第六話
「家、明後日帰るんだっけ」
皐月がきいた。
視線を追うと、黒い木陰の向こうに、ふもとの神社が垣間見えた。
「うん。明日が終業式だから」
「結局、四月から一度も帰らずじまいだったんだろ、えらいな」
足取り軽く、山道を登る。道といっても、獣道だ。
白睡山は人の出入りを禁じているから、当然登山道などは存在しない。
山神の眠るこの山は、正しく人の領域ではない。
人の出入りを禁じているのは、危険だからだ。
八百坂神社の神職にあるものだけが出入りを任されているというが、はたして彼らが守ろうとしているものが、人なのか妖怪なのかは三日にもわからない。
かつて、――おそらく祖父の世代までは、人を守ろうとしていたのだろう。
人間であった祖父は、若い頃、山中にはびこる魔物を狩ることを生業としていたと聞いたことがある。
その祖父も仕事中に巡り会った祖母と恋に落ち、子をなした。
祖母は鬼だった。
山中の妖怪を統べる、力自慢の立派な鬼だ。
人と鬼の合いの子である父は、人だけを守ろうとしているようには見えない。それはもう、まったく見えない。
でなければ、母を伴侶に選んだりなどするはずがなかった。
「おばさん、三日が帰ってくるの心待ちにしてるってよ。母ちゃんが言ってた」
三日と皐月の両親は仲が良い。立ち位置が不安定な者同士、きっと馬が合うのだろう。
「電話もよこさないって文句言ってたってよ」
「手紙は書いてるよ」
電話は嫌いだ。
「知ってる。けどまあ、声が聞きたいんじゃないか?」
「うん。私も」
居心地の良い実家に戻るのは、心が躍った。
「はやく帰りたいな」
けれど、夏休みに入るまで、実家の門はくぐらないと決めた。
なので思いあまって、今夜は皐月と二人で、白睡山へ散策に来ていた。
時折、山犬の鳴く声がする。
「皐月はどうするの、夏休み」
木立の生い茂る中を危なげのない足取りで進む彼がふり向いた。
「んー、オレ、母ちゃんとフランスに行ってくる」
「部活は?」
「合宿だけ参加するよ。行くのはそのあと」
フランスは皐月の母の生まれ故郷だ。
「そっか。じゃあお父さんに会えるね」
「まあな。母ちゃん、今から浮かれてるんだ」
「お父さんもすごく楽しみにしてるんだろうね」
「……オレ、もしかして邪魔なんじゃないかと思うよ」
肩をすくめる皐月に、三日は首を振った。
「それはない。皐月にも会いたいに決まってるよ」
「お前な」
手が伸び、三日の額を小突く。
「臆面もなく言うなよな」
通りざまに、鬼火の群れが顔を照らす。
視界を揺らぐ火の粉を、皐月が鬱陶しげに振り払う。
茫と光を発する草むらの奥では忍び笑いが漏れ聞こえ、また、四方の木立からは、枝を伝うぺたぺたと湿った足音がひびく。
「天気いいな。月見するか」
前を行く皐月が向きを変える。
バタバタと、鳥ではないものが頭上を行く。
人の倍ほどの丈をもつ白い影が、現れたかと思うと、木立をすり抜け、ふっと消えた。
山の大気は澄んでいる。
三日は大きく息を吸った。
この空気が、おそらく多様な生命を生かすのだろう。
山中は、命の気配に満ちていた。
やがて、皐月がひらけた場所へと腰を下ろす。
小さな白い花がまばらに咲く草むらだ。
寝転がる彼のとなりに、三日もまた横たわる。
「星がきれいだね」
「星もいいけど、月がきれいだ」
すらりと伸びた指が示す。
「三日月。いいよな。安心する」
これは皐月の口癖だ。
「いい月夜だ。やっぱりオレさ、新月は好きじゃないんだ。何かがぽっかりと欠けた気持ちになる」
「うん」
「けど、半月を過ぎると、もう落ち着かなくてたまらなくなるだろ。だからこれくらいがちょうどいい。好きだな、三日月」
月に体が左右されるなんて、不便だろう。なにせ、周期がめまぐるしい。
だからこそ余計に、皐月がくつろぐ日があるのが三日は嬉しい。
「そうだね、私も三日月くらいの月夜が好きだ。もちろん、満月の夜の皐月をなでるのも心地よいけれど」
けれどそんな夜は、傷を舐め合っているような気にも、ときどきなるのだ。
二人で過ごす夜が、あまりに静かだからだろうか。
閉じた部屋で過ごす時間は、ゆったりとしていて居心地がいいけれど、それだけではいけないことを、三日は既に知っている。
「ちょうど、四分の一くらいだな」
「何が?」
「月明かり。満月の、半分の半分……に、ちょっと欠けるか」
ふっと皐月が口元をゆるめた。
「三日にそっくり」
皐月がハーフであるように、三日はクォーターだ。
比べるようなことではないけれど、血統の不安定さでは、三日に軍配が上がる。
「本当だね」
血が混ざるというが、実際に一度混じってしまった血は、渾然として元の形に分かつことなど出来はしない。
