「うん、まあね」
驚きをあらわにする秋を見つめて、数秒ののちに三日も声をあげた。
「え! なに、え、ええ!?」
秋が呆れた眼差しで二人を見比べる。
「三日ちゃんはなぜ驚いているのかな。いやしかし、お若いおじいさんですねえ」
「いや、若くはないんだけどね」
「それもそうか」
笑顔を交わす二人に、三日は開いた口がふさがらない。
「なに――。涼一さんはおじいさんじゃないよ?」
涼一が包み込むような瞳で三日を見つめた。
「いや、間違いないよ。僕は三日の祖父だ。きみが生まれたときから知っているよ」
「だって、おじいちゃんは……」
祖父は健在だ。神社で三日の帰りを待っている。
そしてもう一人の祖父は――。
「……うそ」
三日はまじまじと涼一を見つめた。
「お母さんの、お父さん……?」
にこりと微笑んで、涼一がうなずく。
「もちろんそうだ。いい子だね」
あっけにろられる三日の頭を、涼一が汚れていない方の手でよしよしとなでた。
「おじいちゃん。おじいちゃんは、だって――」
「人魚だというのでしょう」
九十九が、興奮もあらわに口をはさんだ。
「すばらしい。本物の人魚だ。ぬめる白い肌に猛毒の血液……ああ!」
「信じられない……」
三日が知っている祖父にまつわる話というのは、かつて山の神と出会ったことで海を捨てた人魚がいたという、ただそれだけだった。
もう何百年も前の話だ。
山の神は娘をひとり産み落とし、眠りについた。
陸に上がったという人魚は、三日が生まれるずっと前から行方が知れなかったはずだ。
「生きていたんだ」
母に祖父母のことを語られても、おとぎ話のようにしかとらえてはいなかった。
それほど、現実感のない話だったのだ。
「もちろんだよ。人魚は長命なんだ。それに、僕が生きていてあげないと、君のお祖母さんが目覚めたときに悲しむじゃない」
おっとりとしたそぶりで語るこの人が、山神と結ばれた人魚だなどと、にわかに信じられるものではない。
だが、嘘をつく人だと思っているわけでもなく、ただただ理解が追いつかないだけなのだが。
三日は、混乱していた。
「けれどいけないよ、三日。見てごらん、空間に亀裂が入っているでしょう。きみが眠るあの人に助けを求めたせいだ。呼んではいけない。そう教えられていたよね」
「あ……」
人魚が実在するならば、婚姻を結んだという山神もまた存在するのだ。
もちろん存在を感じ取れる以上、疑ったことなどなかったが、――それが祖母だと身にしみて感じるとなると話は別だ。
「お山の、神さま?」
涼一はうなずいた。
「もちろんそうだよ。あの人はまったく嫌になるくらいよく眠っているけれど、血を引く者の呼び声に気づかないなどということはないからね。三日が本気で呼んだら、目も覚ますさ。けれど、それは困るんだ。わかるだろう」
「お山がもしも目覚めたら」
三日はつぶやき、青くなった。
幼いころから、口をすっぱくして教えられてきた。
けして、白睡山の眠れる神を起こしてはならない。山は、人に対して閉ざされておくべきなのだ。
「そんな。ごめんなさい」
「今度から、困ったときには僕を呼ぶといいよ。もうしばらくは、そばにいるから」
三日は悄然として頭を垂れた。
「……何の話をしているのだろう。説明をしてはくれないかい」
じれた様子で九十九が訊ねた。
涼一が三日を抱き寄せ、対峙した。
「君は実に余計なことをしてくれた。アレが蛇の天敵だと、知らなかったというつもりかい」
「蛇?」
京堂が首をかしげる。どうもすっかり現状にうんざりしているようだ。
「蛇。――蛇か!」
一方の九十九は手を打ち鳴らして飛び上がった。
「禁山の白蛇のことだろうか。山神と言っていたものね。まさか、――山神の子なのか、くだんの彼女は。その娘の母親が」
涼一の瞳が冷たくすっと色をなくす。
「しかしそれが特別なことだと思っているのなら、考え違いだ。三日は山神の子どもの子どもだが、この子自体にはどんな力も宿っていないよ」
「まさか」
九十九は笑い飛ばした。
「さすがにそれはないでしょうよ。人魚の血だって生きているんだ。白蛇の力ときたらそんなものの比ではなく強大だろうに」
「人間に彼女の何がわかるというの。愚かしいことだね。己の目で確認したばかりだろうに。たかがアレ一匹に、三日は手も足も出なかったろう。この子はただ、怯えるだけだ。神たる彼女から受け継いだものなんて、三日にはその恐怖心くらいしかないと思うよ。アレは蛇にとっては天敵だ、怖いものなんだという、ね」
「しかし、空間が崩壊の兆しを見せたはず」
「それも三日がやったわけじゃない。孫娘の泣き声に、眠る彼女が目を覚ましかけたというだけ。そして、僕は彼女の目覚めを阻止するために、慌ててこの場に駆けつけたという、そんなところだ」
九十九は涼一の言葉に耳をかたむけるうちに、真剣な面持ちとなっていった。
「この娘が泣くと、山神は目覚めるというのですか」
「彼女は愛情深いんだ。僕が言うんだ、間違いないよ。これでもほら、夫だからね」
情けない顔をして、京堂と秋が顔を見合わせた。
どこに結託する要素があったのか、そっくり同じ表情を浮かべている。
つまり、――勘弁してほしいというような。
「好奇心旺盛なのは人の性だけれど、禁域に手を出すほど愚かなのかな、君は」
「まさか」
「どこで遊ぼうとかまわないが、三日に手を出すのは止すんだね。この子できることなんて、ちっぽけなことばかりだ。危険を冒す価値もない」
「神と、人魚と、鬼と人か」
どこかすっきりとした面持ちで、九十九はつぶやいた。
「なるほどね」
「彼女を眠りから覚ますわけにはいかない。――まあ、僕個人としては構わないんだけど、でも、人は困るんでしょう」
「そうだね」
「使えない可能性に意味はない。そうしたら、三日は残りかすのような解毒力と、わずかな腕自慢のほかには何も持っていない、無力な子なんだ」
「わかった。理解したよ。いい話だった」
「そうなの?」
晴れ晴れとして、九十九は笑った。
「理解したとも! ありがとう。約束するよ、その子には手を出さない。いや、実に面白かった、満足だ」
大股に近寄ってきた九十九が握手を求めて手を差し出した。
涼一は睥睨して無視をした。
「ああ、会えて光栄だったよ、生身の人魚! ひとついいだろうか」
「なんだい」
九十九は両手をもみしぼった。
「床に落ちている血、集めてもらっていってもいいだろう?」
――どうやら、終結の雰囲気だった。
次が最終話になります。