第七話
終業式の日の朝。――学校は、焼け焦げていた。
たしか昨日は、生徒一丸となって草刈りに励まなくてはならないほど草木が茂っていたというのに、今日は見る影もなくあちこちで火の手があがっている。
校舎は灰に汚れ、細い煙がいくすじものぼる。
三日は、眼鏡を家に置いてきたことを悔やんだ。
眼鏡が手元にないため、どこまでが皆に現実として受け止められているのか確かめることができない。
(まさか、本当に燃えているわけではないのだろうけど)
昇降口へと向かう生徒に、動じた様子は見られない。
あたりを見回す三日の眼前を、火の玉がふよふよとただよった。
植木や花壇の花などは緑を保っているものの、下生えやフェンスには炎が揺らぐ。
「……暑い」
汗をかくほどではないけれど、今日の暑さは並外れている。
(でもそりゃあ、燃えてるんだもの、暑いよね)
一晩見ない間に、大きな火事でもあったのだろうか。
今は下火といったおもむきだ。
暑さには強いはずの三日でさえ辟易するのだ。
見ると、周囲の生徒の額には汗が光る。
頻発している小火は妖火でも、発する熱は人に影響を与えるレベルなのかと、頭を悩ませながらの登校だ。
「望月さん」
声をかけられて顔を上げると、木陰で涼む茜と百々の姿があった。
「おはようございます。……いいですね」
手招きされるまでもなく、ふらりと歩み寄る。
どこから持ち出したのか、木陰にセッティングされた机の上に、氷かき器が鎮座している。
「食べるよね」
百々が保冷ボックスから氷を取り出し、レバーを回すと、細かい氷がさらさらと紙コップに落とされた。
「シロップはイチゴしかないの」
「好きです。イチゴ味」
「だよね!」
百々に手渡されたかき氷とプラスチックのスプーンを手に、お礼を言う。
「暑くてまいっていたんです。嬉しい」
「そりゃあ、この有様じゃあね」
口に乗せた氷がひんやりと溶けて、ほっと息をつく。
「望月さん、眼鏡はどうしたの」
茜がきいた。
日本の夏にそぐわない容姿の吸血鬼を見て、昨日の奏の訴えがちらりとよぎる。
「眼鏡はやめたの。ええと、私なりの決意というか、つまり、もっといろいろちゃんと見ようと思って」
「ふうん?」
うなずき返しながらも、茜は休まずスプーンを口元へ運ぶ。
しかしその器の中はシロップの原液に近い色をしていて、三日は思わず口を開いた。
「えっと、甘過ぎやしない?」
「甘いものを食べているんだもの。甘いに決まってるじゃないの」
「そう、かな」
言葉につまる。三日はどちらかといえば、シロップは少なめが好きだ。
「やっぱりそう思う? かけすぎだよねー」
百々がけらけらと笑った。
「茜ちゃんひどいんだよ。薄めるってこと知らないの」
「元来のとろみを打ち消すようなことをするほうがおかしいのよ」
「味覚おかしいんだわ、この人。まあ仕方ないけどね」
百々が汗ばむ肌をうちわであおぐ。
「でもどうしてわざわざこんなところにいるんですか?」
校舎内なら冷房が効いているはずだ。
「それがねえ」
百々ががくりと肩をおとす。
「見張りを頼まれちゃったの。この暑い中、正門からおかしなものが入ってこないか見てろって。ひどいよね、氷でも食べないとやってらんないってのよ」
「もしかして、生徒会のお仕事ですか?」
「そう。そうなの。もう、生徒会なんて雑用ばっかり。いやになっちゃう」
「それでかき氷……。準備がいいですね」
「まあね」
最終日なのについてないわー、とこぼす百々に、三日は疑問を口にした。
「でも、今まで見張りなんてたててませんでしたよね」
「あー、それね」
顔をしかめる百々に代わり、茜が説明をした。
「結界が壊れたんですって」
「結界……」
