第二話
ともに草刈りにあたった生徒に別れをつげ、三日は両名に導かれ、再び屋外へと足を運んだ。
既に草刈りを終えたとおぼしき、人気のない中庭だ。
「退院出来たんだね」
さやかに会うのは、水晶の一室に閉じ込められた夜以来だ。
重傷を負ったように見えたのに、まずまず早い回復だった。
「ええ。まったく、ひどいめにあったわ」
対峙するさやかの瞳からは熱っぽさが抜け落ちている。
いつぞやの惚れ薬の効果は無事に退けられたようだ。
今の彼女からは、露骨な敵意が感じられる。
(そうそう、こういう人だった)
睨まれて、なつかしく思う。
それはそうと、原田がともにいるというのはどういうわけだろう。
「ふたりとも、知り合いだったの?」
「いいや、コレクターさんのところで居合わせたんだ。たまたま互いに用があってね」
「コレクターさん?」
「そう。極上のセレクトショップのような、すばらしいところさ」
原田は上機嫌だ。
「希少な食材をわけてもらってね。八又さんとはそこで知り合ったんだけど、きくと彼女もぼくと同じで望月さんに用があるというから、一緒に来たんだ」
(コレクターって、もしかして)
聞いた名だと思っていたが、ようやくそれが、家庭科部部長の芽衣が狙われたときに、京堂が上役の名としてあげていた人物と同じかもしれないと気づく。
「そうなの。それで、用というのは?」
原田の顔が、ぱっと輝く。
「そうそう、それなのだけど、望月さん。血をわけてほしいんだ」
「……またそんなことを」
「ちょっとでいいんだ。これにちょびっと」
そう言って原田はポケットから試験管を取り出した。
「ね、たのむよ」
「前に、私の血はあげられないって言ったと思うんだけど」
「たしか毒になるんだよね。大丈夫、そのまま飲んだりしないから。コレクターさんがね、きちんと手を加えれば、すばらしい薬にもなるって」
ひたむきな熱意に押されて、半歩下がる。
「そういう問題じゃないんだけど」
「おねがい! 正直、これってコレクターさんに提示された条件なんだ。望月さんの血と引き替えに、秘蔵の珍味をわけてくれるって!」
「そんな。いやです」
「そこをなんとか。望月さんの血液だったら、きっとどこに出してもはずかしくないよ。だって、そんなに肌がきれいなんだもの」
「肌は関係ないでしょう」
「なに言ってんの、あるに決まってるじゃないか。肌はね、健康のバロメーターでもあるんだよ。血液はね、大事なの。すっごく」
「欲しい」と「だめ」の押し問答になったところで、すっとさやかが前に出た。
「時間の無駄ね。ちょっとあなた、望月さんを押さえなさいよ」
「え、ぼく?」
「そう。許可なんてとろうとするから時間がかかるの。必要なら、さっさと取ればいいじゃない」
さやかは苛立ちを隠そうともせず、三日の肩を原田のほうへ押しのけると、小型のツールナイフを取り出し、せまった。
「ほら、瓶を出して。どこを切るの。やっぱり指先?」
「ちょっと、八又さん、待ってよ」
「待ちくたびれたわ。あたしだって話があるのに、全然先に進まないじゃない」
「だからって」
「ほら、とっとと手を出す」
背後から原田が腕を押さえた。
ためらうそぶりもみせずに、さやかがナイフをふるい、三日はあわてて身をよじって逃げ出した。
「いいかげんにして。血をあげるわけにはいかないって言ってるじゃない」
伸びてくる腕を、払って、払って、後ろに下がる。
追い詰められないよう、ひらけた方へ向かって後ずさると、どんと背中に何かが当たった。
どこからふってわいたのか、覚えのある声が耳元ではぜる。
「おっと。これはまた、物騒だね」
よほど気配を消すのが上手いのか、いつも唐突に現れる。
「京堂さん」
背中から腕がまわる。
「またあんたなの」
吐き捨てるようにさやかが言った。
(また? ……ああ、そうか)
以前にも、教室を出ようとしたところで彼にぶつかったことがあった。
