第九話
高槻という男が丸薬を投げると同時に、皐月に体を投げ飛ばされた。
(いやあぁぁぁ……!)
皐月はコントロールがいい。投げるのも蹴るのも、それはもう昔からだ。
空を切った三日の体は、奏をかばう茜の背中にヒットした。
ぶつかる直前、飛んできた丸薬をとっさに受け止めた覚えがある。
手のひらで玉が割れ、血がはじけた。
「いったぁ」
強く打った背中もさることながら、目に入った血のしぶきがじんじんとしみる。
「皐月、ひどいよ」
目元をこすって体を起こす。
やけにやわらかいと思ったら、奏と茜をクッションにしていたようだ。
助け起こそうとして、両手が赤く染まっていることに気づき、思いとどまる。
(ああ、こういうの見たことがある)
小さな丸薬にどれだけの血液がつまっていたというのか。潔いほど血にまみれた手のひらは、さながら十夜の左手のようだった。
ひとまず体操服のすそで手と顔をぬぐい、立ち上がる。
苦痛に顔をゆがめる奏と目が合った。
「……大丈夫?」
「いや」
力なく奏が首を振る。
「ごめんね」
皐月のせいだと思うのだが、代理でひとまず謝罪をしておく。
奏の上でつっぷしていた茜が、首だけひねって苦笑をもらした。
「あきれた力技ね。あやうく少年にケガをさせるところだったじゃないの。――でもまあ、助かったわ。あなた、平気なのね」
そうして、しっしっと、追い払うように手を振った。
「もう少し離れてちょうだい。あたしまだ思うように動けないのよ。あなた血まみれだし、触れてしまったら困るじゃない」
地面に点々と飛沫が飛んでいるものの、どうやら二人に害は及ばなかったらしい。
(そこまで毛嫌いしなくてもいいようなものだけど)
いくら人々が口をそろえて人魚の血は有害だと主張しても、あいにく三日には実感がわかない。
(人魚そのものが嫌われているようで、少し傷つくんだよね)
しかし茜のおもては真剣で、言われるがまま、一歩下がった。
「なぜだ。なぜ平気なんだ」
声がしてふり向くと、高槻が白い顔をして三日を凝視していた。
「ありえない。人魚の血を浴びて平然としているなど、ありえないんだ。ましてや、素肌に直接触れて、……どうなってる」
見ると、高槻の膝がガクガクと震えている。
まずは落ち着いてもらおうと向き直った三日に、彼は顔を引きつらせて声を上げた。
「寄るな、化け物!」
「おいこら、ふざけんな」
高槻に歩み寄った皐月が、ガツンとゲンコツを振り下ろす。
悶絶する彼を見下ろし、皐月は説教を始めた。
「お前な。ひとの身内つかまえて、化け物呼ばわりとはどういうことだ。物騒な物振り回してるのはお前だろ。何を取り乱してるのかは知らないが、こっちはお前が加害者にならずにすむように体はって止めてやったんだ。オレのあつい友情に感謝こそすれ、罵倒するとはいい度胸じゃないか、なあ」
「痛て、痛ってぇ、マジで痛いって!」
「三日に謝れ」
「何で俺が。邪魔したのはそっちだろ」
皐月の眉がはねあがる。
「高槻が暴走するからだろうが」
「どうすんだよ、溜血丸使っちまって。吸血鬼を野放しにするわけにはいかないってのに」
「ああ」 皐月の瞳がすっと冷めた。
「高槻お前、そこのお姉さんを捕まえたかったのか」
なるほどな、とつぶやく皐月に、高槻が怯えと焦燥の混じった声で言いつのる。
「そうさ、だが打つ手がなくなった。ヤツは牙をもっているのに、どうしたらいい」
「そうだよなあ。よし、まずは落ち着くか」
ポンと皐月が肩をたたく。
「そんで、ちゃんと三日に謝るんだぞ」
「悠長なこと言うな!」
取り乱す高槻に、ツヤのある女性の声がかけられた。
「自力で落ち着くことができないのなら、無理にでも落ち着けるように周囲が手伝ってあげればいいのよ」
ふらりと立ち上がり、歩いてきたのは、音無 百々だ。
「やっと動けるようになったよ。奏、大丈夫?」
柾木もよろめきながら、奏の元へと駆けつける。
百々は高槻の前に仁王立ちをして、皐月に声をかけた。
「生徒会の一員として、彼に話をききたいの。キミ、彼の両手を少しの間持っていてくれない?」
「はい。こう?」
「ありがと」