そういえばと、あたりを見回す。
「そういえばそうですね」
「だから望月さんも、今日は余計なことをしないほうがいいわよ。教師も生徒も、ピリピリしているから」
「しませんよ」
いつだってしませんよ。と、心の中で付け加える。
「でもまあ、見張りっていっても、こうして茜ちゃんも付き合ってくれるし、九条に比べたらよほどマシなんだけどね」
「九条さん?」
聞き覚えのある名前だった。
「知らない? うちの書記なんだけど。これがまた苦労性の男でねー」
「ああ、書記の人。聞いたことありますね、そういえば」
「今日は学校、フリーパスだからね。四方から入ってくる余計なものを捕まえて回って、大変そうよ。って言ってもまあ、手伝わないんだけどね!」
そう笑って、新しい氷に手をのばす。
「よし、四杯目。おかわりいる?」
「いえ、もうじゅうぶんです」
「そ?」
「さっぱりしました。ごちそうさまです」
茜にうながされて袋にゴミを捨て、頭を下げる。
茜もふたたび、シロップ八割のかき氷を作って食べ始めた。
「ええと、暑い中大変でしょうが、お腹を冷やさないようにしてください」
「うんうん、ありがと」
「またあとで」
その場を後にし、靴を履き替えながら三日は思った。
「小火の原因もきいてみればよかったかな」
(それにしても)
転入してきたときにはどうしようかと思った吸血鬼も、あっというまにクラスに馴染んだ。
奏だけは相変わらず冷ややかだけれど。
「へんなの」
変だけど、悪くはなかった。
終業式は、体育館に全校生徒が集って行われる。
クラスごとに整列する生徒や教員のほかに、この日は来賓もある。
入学式にも参列していたことを覚えている者は多いだろう。
派手な衣装をまとった、後援会の会長だ。
三日も自然とそちらを見てしまう。
この日、その人は鈍い朱色の地に紫の菖蒲柄のはいった振り袖をまとっていた。
帯は黒、帯留めは金で、髪は結わずに流している。
派手だなあ、と感心する。
長髪のサイドだけを、金の櫛型の髪留めでとめている。
年齢は不詳。噂によると、性別も不詳だ。
遠目にも迫力のある美人だが、着物のまといかたは破天荒だ。
襦袢もおはしょりもなしで、浴衣のように気安く袖を通している。
そして足元には、黒のライダーブーツ。
伝統を重んじる人間が目にしたならば、眉をひそめずにいられないだろう。
居並ぶ生徒に向かって、学園長が長期休暇の心得などを念入りに述べたあと、後援会長はステージの中央にあがった。
和装ににつかわしくない高らかな足音に、ざわめきがおこる。
純粋に瞳を輝かせる者もいる一方で、明確な敵意を向ける者もいる。
多様な視線を一身に集めて、その人は壇上のマイクを手に取った。
「卒業式でもないのにおおげさかもしれませんが、本日は終業式です。みなさん、おめでとうございます。後援会の会長をつとめています、九十九 一樹です」
壇上の人に生徒がいっせいに会釈を返す。
女性にしてはハスキーな、落ち着いた声だ。
九十九は艶然と微笑み、会場を見回した。
「三ヶ月間におよぶ学園生活で、さまざまなことを学びましたね。新入生は新しい生活に馴染もうとして、慌ただしく過ごしたかもしれません。上級生は学問にいそしんだ人も多くいるでしょう。もちろん中には、退屈な日々に飽いてもがいていた、などという人もいるのでしょうね。――さて。そんなみなさんに、本日はわたしから、ささやかな贈り物です」
九十九は、左手にもったみっつの水晶をかざしてみせた。
「手品はみなさんお好きですか。胸の躍るような出会いと、刺激と……、遊び心に満ちた出し物です」
「お待ちください」
生徒会長が手を上げてさえぎった。
