第六話
「固まったみたい」
部長の芽衣が冷蔵庫をのぞきこんで言った。
家庭科部の今日の活動内容は、トマトゼリー作りだ。
冷蔵庫から出されたトレーに、赤く涼しげなゼリーが光を反射し、並んでいる。
「かわいいものね」
見学に来ていた茜がつぶやいた。
「さっそく試食会にしましょう」
芽衣の指示で、おのおのお茶の準備を始める。
三日が並べたグラスに、京子が冷やしておいたジャスミンティーをそそいでいった。
芽衣はゼリーとスプーンを人数分ならべ、にこやかに茜に話しかけている。
「さっぱりしていて、食べやすいと思うの。酸味は平気?」
「ええ。酸味や渋みはむしろ好きなの。楽しみだわ」
席についた茜の隣には、久々に顔を出した一年の原田 正樹がはりついている。
美女に弱いと公言する彼は、なんでも、茜の参加をかぎつけたようで、相好を崩し彼女に寄り添う。
逐一茜に話しかけて世話を焼く原田と、警戒心をあらわにして厳しい目を向ける京子がいるおかげで、家庭科室にはいつもと異なる空気が流れていたが、当の茜と部長の芽衣がのほほんとしているため、いたたまれないほどの険悪さは生じていない。
それでも三日は、茜に対して苦手意識を抱いていたので、無事に部活が終えられるようにと祈っていたのだ。
全員が席につき、京子をのぞいた全員が、談笑しながらこの日の成果を口に運んだ。
もっとも三日は、相槌を打つくらいしかしてはいないが。
「冷たくておいしい」
ゼリーののどごしはなかなかのものだった。
「望月さん、一緒に帰りましょう」
意外なほどひかえめな態度で部活にのぞんだ茜が、そう声をかけた。
「え、いや、なぜ」
およびごしになる三日に、茜は気安い態度をとる。
「だって同じバスに乗るんでしょう。せっかくだから、おしゃべりしながら帰りましょうよ」
「いいね、ぼくもまぜてよ」
この日上機嫌だった原田が、口をはさむ。
「千葉さんと望月さんとじゃ、両手に花だな」
「決まりね。行きましょう」
左手を茜に引かれて歩き出す。
(わあ、強引)
おしなべてクラスメイトにはよそよそしい態度をとってしまいがちな三日だが、茜に対しては本当にどういう態度で接すればいいのかわかりかねる。
それはおそらく、彼女の意図するところが見えないからだが、あえて自分からたずねてみるだけの気概もないのだった。
生徒用玄関から外に出ると、ブラスバンド部の奏でる音色が耳を打った。
草花の手入れをする園芸部の面々も見える。
それでも、運動部のいるグラウンドや体育館となると話は別なのだろうが、部活を終えてからの下校となると、周囲に人気はあまりない。
原田と茜の会話を聞くともなしに聞きながら、校舎を出てバス停へと向かう。
だが、校門をくぐってまもなく、三日の手を引いたまま、茜がぴたりと足をとめた。
三日も、低くかすかなうなり声を耳にし、あたりを見回す。
学園は山の中腹にあり、視界は悪い。
「ふたりとも、どうかしたの」
原田がいぶかしげな声をあげる。
空気がざわついていた。
低い位置にいくつもの気配がある。
(動物だとは思うんだけど、でもどうして)
周囲の茂みをかきわけて、のっそりと現れたのは、野犬の群れだった。
うなり声をあげて警戒している。
「うわっ、え、……犬?」
原田は目を丸くした。
(変ね)
野犬がいるなど聞いたことがない。
隣の禁山ならともかく、ここは人の手が入らない山とは違うのだ。
ましてや、三日を前にして牙をむくなど、通常あることとは思えない。
「あらいやだ。物騒ねえ」
茜の声に不快の色がにじむ。
現れた犬には明確な目的があるようだった。
三日たち三人を囲みながらも、その目線は茜ひとりに向けられている。
「ケンカを、売っているのかしら」
いずれも大型の犬だった。五頭いる。
茜は一頭一頭に目をとめて、唇をぺろりと舐めた。
隙間から、存在感を放つ牙がのぞく。
吸血鬼は鬼の眷属だ。野犬のかなう相手ではない。
獣は聡い。通常ならば、あえて向かってくることなどないだろう。
