第三話
三日の通う万理万里学園は、白睡山につらなる小山の中腹にある。
人の集まる都心部は、山をくだって広がる平地の先、太平洋に面した海沿いに位置し、住宅街もそのあたりを中心に広がっている。
古い街並みが今なお面影を残す観光地でもあるが、残念ながら海岸はけわしい岩場や岩壁となっていて、海水浴には適さない。
人の出入りは多いものの、それは都心にかぎったことで、あたりには緑が濃く、繁華街をはずれると、夜には深い闇に覆われる。
三日の住んでいるマンションは、住宅街のはずれの山側にある。
この春から生家を離れて一人暮らしをはじめた。
両親が気にかけるため、幼馴染の母子が住むマンションの隣室を借りている。
同い年の幼馴染は、住まいからほど近い山のふもとの公立校に通っているが、三日は電車とバスを乗り継いで、万理万里まで通っている。
それというのも、両親の強い勧めがあったからで、――三日は両親の思惑に納得がいく反面、とまどうことも多いのだった。
例えばの話をしよう。
三日は千佳とつれだって、放課後部活に顔をだした。
家庭科部だ。
部員はさして多くなく、活動内容もゆるやかで気に入っているのだが、困ったことに三日には顧問の教師が視認できない。
眼鏡をはずせば見える。割烹着姿の小粋な女性教員だ。年はおそらく三十前後。
ただし、二十年以上前から、この学校で家庭科を担当しているという。ベテランだ。
最初はかつがれてるのかと思った。次に、もしや透明人間でもいるのだろうかと考えた。
しかし、三日以外の生徒からはごくあたりまえの存在として受け入れられているようなので、ようやく三日にも眼鏡の弊害なのだと気づくことができたのだ。
顧問の朝倉は、眼鏡をかけていると衣服もろとも見えなくなる。
声は聞こえるし、朝倉が手にしている教科書や調理道具は見えるからまだいいものの、おかげで三日はよくぶつかる。
一度、朝倉が腰かけている椅子に座ろうとしたときなどは非常にバツが悪かった。
下敷きにしてしまったふとももがふわんと柔らかくて、あやうく叫び声をあげるところだった。
当人は笑って許してくれたけれど、千佳には大笑いされたものだ。
「失礼しまーす」
家庭科室に入ると、二年の尾上 京子と三年の小八木 芽衣がでむかえてくれた。
よく見ると、教壇近くのテーブルで、上白糖の袋を開けている調理バサミが宙をただよっていることから、顧問の朝倉も室内にいるらしい。
家庭科部には幽霊部員が多い。まあ言ってしまえば、顧問の朝倉からして筋金入りの幽霊なのだが、それとは別に、あまり顔を見せないという意味でのそれだ。
「今日はマフィンを焼きますよ。二人とも手を洗ってね」
朝倉の声がとぶ。
はーいと返事をして、三日と千佳はエプロンをとりだし、準備をはじめた。
家庭科部では、その場で簡単にできるお菓子を作ることが多い。
活動内容は、毎月皆で相談して決めているのだが、他には手芸をすることもあるし、園芸部の手伝いをしてその見返りに野菜をわけてもらったりもする。
なんらかの調理をする日には、火を使う関係上、かならず顧問が付き添うきまりになっている。
「もう学校には慣れた?」
とっつきにくい学校だという認識は共通のものなのだろうか。
三年の小八木 芽衣が、三日に話しかけてきた。
「ぼちぼち、ですが、たぶんまだです」
人間らしい生活をしようと考えて入学したはずなのに、人間離れした人ばかりがひしめいているのはなぜなのだろう。
見えすぎる目を封じるために眼鏡をかけているのだが、学内で眼鏡をはずして過ごしたら大変なことになりそうだ。
かくいう芽衣は、三日の見立てでは木立の精だ。俗に言うところの妖精である。
精霊ほどの引力はないが、芽衣からはいつもさわやかな新芽の香りがする。
茶色いふわふわのボブにカットされた髪も、深緑の瞳も、やわらかな人柄をよくあらわしている。
小柄で優しくかわいらしい。三日はこの先輩が好きだった。
芽衣のほうも、三日に対して感じるところがあるのか、ことのほか親身になって世話をしてくれる。
「一見、望月さんのほうがしっかりしてそうなのに、学校に馴染むのは大瓦さんの方が早いみたいだね」
もう一人の上級生、尾上 京子がおもしろそうに千佳と三日を見くらべて言った。
「ええ。あたしはもうすっかり慣れました」
千佳がうけおう。
二年の京子は、芽衣とは対照的な女子生徒だった。
千佳が一目見て、「一人歌劇団だ」ともらしたように、長身でいくぶん男性的な、女子高に通っていたら間違いなくもてはやされそうな人物だった。
髪は短く、体型もスレンダーで、身軽そうな印象をうける。
運動部に所属しているほうが似合いそうなのに、なぜこの部に入ったのかと以前たずねたところ、甘いものが好きだからという返事がかえってきた。
