第三話
「また余計なことを」
吐き捨て、十夜は走り出した。
不格好にもがいて沈んでいく女生徒が、泳げないのだと承知している。
プールに駆け込むと同時に、元凶である男子生徒がすれ違いざまに、「後始末、頼みますね」と肩をたたいた。
そのまま立ち去る青年の背を、恨みがましく睨んでしまう。
元より、十夜の救出を見越して突き落としたのだろう。
京堂は事に及ぶ前に、確かにこちらに気づいて意味ありげに笑ってみせた。
嫌がらせにしてはたちが悪いが、彼の動機は予想がつく。
おそらくくだんの少女の身の上にまつわる噂がそうさせたのだろうが、それはさておき、まずは溺れる彼女を救い出さなくてはならない。
舌打ちをして、十夜はプールに飛び込んだ。
運良く彼女はもがくのをやめている。
襟首をつかんだまではいいが、そこから重たい水をかきわけて、プールサイドに引っ張り上げるのは一苦労だった。
十夜とて、泳ぎが巧みなほうではない。
濡れた衣服は体にまとわりつくし、意識もとびがちな少女は重い。
水からあがった際には、二人でぐったりとへたりこんだ。
三日は青ざめてはいるものの、水を飲んではいない様子で、荒い息をつきながらかすかなまばたきをくり返している。
「災難だったな。気持ち悪くはないか」
声をかけると、うなずき返す。
濡れた肌に、焼ける日差しが心地よかった。
もちろん、不本意な水浴びを心地よいのひとことで片づけるわけにはいかないのだが。
呼吸が整うのをみはからって、十夜は上体を起こした。
「とんだ濡れ鼠だ。動けるか?」
ふるふると三日は首をふり、否定する。
「つかまるくらいはできるだろう。保健室に行くぞ」
やれやれと、十夜は少女の腕を自分の首に回し、水のしたたる体躯をかつぎあげた。
(携帯が防水でよかった)
そんなとりとめのないことを考えながら、校舎に向かって歩き出す。
しめった足跡を残しながら歩くと、通りざまに出くわした生徒がぎょっとした様子でこちらを振り返る。
それはそうだろう。視線が痛い。
生徒用の昇降口は避けて、保健室にほど近い裏口に回る。
靴は脱ぎ捨て、そのままあがった。
通路の反対側には、保健室の入り口がある。
ちょうど、一人の女生徒が出てきたところだ。
保健室の常連、仁木 灯。
虚弱だと評判の二年生だ。
こちらを見上げて、「まあ」とつぶやくその表情は、いつになく明るい。
「ドアを開けてくれないか」
「先生、今いませんよ」
そう言いつつも、素直にしたがってくれる。
どことなく声もはずんでいるようだ。
(機嫌がいいな。夏だからか?)
この双子、灯と風太は火炎の妖精だ。
冬よりも夏場のほうが生き生きとしてくるのは当然なのだが、それだけではなさそうな彼女の機嫌の良さに疑念がつのる。
「今日はずいぶんと調子が良さそうだな」
声をかけてみると、彼女はぱっと笑顔をみせた。
「ふふ。夏はこれからが本番ですよ」
意味ありげな目配せをして、足取り軽く立ち去った。
(要観察、か)
普段は伏せってばかりで影のうすい少女だが、彼女の本質がそこにはない。
体力さえ回復すれば、灯は兄の風太をも凌駕する、エネルギッシュな少女だ。
夏の陽気にあてられて元気を取り戻すのだとして、今までの反動で羽目を外し、騒ぎを起こさなければいいのだが。気にとめておくにこしたことはない。
保健室は無人だった。
窓が開いているものの、蒸し暑い。
ベッドに寝かせようかと思ったが、寝具を濡らして叱られるのも面倒かと、代わりにソファに座らせる。
戸棚から大判のタオルを二枚とりだした。
一枚を差し出すと、「ありがとうございます」と返ってきた声は意外としっかりとしたものだ。
自分もざっくりと髪や腕をぬぐいながら、話しかける。
「少しは落ち着いたか」
「はい。本当に助かりました」
三日はまず眼鏡を外してレンズを拭き、十夜を見て顔をひきつらせた。
(またか)
思わず苦笑がもれる。
左手のしたたる血を目で追っているのが丸わかりだ。
はっとした様子で目をしばたたき、眼鏡をかける。
「相変わらず優秀な目だな」
それとも、隠すレンズが優れものなのだろうか。
「振り回されてばかりです」
かすかに頬に血色が戻る。
「寒くないか」
「大丈夫です。ええと、夏でよかったかなとは思いますが」
「本当は、やっかいごとを招き寄せないのが一番なんだがな」
「……すみません」
しょんぼりとうなだれる様子を見て思う。
あまり話したことはなかったが、けっこうそのまま感情が顔に出るタイプだ。
「少し待ってろ。着替えがいるだろう」
携帯を取り出し、タオルで拭いてからボタンを押す。
体操服でまだよかった。夏服のブラウス一枚だったら、あられもない姿になっていたところだ。
『はい。オレです』
奏だ。一度のコールですぐにつながる。
「まだ校内にいるだろう。ひとつ頼んでもいいか」
『大丈夫ですよ、なんですか』
「望月 三日。同じクラスだろう。保健室にいるんだ。荷物と制服を持ってきてもらいたいんだが」
『望月さん? ああ、制服ありますね、机の上に』
「なるべく早く頼む。着替えがいるんだ」
『十夜さんといるの? ケガしてるんですか』
電話越しの声に気遣わしげな色が浮かぶ。
「いいや。プールに落ちてね。心配ないよ」
『ええ、泳いだんですか。物好きだなあ』
「否応なくだけどな」
『わかりました。十夜さんの着替えはいらないんですよね?』
「俺はいい。自分で取りに戻るから」
『じゃあ十夜さんも泳いだんだ。まあいいや、すぐに行きます』
「ああ、世話をかけるな」
『いいえちっとも』
通話が切れる。
「三鷹くんですか?」
「ああ。着替えて、少し休んでから帰るといい。調子が悪ければ、誰か迎えに来てもらうか、タクシーを呼ぼう」
「うう、なにやら度々すみません。着替えたらあとは勝手にします。大丈夫です」
「そうか。――ところで」
「はい」
三日が髪をタオルで押さえていく。長いと拭くのも大変だろう。
(こうして見ると、あらためて似ているな)
「難儀なことだ」
「何がでしょう」
「ああいや、……京堂だが、あれは故意に落としたんだろう。心当たりはあるか」
途端に三日が情けない顔をする。
「人魚じゃないかと言われました」
「素直だな。実は俺も、というか、俺たちもそう考えている。どうなんだ」
三日は首をひねった。
(なぜ悩む?)