それがひるむ様子もみせないとなれば、可能性としてはよほどの動機が存在するのか、もしくは何者かに使役されているのかもしれなかった。
これが妖怪同士であったり、人間同士であるならば放っておいた。
しかし相手は無垢な獣だ。
敵意をつのらせる茜を前に、見捨てるのは気が引けた。
茜の右手が、手首から離れた。
「獣風情が、目障りだわ」
悪意をにじませて、一歩を踏み出す背中を見た。
意を決し、とっさに三日は息を吸い込む。
気道を広げ、空を仰ぐ。
夕暮れ時でもまだ明るい、さわやかな空だった。
胸の中で空気を練り、喉を震わせて声を発した。
幼い頃、皐月のマネをしてよく遊んだ。――狼の遠吠えだった。
ウオォォォォーン……と、大気が鳴る。
心地よい痺れが、肌に伝わる。
音が拡散すると、一転してあたりは静まりかえった。
原田は目を丸くしているし、茜は感心した様子でこちらをうかがっている。
三日は親しみを込めて野犬と順に目を合わせ、意思を込めてこう告げた。
「ここはあなたたちの来て良いところじゃないの。散りなさい」
まき散らしていた敵意が霧散し、犬の目には理性が宿った。
ふっと気が逸れたように、野犬は体を反転させ、茂みの向こうへと去っていく。
はーっと息をつき、原田が体の力をぬいた。
「なんだ今の。怖かったなあ」
「余計なことをするものね。でもまあいいわ。余計というなら、最初にちょっかいを出してきた側こそが余計なのですもの」
茜が眉をつり上げ、木陰に目をやる。
下生えが揺れ、制服をまとった男が一人、姿を現す。
八重樫高校の制服だ。
黒くカールした髪が特徴的な短髪の男は、茜に鋭い視線を向けて、口をひらいた。
「見つけたぞ、お前だな」
「あたしが何か?」
「人にたかる寄生虫め」
語気が荒い。
「失礼ね。言いがかりはよしてちょうだい」
男は警戒もあらわに、姿を見せた木陰から一歩も動かず、口だけを動かす。
「さっきの犬が教えてくれたんだ。お前が俺の探してる獲物だって」
「んー」
興の乗らない様子で、茜が顔をしかめた。
「冴えない口説き文句ね。あなた、あたしの記憶にはないのだけど、どこかで一目惚れでもしちゃった? こんなところまで追ってきちゃって、ごくろうね」
男は、はっきりとした不快感をおもてに出す。
「この街に住む者として、お前のような存在を見過ごすわけにはいかない」
「呆れた正義感だこと。藪をつついて蛇を出すって、こういうのを言うのかしら」
「藪に潜んだ毒蛇を、放置するよりいいだろう」
すっかり置いてけぼりにされる三日と原田だったが、このとき三日はいささか面白くない気分を味わっていた。
(吸血鬼と蛇を一緒にしないでよ)
三日の育った禁山は、白蛇を山神として奉っている。
白睡山の名の由来がそもそも、神たる白蛇の眠る地であることから来ているのだ。
この街は蛇のお膝元で、三日の感覚からすると、蛇とは母も同然なのである。
「俺たちはお前のような存在を許さない。この街から出て行け」
「まだ何もしてないのに、心外だわ」
「存在が有害なんだよ。それに、何かあってからじゃ手遅れだ」
「だいたい、あなたに何ができるというのよ。……人間のくせに」
見下したような物言いに、男は挑発的な視線を返した。
「何が出来ようが関係ない。俺はお前を追い返すだけだ」
緊張のせいか、男の顔も手も、やけに白い。
茜の言うように彼が人間なのだとしたら、力ではとうていかなわない相手と相対しているのだ。
可能かどうかは別として、決意を口にするだけでも見上げた根性だとは思う。
(でも私、バスに乗り遅れたくはないんだよね)
視線を戦わせる二人は置いておいて、腕時計に目を向ける。
(ああほら、あまり時間がないじゃない)
八重樫の制服をまとった青年は、おそらく吸血鬼としての茜を敵対視しているのだろう。
だったら、続きは二人でしたほうがいい。
そう考えて、三日は原田の袖を引いた。
「ねえ、どうやら込み入った事情があるようだし、私たち先に帰らない?」
「え、うん?」