あのときも、さやかは一緒だったのだ。
からかい混じりの笑い声が至近距離であがる。
「上級生として、見過ごせないだろう。校内で刃物を振り回しちゃいけないよ」
「関係ない人は首をつっこまないで」
「それが、関係はあるんだよね。オレも、このお嬢ちゃんに用があるんだ」
おとなしく抱え込まれて、三日は思う。
物怖じせずにこうしてべたべた触ってくる人間は彼くらいのものだ。
独特の距離のとりかたにとまどいはするが、基本、他者と触れあうのは嫌いじゃない。
(でもね。夏は暑いわ)
皐月ほどではないにせよ、京堂は体温が高かった。
「あたしが先。じゃまよ、どいて」
「わあ、八又さん!」
さやかがナイフを構え直し、京堂に向けてふりかぶった。
脇で、原田がすっとんきょうな声をあげる。
京堂は無言だった。
三日を離すと、押しのけるように前へ出て、さやかの手首を払いのける。
ゴツっとにぶい音がした。
「いっ……!」
うずくまるさやかの足元に、ナイフが落ちた。
「うわあ、痛そう。大丈夫?」
原田が青い顔でうかがう。しかし、さやかはそれ以上に血の気の失せた顔をしていた。
ひくひくと喉が鳴っている。
(これは……、痛いわ)
ケガがなおったばかりだというのに、災難だ。
容赦のない手刀にみえた。骨がいってるかもしれない。
拾ったナイフをたたんでしまった京堂は、「危険物は没収ね」と言って、ポケットにしまう。
うずくまったさやかからは、返事もない。
「さて。お嬢ちゃん、オレに時間をくれないか」
きびすをかえした京堂は、三日の肩を抱き、歩き出す。
それきりもう、後に残った二人を振り返ることはない。
切り替えのはやい人だ。
「歩きながら話そう」
校舎に沿って歩いていくと、まだ草刈りを終えていない生徒をちらほらとみかける。
たいへんだなとは思うが、自分もひとを思いやるゆとりなどないようにも思う。
「今日は屋外作業だったから、皆、赤い顔をしてるな」
同じ方向に視線を向けていた京堂が、口をひらく。
「天気がいいから、暑くてたいへんでしょうね」
「ひとごとみたいだな。お嬢ちゃんは暑くなかった?」
「暑いですよ。今ももちろん」
「見えないな。さらりと白い顔をしている。日には焼けないほうなのかい」
「ええ、そうですね。あまり」
腕に京堂の指が這う。
上腕で、そでをぺろりとまくられた。
「日焼けのあとが残っていない。本当に焼けないんだな」
「京堂さんは焼けていますね」
それには彼は返事をせず、
「――人魚の絵は見たかい」
本題なのだろうか。さっと話を変えてしまった。
「見ました。明日、取りにいくんです。私にくれるというので」
「へえ、もとからお嬢ちゃんにあげるつもりで描いたのかな」
「それは違うと思います」
京堂が目線で続きをうながす。
「似ていると京堂さんはいうけど、あれ、モデルは私じゃありません」
「浦和がそう言った?」
「いいえ。でもそれくらいわかります」
涼一に完成したという人魚の絵を見せてもらったとき、驚きに息をのんだ。
きれいな儚い、温かみのあるやさしい絵だった。
きらきらと光る海を背に、ひとりの人魚が髪を揺らしてほほえんでいる。
すっと伸びた背をもつ、黒髪の人魚。
とてもきれいな面立ちをしていた。
肌は白く、ぬくもりを秘めてやわらかそうだ。
今にも、名を呼ぶ声すら聞こえてきそうな、その人物の印象をまざまざととらえた作品だった。
キャンバスに写し取られた彼女は、よく知る人物だった。
(なぜ)
その疑問は、いまだ解消してはいない。
「あれは、母です」
京堂が不思議そうな顔をする。
おや、と思う。彼のそんな顔は初めてだ。
「母親?」
「納得いきませんか。間違いありません、あれは母です」
「お嬢ちゃんにそっくりなのか」
「どうなんでしょう。自分では、あまり似ているとは思えないんです。母のほうが、優しい顔をしていて、丸みがあって、髪もやわらかいし。……似ていますか」