隠しておきたいくて言いよどむのとは違うようだ。
ためらったのちに、口をひらいた。
「私、人魚ではないと思います」
「曖昧だな」
「そんなふうに思われるのは、やっぱり美術室のあの絵が原因なんでしょうか」
十夜はうなずく。
「京堂さんにも言ったんですけど、あの絵に描かれていたのは、私ではなく私の母なんです」
「同じ顔をしているのか」
「いえ、そんなことないと思うんですけど……」
「描いた本人がそう言ったのか?」
「いえ、涼一さんは、実は最近あまり会う機会がなくて」
「それでも、母親だとわかると」
「わかります」
三日はきっぱり肯定した。
「そうしたら京堂さん、私の母が人魚なのかって言ったんですけどね。でも、母も人魚というわけではなくて、つまり、人魚の血をひいてる家系ではあるらしいんですけど、人魚なのかってきかれても違うと思うんですよね」
「なるほど。元は俺は、禁山で眠る白蛇をなだめる巫女の家系かと思ってたんだが。すると父方がそっちなのか」
「あ、それは近いかもしれません。べつになだめてるわけじゃないけど、お山とは縁が深いから」
「複雑だな」
「いろいろ混ざってるんです。……でも」
「何だ」
「人魚って、良くないんでしょうか」
「どういう意味だ」
三日はいくぶんうなだれる。
「これも京堂さんに言われたことなんですけどね、人魚は狙われるって。もしそうなら、誤解はといたほうがいい気がするけど、誰に対して弁明すればいいのかもわからないんです」
「なるほど」
たしかに人魚の効能を望む声は多い。
「無理もないな。人魚につながる可能性だけでも、手にしたい奴はいるだろう。俺もききたい。人魚にツテはないのか」
「え。人魚の知り合いはいるかって意味ですか。……ないですね、たぶん」
「そうか」
「橘さんもほしいんですか。人魚の何がそんなにいいんでしょう」
「俺が欲してるわけじゃないんだが、知り合いがな。人魚の涙を探してるんだ。まあもし、人魚に会うことがあったら、わけてもらってくれないか」
「はあ。たぶんないとは思いますが」
「ああ」
本気で当てにしているわけではない。
ひとまず、人魚の実在する可能性が高まっただけでも朗報だろうと思う。
「そんな具合だ。当分周囲が騒がしくなるかもしれないな。気をつけたほうがいい」
「うう、はい。わかりました」
会話に区切りがついたところで、ドアをノックする音がひびく。
「十夜さん、持ってきた」
奏が顔をのぞかせた。
「うわ、二人ともびしょびしょ」
「すまないな」
「いえいえ。望月さんどうしたのさ、大丈夫?」
「ありがとう三鷹くん。ええ、橘さんに助けてもらったの」
「ふうん。十夜さん、人助けが趣味だからね」
「そんなことはない」
奏のたたく軽口に、眉をしかめる。
「ベッドのカーテンをひいて着替えるといい。奏、時間あるか」
「うん」
「少しついていてやってくれ。ああ、そういえば靴を置いてきたままだな。取ってくる」
「オレ、取ってきますよ。十夜さんもびしょ濡れだからね。どこです?」
「保健室を出たところの非常口に置いてある」
「ちょっと待ってて」
気安くうけおって部屋を出た奏は、すぐに戻った。
「袋ないかな。靴もびっちゃだ」
「脱いだ服を入れるのにも必要だな」
保健室を見回すが、小さなポリ袋しか見当たらない。
「とりあえずこれでいいだろう」
数枚拝借したポリ袋に靴を入れ、ひとつを三日に手渡す。
「すみません」
「着替えを入れる袋は、生徒会室から持ってこよう。俺も着替えに戻るから、誰かいたら言づける。しばらくここにいるだろう」
「はい。返す返すもありがとうございます」
「気にするな。悪いのは京堂だ」
なんとも言えない表情で、三日が口ごもる。
「何があったんですか」
奏が訊ねるが、それには後でと言葉を返し、十夜は保健室を後にした。
まったく、明後日から晴れて夏休みだというのに、テスト明けの開放感すら感じるいとまもないのはどういうことだと、ぼやきながら。