「あと五分でバスが来ちゃうの。どうやらお邪魔のようだし、もう行こう」
「でも……」
原田は気遣わしげな視線を茜に向ける。
「私、ひとりでも行くよ」
もとより、一緒に帰る義理などない。
その場を離れようとした三日に、茜がぱっと顔を向けた。
「え、やだ、望月さん帰っちゃうの。あたしも行く」
「いや、どうぞゆっくり話をしていって」
「いいのよ。あたしはべつに用なんてないもの」
「そんな……」
三日がちらりと青年に目を向けると、彼は肩をすくめて冷ややかに告げた。
「構わないよ。元々、今日はターゲットを見極めに来ただけなんだ。これ以上は俺もそいつに用などない」
茜が冷ややかな眼差しを向ける。
「本当に失礼ないいぐさ。礼をわきまえないと、長生きできないわよ」
「不自然に命をながらえる方がよほど病んでる。外道の仕業だ」
つん、と茜はそっぽを向いた。
「もういいわ、行きましょう。気分が悪いったら」
ふたたび茜は三日の手をとる。
「ほら、帰るわよ。吠えるだけの犬は放っておきましょう」
厳しい眼差しを背にうけて、三人はその場をあとにした。
なんとなく、立ち去り際に会釈をすると、男は不味いものでも飲み込んだような顔をした。
幸薄そうな顔だった。
騒動が収まった頃合いをはかって、奏は校門をくぐり、外へ出た。
一度帰宅しようと門を出たのだが、その際、不穏な空気をただよわせる茜を発見してしまい、巻き込まれるのも同じバスに乗るのもごめんだと、とって返して時間をつぶしていたのだ。
(さすがにもういないな)
ほっとする奏の元へ、すずめが一羽飛んでくる。
小さく丸められた紙くずが、すずめの口から足元へと落とされた。
(朔?)
幼馴染みが、好んで使う伝達手段だ。
ノートの切れ端らしき紙を、つまみ上げて広げる。
『駅で待ち合わせをしよう』
そうあった。
メールじゃだめなのかといつも思うが、これも野生の生き物と親しむ訓練の一環なのだという。
そうして向かった先で、奏は朔に一人の男を紹介された。
「同じクラスの高槻くん。ヴァンパイアハンターの卵なんだって」
くらりと目の回る思いがした。
「どうも」
互いにぎこちなく、挨拶を交わす。
高槻は、くせの強い黒髪の男だった。
いくつか会話をするうちに、奏が校舎にとって返すことになった先ほどの騒動が彼のせいなのだとわかる。
「なぜ、アレにわざわざ突っかかるようなマネをするんだ」
逃げるならともかく、自分から近づくなどと、気が知れない。
そう言うと、高槻もしぶい顔をする。
「正直なとこ、俺もびびった」
聞くところによると、彼はハンターとしては半人前どころか、卵の殻も割れていないような状態なのだという。
(おいおい、だったらやめておけよ)
無駄に命を散らすことなどないと思うのだが、彼の意志は固いようだ。
「だからって、己の未熟を盾にもできないだろ」
「そんなものかね。勇敢なのと無謀なのとは、別だと思うな」
吸血鬼に会うのもこれが初めてだとのことで、恐ろしさが身にしみていないのかもしれない。
高槻に、奏が吸血鬼の被害をこうむっているという話はしていない。
朔が、単に「万理万里に友人がいる」と告げて、引き合わせただけのようだ。
「明日の校外学習で、一緒になるだろ」
高槻は言った。
「そこで、仕掛けてみようと思うんだ」
(……死ぬぞ)
苦々しさが口にあふれる。
「手伝えなんて言わないよ。ただ、そちらの生徒にも、事情を把握しておいてほしいだけだ」
奏はぐりぐりとこめかみをもみほぐした。
「勝算はあるのか」
納得のいく答えが得られないなら、殴ってでも止めるべきかもしれなかった。
だが、意に反して高槻は、自信を浮かべて顎をひいた。
「ある。ひとつだけ、捕らえる手段があるんだ」
「それは?」
「危険だから見せられないけど、持ってるんだ。不死ともいわれる吸血鬼ですら、ひとたまりもないような劇薬を」
「そんなのあるのか」
奏と朔が、身を乗り出す。
「それを使おうと思う。溜血丸。――人魚の血を煮詰めた丸薬さ」