第八話
「橘くん、眠ってしまった子たちを守ってあげたらどうですか。わたしにくってかかるよりも先にね」
「当然だ。ぬかりはない」
界を渡ったためだろう。生徒が整列していた箇所をとりまく結界が視認できるようになっていた。
「ほう、準備がいいですね」
感心したように九十九うなずく。煩雑な手間をかけねばならぬよう、仕向けた当人に褒められたところで、腹立たしいばかりだが。
「九条、頼んだ」
「はい」
囲いからはみ出た生徒をひっぱり込みながら、九条が請け負う。
床に黒々と引かれた線の内側にいれば、当面は安全だろう。
問題は、壇上で浮かれる厄介者に、手を引くよう説得をしなければならないという点だ。
後援会の会長の名前があがった時点で、騒動が起こるのは予想がついた。
結界が昨日はじけ飛んだのも、おそらく九十九の仕業だろう。
いつも、本当に余計なことしかしないのだ。
「……そんなに退屈ですか」
過去の例から、遊び心を満たしてやれば、この場を収めてくれるのではないかと見当をつける。
「いいや」
「退屈しのぎにしては、少々度が過ぎていますね」
「おかげさまで、近頃は幾分心の浮き立つような出来事が多いね」
パリン、と、硬質な物の割れる音が響いた。
見ると、九十九の手の内で、二つ目の水晶が割れている。
「今日はね、知りたいことがあって来たんだ。だから、君たちはしばらく大人しくしておいでね」
――いやな風圧を感じた。
肌が粟立つような振動とともに、壁を突き抜け、雲霞のごとく羽虫が湧いて出てきた。
「うわぁ、グロ……」
背後で、苦々しげな秋の声がする。
「十夜、上からも何か来そう」
見上げてみると、天井の空間も歪んでいる。
小さな黒い染みが、形を成してぽとんと落ちた。
「……ヒルだな」
「えぐいわねー。そしてでかいわね」
成人男性の拳大ほどもある塊を、百々がナイフで突き刺しながらぼやく。
「もっときれいなものにしてよ。やる気が出ないわ」
そう言う間にも、ぼたぼたとヒルは落下してきては、九条の敷いた結界に阻まれて四方の床へと転がり落ちる。
「数が多いな」
羽虫の方がやっかいだろう。ブンと羽ばたく音が耳障りだ。
「秋と音無はヒルをたのむ」
「了解」
二人に背を向け、害虫駆除にのりだそうとした十夜に、野太い声がかけられた。
「橘。一カ所にまとめたほうがやりやすいんじゃないか」
体操部の部長、五島だ。
どっしりと落ち着いた物腰が、こんなときには頼もしい。
「そうだな、助かる」
すると、たちどころに風が吹き荒れ、四方を埋め尽くしていた羽虫が高く舞い上がった。
五島は南風の妖精だ。風を操るのには長けている。
あとは順に吸引すればカタがつくかと考えたとき、覇気のある少女の声が響き渡った。
「たのしそう! 私もやる!」
名乗り出たのは仁木 灯だ。十夜が制止する間もなく、頭上に炎の橋がかかった。
「この馬鹿……!」
おおかた虫を燃やしつくそうとでも考えたのだろうが、風が渦巻いている箇所に火を放つなど、考えが足りないにもほどがある。
案の定、虫に引火した炎が大量にはぜ、爆音があがった。
「おいおい」
五島の慌てた声がする。
炎の拡散を防ごうと、風が強まるのがわかる。
赤く色づく炎に煽られ、あちこちで悲鳴があがる。
十夜は舌打ちをして、左手にはめられていたシルバーの指輪を抜き取った。
「五島、そのままでいい。まとめて吸う」
ここが異界でたすかった。指輪が外せる。
「誰も割り込むなよ」
血にまみれた手のひらを、荒れ狂う炎へと向ける。
光が歪んだ。
熱をはらんだ風が、炭と化した虫のかたまりとともに流れ込んだ。
ぐんぐんと吸われていく熱風が、手のひらを通じてどこへ消えているのかは知らない。
胃袋だろうか。エネルギーとして吸収されていくのがわかる。
圧縮されて、飲み込まれていく。
良質な夢を飲んだときには満腹感が得られるのに対し、大味なこの虫と炎はあまり口に合わない。
「数ばかり多くてもな」
少量で美味なほうがいい。
それでも吸い込み続けるうちに、炎は薄らぎ、虫も姿を消していった。
きゅっと再び指輪をはめる。
「便利だな」
五島がやってきて、背中をたたいた。
「使い方次第だ。手に余ることも多い。ともあれ、まずはひとつ片付いたか」
ヒルも吸い込んでしまえれば早いのだが、分散しているものを吸収するのはむずかしい。
十夜の指輪は、ひらたくいえば封印だ。