芽衣と京子はタイプがまるで違うせいか、仲がいい。
おかげで、部室内はいつもわきあいあいとしていて居心地がよかった。
「はい、じゃあ三日ちゃんはこの粉をふるいにかけて。千佳ちゃんはこっちのバターを練ってね。手順はここにあるとおりだから」
レシピが記載されたプリントと共に、芽衣にボウルを渡される。
手近な椅子に腰かけて、プリントにさっと目をとおす。
作り方はいたってシンプル。混ぜて焼くだけ。
芽衣と京子があらかじめスケールで計っておいてくれた粉類を、こぼさないようにふるいにかける。
粒子の細かい粉が落ちて、触れたら気持ちがよさそうだ。
テーブルをはさんだ反対側では、京子がバナナをカットしている。
「今日はバナナとチョコ、ナッツとシナモンの二種類作るからね」
「バナナチョコ!おいしいですよね」
「あら、わたしはナッツも好きよ」
千佳と芽衣が期待に瞳を輝かせて言う。
「望月さんは?」
京子にきかれて、三日は力強くうなずいた。
「両方好きです」
「そっか。私と一緒だね」
プリントを見ながら、粉にバター、砂糖、卵、牛乳を混ぜいれ、それぞれの具材とともに型に流し入れた。
味は二種類。全部で六十個ものカップができる。
いつも少し多めに作って、余ったぶんはお土産として家に持って帰ることになっている。
たまにお菓子作りの日だけ参加して、意中の男子に差し入れをする生徒もいるらしいのだが、三日はまだ顔をあわせたことがない。
「たのしみだね」
そう言って、京子がオーブン二台にカップをセットする。
焼きあがるまでの三十分、使った道具を洗いながらおしゃべりをする。
顧問の朝倉は、雑談にときおり参加はするものの、活動にはほとんど口をはさまない。
調理後のお茶会に加わることもあるけれど、嬉しそうにおすそわけを受けとって、準備室に下がることもある。
今日は参加するつもりがあるのか、率先してお湯を沸かし、紅茶の準備をはじめていた。
朝倉が動き回っているときは、三日はじっとしているように心がけているので、片付けが終わったあとは大人しく千佳のおしゃべりに耳をかたむける。
「聞いてくださいよ、今日、お昼に副会長とお話ししちゃったんです」
「一之瀬くんと?」
「そうなんです。美人でした!」
うなずく芽衣とは裏腹に、京子が首をかしげている。
「美人……かなあ」
「京子先輩、なんでそんな疑問形なんですか。三日と同じような反応しないでくださいよ」
「いやだって。きれいっていうより、おっかなくない?」
「怖くなんてないですよ、すごく優しい人でした。一緒にいた会長の方はすこし近づきがたいタイプだったけど、でもああいう寡黙なのがいいっていう人も多いですよね」
「うーん、そうかねえ」
腕を組んで京子が考えこむ。
「私にはどちらも似たり寄ったりに見えるけどなあ」
「京子は外見より中身を重視するのよね」
「性格はなにかとにじみ出てくるからね」
千佳が釈然としない様子で言う。
「まるで副会長の性格が悪いみたいな言い方じゃないですか」
京子が肩をすくめた。
「性格がよかったら生徒会なんてやってられないよ。あ、でもうちのクラスの九条はいいやつだよ、そういえば」
「九条さん?」
誰のことだかわからない三日とはことなり、千佳には合点がいったようだ。
「ああ、書記の人ですね。あの人もきりっとしてますよねー」
「生徒会の人間でまともなのはあいつくらいだね」
「そんなに生徒会の人たちって偏屈ぞろいなんですか」
三日がきくと、芽衣が表情をやわらげた。
「大丈夫、皆まじめな人たちだから」
「そうそう。ダメですよ、ミカはなんでも真に受けちゃうんだから。京子先輩は生徒会がキライなんですか?」
「べつに嫌いじゃないけど。お近づきにはなりたくないだけで」
「へえ。あたしなんか、あんなにきれいな人なら、いつだって見ていたいけどなあ」
「千佳ちゃんはきれいな人が好きなのね」
芽衣に言われて、千佳は拳をにぎった。
「美人は大好きです! 見てるだけで幸せになります。そういえばこの学校はきれいな人が多いですよね。あたしここに来てよかったな」
「ええ、わたしもここの緑豊かな土地柄が気に入っているの。でも、山の中で不便だからって敬遠する人もいるわよね。二人はどうしてここに来ようと思ったの?」
「私は親の勧めで」
「あたしは、受験した公立に落ちちゃって。モデルやってるかっこいい先輩がいるからって、ちょっと高望みしちゃったんですよね」
頭をかく千佳に京子が感心したように言った。
「すごいな。大瓦さんの面食いも堂に入ってるね」
「はい。きれいな人に囲まれて過ごすのがあたしの夢です。あ、そういえば」
「うん?」
「ふもとの男子校に、今年は王子様が入ったそうですよ」