「あの絵のモデルがそうだというなら、そっくりだろうに。本当に?」
「ええ」
京堂が首をひねる。
「浦和は、なぜその、お嬢ちゃんの母親を描こうとしたんだ」
「そうなんですよね。私も、きいてみたんです。けど、はっきりとは教えてもらえなくて」
「面識があるのか」
「さあ。なければ描けないんじゃないでしょうか」
「あの絵の人魚は若かったよな。お母さん、若いころはあんなふうだったのかい」
「……今もあんなふうですよ。のんびりした人なんです」
「ああ」
腑に落ちた様子で彼はうなずいた。
「お嬢ちゃんものんびりしてるもんなあ」
「どういう意味ですかそれ」
「隙だらけってことさ」
三日は口をとがらせる。
「それは少し、不本意です」
「そうかい。ときに、ひとつききたいんだが」
「はい」
「のんびりやで美人で若作りの、――お母さんは、人魚なのか」
ぴたりと、三日は口をとざした。
「五宝湾に人魚の伝説があるだろう。あんなところに人魚はいないというのが通説だが、それでも人魚を求めてやまない人というのは多いんだ」
淡々と、京堂は言葉をつむぐ。
「体液は毒にも薬にもなり、現に、お嬢ちゃんのクラスにも、人魚の涙を探しているヤツがいるんだってね。さっき、中庭にいたのもそのたぐいだろう。人魚の体液だから、欲しいんだ」
迷いのない京堂の足取りは、どこへ向かっているのだろう。
「人魚姫の話を知っているだろう。あんなふうに、人魚は陸にあがることがある。人魚の見分け方を、お嬢ちゃんは知っている?」
足が止まる。京堂は、三日を抱き上げ、歩きだした。
プールサイドの階段をあがる。
「肌は白く、なめらかでうつくしい。特異な体液を持ち、毒に冒されることなく、長く生きる。そして、――海を捨てた人魚は、二度と泳ぐことができない」
グラウンドのはずれに、屋外プールがあった。
三日には縁のない場所だが、夏場はもちろん、なみなみと水がそそがれている。
階段をあがり、フェンスをくぐると、水面に陽光がキラキラと反射していた。
京堂のシャツをつかむ指に、力がこもる。
「ねえ、度重なる屋外作業でも日に焼けないというのは、いささか不自然ではない? 猛毒といわれる人魚の血を浴びても平気なのは、人魚だけだろうか、とも思うんだ」
語りかけるその声は、力強い。
「しかし腑に落ちないこともある。人魚はお嬢ちゃんのように怪力だとは伝えられない。お嬢ちゃんは泳げないと聞くけれど、でも実のところ、水より怖いものがあるんじゃない?」
ざわっと肌が総毛立った。
一番嫌いなもの。けして相容れないものが、ひとつだけある。
「ムカデから逃れるために、血の池に飛び込んだというのは本当?」
三日はぱっと耳をふさいだ。
「やめて」
禍々しいその名を耳にするのも厭わしい。
なんて嫌な響きだろう。肌が虫を這い回るような心地さえする。
居すくむ体に、くすくすと笑う振動が伝わる。
「そんなに嫌い? でもじゃあ、本当なのかな。それでわからなくなったんだ。泳げないなら、飛び込まないんじゃないかってね。もし、母親が人魚なのだったら、どうだろう。力持ちなのは、父方の遺伝?」
「京堂さん」
「素直にきいたら、教えてくれる?」
「なぜ、そんなことを」
感情の色の見えない眼差しで、彼は言った。
「身辺に気をくばるよう、言っただろう。人魚は狙われるんだ。そして、オレが今確認できるのはひとつだけ」
嫌な予感がした。
ここまで連れてこられる前に、逃げ出すべきだったのだ。
(これじゃあ、のんびりしてると言われても当然だわ)
「人魚の娘も、泳げないのかな」
水面に向けて、放り出された。
遠く、誰かの叫ぶ声がした。
ばん、とぶつかった水が痛い。
恐怖に、もがいた。
彼は正しい。
(たすけて)
陸にあがった人魚は泳げない。その血の続くかぎり、もうずっと泳げないのだ。
水は重く、四肢を絡めとる。
――三日は、沈む。