「手品を披露していただくという話はうかがっておりません。この場は挨拶のみでけっこうですので、ひかえていただけませんか」
「おや、橘くん、心配はいりませんよ。危険などあるはずがないではありませんか。それにこれは、単なる挨拶ですよ。ただ、少し特殊な舞台を作り上げる必要があるだけなのです。つまり、こんなふうに」
九十九の手元で、水晶が一つ割れた。
十夜をはじめとした幾人かが、周囲に警戒の目を向ける。
異変は、すぐに起こった。
ふと館内が陰ったかと思うと、破裂音が響き、外部から衝撃が襲ったのだ。
ギリギリと壁がきしみ、あちらこちらで戸惑いの声と悲鳴があがる。
「落ち着け」
誰かの声があがるが、それは無理な相談だ。
屋外に面した窓に、べったりとゼリー状のものが張りつき、うごめいているのがわかる。
窓が震え、いまにも割れそうな有様を目にして、悠長に構えていられる者は少ない。
「何を考えてるんだ、あんたは!」
生徒会長の罵声が響く。
あんなふうに怒鳴るのは初めて聞いた。
「なに、危険はありませんよ。言ったでしょう。あれが外にいる間は、安全ですよ」
しかし、体育館を外から取り巻く半透明の物体は、明らかに進入を狙っているのだ。
「九十九さん、あれは何です」
教員を代表して、斉藤がたずねた。
「ただのスライムですよ。珍しくもなんともないでしょう」
落ち着き払った九十九が答えると、斉藤は険しい目を向け、指示をとばした。
「教員は駆除に向かおう。その間、生徒会は館内を見張っていてくれ。いいな、皆もじっとしていろ。すぐ戻るから」
十夜が返事をし、教師がこぞって出入り口へと向かう中、斉藤は九十九に釘を刺した。
「いいですね。あなたも、これ以上余計なことはなさらないように」
「余計なことなどしませんよ。数が多いですから、お気をつけて」
穏やかな眼差しで見送る九十九をにらみつけて、斉藤は飛び出した。
体育館のドアが閉まる。
「さて」
九十九が楽しげに口をひらき、生徒たちは口を閉ざした。
「口うるさいお目付役がいなくなったところで、場所を変えましょうか」
口々にあがる疑問の声を遮るように手をかざし、九十九は何事かをつぶやいた。
音声に変換されないその言葉が、スイッチとなったのだろう。
視界が歪んだ。
強引に頭を揺さぶられたかのように、目に映るすべてがぶれた。
大気が生ぬるく、身体を突き抜ける。
一瞬意識がぼやけ、はっと気づくと、三日は元通り体育館に立ち尽くしていた。
「え……」
しかし、誰もが同じというわけにはいかなかったようだ。
およそ半数の生徒は、床に倒れ伏していた。
慌てて足元に重なるクラスメイトに手を伸ばし確認したところ、どうも意識がないだけで、呼吸はしっかりしているようだ。
「千佳!」
倒れている顔ぶれの中には、友人の姿もある。
これは何だろうと、動じる三日に、声がかかる。
「抵抗力のない人ばかりが倒れてる」
ふり向くと、奏が顔をしかめて立っていた。
「三鷹くん」
「今の衝撃に、人間は耐えられなかったと、そういうわけなんじゃないかな。……ああ、いや」
言いよどんで、付け加える。
「抵抗力のある人間は別か。オレは、もちろん人間だから。そう、もちろん」
言われてあたりを見回すと、どうやらその見解は正しいようだ。
「でもなぜ」
緊張の高まる館内に、九十九が声を発した。
「ようやく舞台の完成です。長期休暇よりひとあし先に、少しだけ遊びましょう」
「界を移動したな」
ステージに駆け上がった十夜が詰め寄る。
「ええ。暴れても大丈夫な場所を用意しました。元いた空間では、あなたがたも楽しめないでしょうから」
「戻せ」
「ええ、ええ。もちろん。遊んでからね」
楽しげに、艶やかに、九十九はにこりと笑ってみせた。