未熟さゆえに、制御しきれずなんでも吸い込んでしまうから、こうして鍵をかけている。
外せば、意識を向けた物を吸引するが、その力にも波があり、半端に恨みだけが吸いきれずに残ったりもする。
左手にしたたる血液も、そんな恨みが形を変えて残った結果だ。
「灯、なにやってんだよ、危ないだろ!」
風太がどなった。
「なによう、虫除けのお手伝いをしようとしただけじゃない」
「だからって!」
「まあ、考えが足りなかったのは間違いないな」
双子の口論に口をはさむと、「生徒会長まで!」と、灯はふてくされた。
「虫はいなくなったんだからいいじゃない」
「思いついたままに行動するな。物騒だ」
「そうだよ、灯。狭いところで火をつけちゃだめだっていつも言われてるだろ」
「……生徒会長はまだしも、風太に言われるのはなんか腹立つ」
「身内での口げんかはあとにしてくれ。まだ何も解決していないんだ」
十夜がいなすと、灯は両手を打ち鳴らして顔をあげた。
「そっか。じゃあ原因を潰せばいいんじゃない。いいわ、見てて」
そのまま両手を突き出した先には、ステージがあった。
「せーのっ」
景気よくかけ声をかけた灯の両腕から、炎の弾丸が飛び出した。
「わああ!」
風太の悲鳴があがる。十夜も一瞬、凍りついた。
「灯! バカ、この単細胞!」
同じように風太が放った火の玉が、ステージに当たる寸前で炎をはじいた。
軌道の逸れた弾丸が、轟音をたてて天井にめりこむ。
「なんで見境なく攻撃するのさ! びっくりしただろ、もうほんとにほんと!」
――いやな汗をかいた。
周囲のぎこちない視線が集まるなか、灯は悪びれた様子もみせずに首をかしげた。
「どうして? だってコレクターさんの仕業なんでしょ?」
「だからっていきなり人に火を放つのかよ。考えろって言われたばかりだろ!」
「考えてるってば! もう、うるさいな、風太は」
「考えてそれかよ、ちょっと大人しくしてらんないの?」
「もう半年以上も大人しくしてたじゃない。十分でしょ、そうでしょ!」
「……二人とも、いい加減にしろ」
正直なところ、灯の復調を喜ぶ声というのは聞こえない。
(今日だけだ)
十夜は自分に言い聞かせた。今日を乗り切れば、明日から悠々自適の夏休みなのだから。
「いやあ、元気だね。活きの良い若者っていうのはたまらないねえ」
標的となったはずの九十九は、ステージ上で腕を組み、上機嫌でエールを送っている。
「ああほら、天井。また落ちてきたよ」
うながされて仰ぎ見れば、天井の染みから団子状になったヒルのかたまりがにじみでてくる。
「またなの? しつこいわね」
百々がぶちぶちと文句をたれる。
見ると、両手に提げたナイフが、手元まで赤黒く汚れている。
十夜の見守る中、落下するヒルの群れが、かすかに光った。
と、同時に破裂音がして、細かな肉片と化した物体が、粘液とともに周囲に散った。
「うわあ、汚くなっちゃった」
秋が肩をすくめる。
あちこちであがる不満の声に、ごめんと笑って手を振る。
「いっぺんに済まそうとしたからさ。失敗失敗」
おおかた、別の空間から物を飛ばして干渉したのだろう。
夢魔だけあって、あちこちの階層を行き来するのが上手い男だ。
身体ひとつの百々とは異なり、こちらは返り血ひとつ浴びていない。
秋は、裏から回って寝首をかくような戦い方が得意だ。
懐に忍ばせてある刃物や石つぶてを、異界経由でテレポートさながらにぶつけることができる。
卑怯という言葉が実に似合う、やっかいなやつだ。
「さてと」
おそらくこの場は任せておいて問題ないだろう。
灯と風太は、ステージ前に陣取って、文字通り火花を散らして口論を続けている。
どのみち元を絶たなければ意味がないという灯の言い分はもっともだ。
彼女と違って手段は選ぶが、どうにか九十九を説得しようとステージ上に目を向けた十夜は、そこではっと目を見開いた。
「――いない」
ついさっきまで、出し物でも観覧するような面持ちで悦に入っていた九十九の姿が消えていた。
「どこに……」
あたりを見回す十夜の耳に、楽しげな九十九の声が届いた気がした。
「望月さん!」
奏の声も届く。
どちらも同じ方角だった。
ふり向く十夜の視線の先で、一人立ち尽くす奏の姿があった。
「奏?」
駆けより、肩に手をかける。
「どうした。大丈夫か」
目をしばたたいていた奏が、十夜を見つめた。
「十夜さん。……望月さんが、連れて行かれた」