皐月が高槻の両手をとると、百々はポケットから赤い細縄を取り出した。
「やっと実践できるわ」
かすかに声がはずんでいる。
「おい、よせ!」
くるくると巻かれる縄を見て、高槻は暴れるが、皐月のつかんだ両手はびくともしない。
手、胴、足と、キュキュッと手際よく巻かれていく様は、まさに職人芸ともいえるもので、三日はひそかに感心した。
「ほうら、きれいに結べたわ」
全体を見直し、満足げに胸をはる。
「橘さんに教えてあげなくちゃ。ちゃんと技術を活かせたのよって。あの人、てんで懐疑的なんだもの」
拘束された身柄を百々に引き渡した皐月が、呆然とつぶやく。
「すごいな。見とれちゃったよ」
「修練のたまものよ」
ほめられ百々はほこらしげだ。
「俺をどうするつもりだ。それ以上にお前ら、そこの吸血鬼をどうするつもりだ」
体の自由を奪われた高槻がほえる。
「オレも、あまり手荒なことはしないでほしいんだけど。友人としてはさ」
皐月が言うと、百々は周囲を見回し、うけおった。
「いいわ。当事者同士で話し合いの場を設けましょう。大丈夫よ、だって誰も実害をこうむってないもの。ひとまず、そっちの動けない二人もまとめて、身柄は移動させましょうか」
百々が今度は携帯を取り出し、誰かに通話で人手をたのむ。
「九条を読んだわ。すぐ来てくれるって。……ところで」
百々が検分の眼差しを三日に向ける。
「望月さん、ひどい格好ね。あなた体調は平気なの? やっぱり近づいたら危ないのかしら」
「いえあの、ええと。どうでしょう」
返答に困り、きょどきょどする三日に代わり、茜が口をはさむ。
「空気に触れると毒性はとぶはずよ。たぶんそろそろ、触れても平気な頃合いね」
「へえ、そうなんだ」
つぶやくと、茜がうろんな目を向ける。
「どうしてあなたが知らないのよ」
「そんなこと言われても」
世間一般の常識ではないと思うのだが。
「なんにせよ、血まみれのままってわけにはいかないだろ。三日、オレの着ろよ。手と顔もどこかで洗った方がいいな」
脱いだ服を差し出し、皐月が首をひねる。
「だけどさ、ちょっとドキドキするよな。うっかり川とかで洗ったら、魚浮かんできそうじゃないか?」
「おどかさないでよ」
人魚の体液は毒にも薬にもなるという。強い毒性を持つ反面、解毒作用も有しているのだ。
もしかしたら、川魚だっていっそう元気になるかもしれない。
そんなことをつらつらと言いあううちに、生徒会書記の九条が駆けつけ、他二名の男子生徒とともに高槻、茜、奏の三名をかつぎあげた。
人目をさけて駐車場に運ぶというので、奏につきそうという柾木とあいさつを交わし、三日と皐月は別行動をとることにした。
別れ際、百々が高槻に、「三年生がいなくてよかったわね。容赦ないのよ、うちの副会長。命拾いしたねぇ」と、こぼしていたのが心に残った。
手と顔をぬぐい、皐月の服を上だけ借りて、千佳と涼一の元へ戻った。
道々気づいたのだが、血痕を残しているよりマシだとはいうものの、他校の体操服を着ているというのは、えらく人目を引くのだった。
戻ったころにはゴミ袋はぱんぱんにふくれていて、千佳が張り切って三日たちのぶんまで働いてくれたというので、お礼を言った。
「危ないことはだめだと言ったのに。困った人だね、三日さんは」
顔を見るなり涼一が眉をしかめる。
「ミカ。服、どうしたの?」
「汚しちゃったから、皐月に借りたの」
「ケガはないかい」
問いかける涼一にうなずき返して、すっと背筋が寒くなる。
いつもと変わらぬおだやかな微笑を浮かべているのに、まとう空気だけがひややかなものに転じたような、そんな気配を感じたのだ。
「涼一さん?」
(怒らせちゃったのかな)
心配する三日の頭を、ひんやりとした空気をまとったまま、涼一はよしよしとなでた。声を潜めて言葉をつぐ。
「ケガがないならいいんだ。けれど、少し目を離したすきに返り血を浴びてくるなど、君はけっこう危なっかしいね」
「えっ。まだ汚れていますか」
「いや。でも血の匂いが残ってる」
思わず肩口をかいでみる。
「元気があるのはいいけれど、ほどほどにね」
ふっと空気が軽くなる。