父が鬼でも人でもないように、三日も、自分以外の何者とも呼べないのだ。
人を知りたいとは思うが、人になりたいとは思わない。
かといって、人ではないとも言い切れない。
「……学校、どうだった。一学期」
ぽつりと皐月がつぶやいた。
「興味深いよ。なに、心配してるの?」
「かもな」
人に馴染むのが器用な皐月に比べると、三日はいたって不器用だ。
かんしゃくを起こしてばかりいた幼少期や、へんに人に馴染もうとして肩肘張った優等生を目指していた中学の頃をよく知る彼からすると、三日は危なっかしく見えるのだろう。
とはいえ、自画自賛かもしれないが、うまくやっていると思うのだ。高校生活は。
「高校、ね、行ってよかったって思ってるんだ」
皐月が目線で続きをうながす。
「入学前に言ったよね。お山を人間の手から守りたいって」
「ああ」
――あの頃、ほんの数ヶ月前まで、三日は人を敵だと感じていた。
「今はどうしようもなく人の世だから。敵を知ることから始めなきゃって、やっぱりどこか思ってた。嫌いだけど、嫌いなだけじゃだめだって」
「少しは嫌いじゃなくなった?」
三日はうなずく。
「少しだけ。苦手だけど、へんなのって、よく思うようになった」
予想もしなかった。人間の友達だってできた。
偏屈で排他的で、三日をまるごと受け入れてくれる可能性などない生き物なのに。
「目標は今も変わらないよ。人について知りたくて、学校には通ってる。でもね、普通の学校じゃなかったから、通ってる人間もどこかおかしいんだ」
「ああ。普通じゃないな」
妙に納得したように、皐月も相槌をうつ。
人間社会の常識とは異なる。万理万里はいびつな校風だ。
しかし三日はそこにずいぶんと救われた。
「ずっと思ってた。人と妖怪と、共生は叶わないのかって」
追い詰められていく妖怪を見ているのはつらかった。
それは等しく、自らが拒絶されることでもあった。
「共に歩めるなんて、そんなこと信じちゃいないけど。それでも、互いの境界の外で、存在することを認めるくらいしたっていいんじゃないの」
歯がゆさとともに、感じていた。
容認する程度でいい。相互理解を願っていた。
「わかりあえるなんて、信じてなかった。なのに……」
短い期間で、いろいろな事があった。
「あの学校にいると、認識がことごとく覆されるんだ。人間も、本当に人間なのかって思う。千佳も……あの子、おかしいよね」
「おい」
皐月が苦笑をもらす。
「あの子、すごく前向きなんだ。人の常識で解決できないような出来事があっても、わかる範囲だけ受け止めて、残りは流してしまうような」
怖がるのに、怯えないような。
「どうしてだろう。特殊な学校だからっていうのはわかってるんだけど、――ずっと願ってた。いつか並んでいられたらいいって。人かどうかなんて関係なく」
見果てぬ夢だと思っていたのに。
「それがね、できてると思うんだ。いろいろな出自の生き物が、適当に関わり合いながら同じ学校に通ってる。まだ、よくわからないんだ。相容れないものかと、根強く思ってしまうから。どうして皆、一緒にいられるのかわからない」
「そっか」
「うん。わからないけど、やっぱり嬉しい。どうしてあんなにおかしな学校なのか、それがわかったら、……いつか、わかるかな。学校の外でも、並び立っていられる可能性ってあるのかな」
こういうのを、希望というのだろうか。
この山に巣くう者たちを守るためにも。
三日は、初めて前向きに、人間に対して興味を抱いた。
「高校、始まったばかりだからな」
軽い調子で皐月は言った。
「焦ることないさ。楽しめばいいんだよ、学校なんていうのは」
「そうかな」
「そうさ。第一、本当に相容れないものだっていうなら、そもそも生まれてないだろ。三日も、オレもな」
「うん」
皐月はやさしい。それに強い。
「三日が焦らなくても、この山は大丈夫だよ」
皐月につられて、三日は山頂に目を向けた。
「守られているだろう。すごいよ、神さま」
「そう。そうだよね」
目を閉じた。
大地を通じて、伝わる力がある。
白い蛇は今なお眠る。
それを思えば、三日が山を守りたいなど、たわごとのようにも感じる。
この山は、山神たる白蛇のものだ。眠りにつきながらなお、大地と一体となり、人の手を拒む。
「気持ちいい」
つぶやいた。
こうして守られているのは心地が良い。
この山にいるかぎり、すべてを受け入れられて、山神の胸に抱かれているような心地になる。
三日に流れる血によるものなのかもしれない。
三日にとって、この山こそが故郷だった。
父も、母も、ここで生まれた。
そうであるからこそ、やはり、守りたいと願うのだ。
「もっとよく、知らなくちゃ」
周囲だけではなく。
「自分のこともね」