体を離すと、涼一は自分のゴミ袋を手にして背を向けた。
「じゃあ僕はこれで」
立ち去る背中に、千佳がすがるような目を向ける。
半端にふりあげた腕を、所在なさげに動かして、声をもらした。
「あ……。待って、待って」
「千佳?」
駆けだした千佳に呼び止められて、涼一が足をとめた。
「あの、あたし、涼一くんにききたいことがあったの」
「うん、千佳さん。どうしたの」
「あのね、あたしね」
じわじわと、千佳の頬が赤みを増した。
握った拳に力がこもる。
「今日、一緒に作業ができてうれしかったの」
「そうだね、僕もいろいろな話が聞けて楽しかったよ」
「ううんと、そうじゃなくって、あのあたし」
「うん」
「あたし、涼一くんが好きなんだ。つきあってくれないかな」
(うわあ、千佳。うわああ)
思わず三日も前のめりになり、緊張の汗をながした。
「おー、告白」
皐月がほほえましげに二人を見やる。
「僕?」
涼一が首をかしげると、千佳はぶんぶんとうなずいた。
「そう。そうなの。現時点で意識されてないのはわかってるんだけど、考えてみてほしくて」
「そうか」
まばたきをする涼一に、千佳の喉がごくりと音をたてる。
「こんなにかわいらしい娘さんに好意をよせられるのは久しぶりで嬉しいよ。申し出は受け入れたいところなんだけど、実は僕、結婚してるんだ」
(え?)
涼一は言った。
「妻とはもうずっと会えずにいるんだけれどね。あの人、嫉妬深いから。ごめんね」
「ええええ!」
三人のすっとんきょうな声があたりに響いた。
さらりと澄んだ笑顔を残し、涼一は立ち去った。
振り返ることなく遠ざかる背中は、唖然とする三日たちの混乱ぶりなど気にもとめてはいないようで、そのとらえどころのなさは、両手にすくった水のようだと思う。
「結婚」
目を見開いたままの千佳がつぶやく。
「待て、いくつだ。同い年じゃなかったのか」
皐月も釈然としない様子だが、渦巻く疑問に答えられる人物は、この中にはいないのだった。
どっと疲れた気分になり、学校に戻った放課後のことだ。
「よう、お嬢ちゃん。見てたぞ、さっき校歌を歌ってなかっただろう」
「京堂さん」
呼び止めたのは、体操部の京堂だ。
「ひとりだけ男物の服を着ていたし、目立ってたからな」
「はあ」
ゴミ拾い終了後、広場に集合した両校の生徒は、ブラスバンド部の演奏を聴いたあと、互いに校歌を歌って解散した。
三日の鞄の中には、血に汚れた自分の体操服の他に、皐月の服も入っている。
「少し、疲れてしまって」
千佳は実行委員の反省会に参加している。
沈みがちな彼女が心配で、待っていようと思ったのだが、一人で気持ちの整理がしたいから先に帰ってほしいと言われたのだ。
「京堂さん、失恋したことってありますか」
「いいや、ないね。なんだ、好きなやつがいるのか?」
京堂の瞳が楽しげな光を帯びる。
「恋する乙女、いいねえ」
「私じゃありません。友達が」
「なんだ、違うのか」
「どうフォローしていいのかわからなくて」
つまらなさそうに京堂は肩を回した。
「放っておけばいいんじゃないのか」
「そういうものなんでしょうか」
ため息をつく三日の額を、彼は小突く。
「ひとの心配をしてる場合じゃないかもしれないぞ」
「どういう意味です」
からかいまじりの表情をあらため、京堂は顔を寄せた。
「美術部に行ったんだ。知ってるだろう、浦和 涼一」
(涼一さん?)
「このところ奴が描いていた作品が仕上がったというので、見に行ったんだ。できばえを確認してほしいと依頼を受けて」
「そんなことまで引き受けるんですか」
「ああ。それで、見てきたんだよ。人魚の絵を」
はっと息をのむ。
「どうでした」
「似てた」
まっすぐな眼差しが三日をつらぬいた。
「そっくりだった。お嬢ちゃんに。モデルを引き受けたのか?」
「いいえ」
「そうか」
京堂の眉が寄せられる。
「だったら、ささやかなアドバイスだ。当分、身辺には気をつけたほうがいいかもな」
「なぜです」
見つめ返す三日に、京堂は告げた。
「似ていたんだ、人魚に。まるで、――本物のようだった」
第四章はこれでおしまいです。
次話から最終章に入ります。